名実91 {119単独}(285~287 事件に対する3人の思い。そして大島へと切り込む)
道警本部に到着して刑事部の応接室に入ると、既に出前の特上寿司が、刑事部長である五条の図らいによって届き、準備されていた。今回の成果への報酬としては、余りに安価過ぎる対価ではあったが、竹下はそれをお首にも出さず、「こいつは美味そうですね」とそのまま喜んでくれた。
しかし、それは感情として表にしなかったというよりも、竹下からすれば心底どうでも良いことだったという方が、実態として正しいと言えた。竹下が7年もの間、真に欲していたはずのモノは、捜査上の「心残り」と、本橋に事実上敗北した「プライド」を取り返すことであり、それが完璧とまでは言えなかったとしてもほぼ出来た時点で、既に他者からの賛辞など大した意味をなさないものとなっていたからだ。但し、プライドを取り返すという意味では、この捜査の前までの「復讐」というものとは、異質の結末を迎えていたことは言うまでもない。
そして今回は、竹下にとって思ってもみなかった収穫もあった。それは、本橋という犯罪者の生い立ちと、深く関わった人物達との一瞬の交流である。
温かい交流と単純に言い切ってしまえば、捜査権限自体が無いとは言え、重大事件の「調査」と言う役割を担っていた竹下にとっては、ある種の職務放棄的なマイナスイメージが付く言葉でもある。
しかし、1人の利発で人間味のある少年が、その家庭環境故にいつしかヤクザとなり、更に連続殺人犯へとどう変貌して行ったか、そしてどういった心境の変化の過程があったのかが、身近に居た人間の口から、そして本人が遺した証拠物からおそらく明らかになったことは、1人の人間の情として、連続殺人と言う救い様の無い極悪犯罪の流れの中では、多少の救いにはなっていた。
寿司を頬張りながら、竹下は西田や吉村に、電話だけでは伝えられなかった、大阪での詳細な出来事を話した。
西田達も、興味深く大阪での出来事を聞いていたが、イタコと管鮑の交わりの件については、竹下は2人にも敢えて一切伝えることはなかった。それは語る必要が無かったというより、部外者には語るべきではないと、竹下自身が強く思ったが故の判断だった。
※※※※※※※
「運命って奴ですか、本橋が人殺しになったのは……。しかし、その黒田って親友のおっさんも、それだけの関係で、それだけ正義感が強いなら、本橋をヤクザにさせないことは出来なかったんですかねえ……」
ウニの軍艦巻きを一口で「葬り去った」後、吉村がやり切れないと言った感じで嘆いた。
それを受けた竹下は、
「黒田さんも、その点はかなり後悔はしてたと思う。ただ、近い関係だからこそ、踏み込めない領域ってのは、案外あるもんじゃないか? 周囲の人には恵まれていただけに、ああなる前に更生の余地はあったとは俺も思うけどな……。そもそも、本人も知力は高かったわけだから、そこを他者の責任にしても仕方ないだろうし、何より本橋自身がそんなことを言い訳にしたくないと思う」
と返した。
「運命か……。確かに、ともすれば、安直な言葉かもしれないが、やっぱり事実だよなあ。俺が刑事やってるのも運命と言えば運命だ。思春期には、まさか刑事なんてやってるとは想像すらしてなかったわ。後から見れば、『ああすれば良かった、こうすれば良かった』なんてのはザラにあるけど、その時は抗えない流れってもんもある。そりゃ、それに流されるのが悪いというのも、否定出来ない事実だけどさ」
西田は、あたかも達観したかの様な物言いをしたが、
「運命は自分もあると思います。ただ、最終的に運命に左右されるのが人生だとしても、流されるまま流されるか、自ら棹差して一度は抵抗するか、そこで違いは出るんじゃないかと思いますよ。結果がどうなるかは別として」
と、竹下はやんわりとだが部分的に否定してみせた。
「うむ、確かに無責任な言い方だったかもしれない」
西田は笑いながら、軽く反省してみせたが、
「西田さんどうこうではなく、自省を込めてです。残念ながら、自分は流されはしなかったが、逃げ出してしまったんで、もっと質が悪いやり方をしたと言えるかもしれませんからね……。今回、それなりに取り返せたとは思いますが、やはり完全に納得出来るようなもんでもない」
と、竹下は思案げに語った。完璧主義者にとっては、自分自身でほぼ取り返した上に、「時が解決する」という合成があったとしても、万事解決という心境にまでは行かないらしい。
その後の3名は、何となく寿司を頬張り、食べるのに夢中という訳でもないのに会話も弾まなかったが、不意に、
「それにしても、本橋も東館も、やけに義理堅いところがあるが、それがあくまで兄貴や親分に対する、言わば内向きの方向に向けられるだけで、外部へは思慮が足りない、短絡的な殺人という結果になってる。そこが、取り調べてる方としても、やり切れなさに拍車を掛けちまうんだよなあ……」
と言って、西田は酷く残念がった。
それに対して竹下は、
「一々言うこともないでしょうが、身内って理屈抜きに守りたくなるでしょ……。まあ、その理屈抜きってのが、ある意味内向きの論理の本質なんですけど……。だからこそ、外部に対しては、ちゃんとした理屈や論理、そして倫理が必要になる。2人だってわかるでしょ? やっぱり組織ってもんは、所属する人間にとって裏切りにくいんですよ……。それは警察だけに限らず、どんな組織人でも同じ気持ちだと思います。それに、組織を守る為じゃないとは言え、本橋の2人の知人を守る為に、大阪府警のグレーな申し出を、そのまま受け入れてしまったんですから、自分も今回ばかりはとやかく言う資格はないでしょうね……」
と返した。
しかし、吉村が、竹下の意見に、珍しく真っ向から噛み付いた。
「そこら辺については、いつもは頭の堅過ぎるぐらいの竹下さんにしては、やけにおかしな意見で、俺は違うと思いますね! 例え内向きだろうが外向きだろうが、人を殺すってのは、倫理みたいな大層な理屈で、大抵の人は抑えているんじゃないと思いますよ! もっと単純に、殺したくないから殺さないんですよ! 殺したい衝動を、さも倫理やら法やらの、大袈裟な理由を付けて我慢してる訳じゃない! 逆に戦争なんてもんは、その人殺しをむしろ理屈で、無理やり正当化出来る典型例でしょうよ。だから、その点については、連中は残念だけど、人が本来持ってるべき大事な部分が、おかしな理屈によってむしろ麻痺してたんですよ! 例え根っこの部分がそうじゃなかったとしてもね……。凶悪な犯罪であればある程、人ってのは、しちゃ駄目だからしないんじゃなく、元々本能的に避けるもんなんですよ……。だからこそ、起きてしまった時には凶悪犯罪とされるんです! 逆にね……。そこを、内輪の論理が勝ってしまったからこそ起きたなんて、ちょっとでも誤魔化すなんてのは、絶対認めちゃいけないし、別の次元ですよ!」
その熱弁を黙って聞いた竹下は、
「幾ら何でも俺だって、内輪の論理の殺しに、一定の理解を示している訳じゃないぞ!」
と、珍しく息巻いたが、すぐに冷静になり、
「それにしてもなるほど……。『殺したくないから殺さない』か……。確かに本気で誰かを殺したいなんて思ったことのある奴の方が、世の中じゃ圧倒的に少ないだろうな……。むしろ倫理なんてもんで、殺人への禁忌を語ろうとしたことが、人間てモンを本質的に馬鹿にしてたのかもしれないか……。犯罪が、むしろ理屈次第で正当化出来るなんてのは、あの教団がサリン撒いた時も、教祖が、「殺される人の魂が救済されるとか何とか」言って正当化したから、信者がそれに従っただけだったもんな……」
と、吉村の考えに改めて思う所があったようだった。
事実、7年前の95年は勿論、それ以前にも発生していた、あの宗教団体が起こした多くの凶悪犯罪行為は、教祖の犯罪の正当化の「屁理屈」に、信者が盲従していたことが原因だった。そして、その信者達の多くが、元は「心優しき」人物で、世の中の人を助けたいと願い、そして現実に悩む人間だったこともまた確かだった。彼らが、「もっともらしい」理屈によって、むしろ犯罪に積極的に加担して行ったというのは、大きなパラドックスと言えた。
その事実を踏まえれば、中途半端な理屈がむしろ悪用されて、犯罪の正当化に利用されることがあるという吉村の言葉は、何も戦争だけに該当する訳ではなかろう。そして西田もまた、妙に説得力のある吉村なりの「哲学」として、論評は一切しない一方で納得しつつあった。
ただ、殺人は別問題としても、外部に対して「内輪のおかしな論理の優先」というものは、人間が社会の枠組みの中で存在している以上、誰にとっても常に影のように付きまとっている課題であることもまた事実だ。その点は、どうやっても個人の意志や能力だけでは克服出来ないことの様に、西田には改めて思えていた。否、そうだからと言って、個人は何もせず、流されたままで許されるという訳でもないのだろうが……。
※※※※※※※
「ところで、今回出て来た証拠で、大島の佐田殺害に対する再逮捕のアプローチは?」
寿司を食べ終わり、腹ごなしにタバコを吸っていた西田に、竹下は質問した。
「逮捕状請求する前に、大島に今回のテープを聞かせて、揺さぶろうとは思ってる」
「それはそこそこ効くとは思いますが、裁判上の『伝聞法則』の扱いについて、例え知らなかったとしても、弁護士のアドバイスで確実に知恵をつけてくるでしょうし、瀧川の方が口を割るとも思わないでしょうから、今回のことで完落ちは思ったほど期待出来ないかもしれませんね」
西田の説明に対し、竹下の口にした懸念は、実際のところ、西田や吉村が内心抱いていたことと同様ではあった。
「正直、落とすのはそう簡単じゃないとは覚悟してる……。共立病院の件ですら、落とせてないんだからな……。基本的には証拠の積み重ねで、自白には頼らず行くしか無いとも思ってるんだ。ただ、ある事を1つ試してみようかとは考えてる……」
そう言うと、西田はあるプランを竹下に披露した。
※※※※※※※
「どうでしょう……。多少の期待は出来るかもしれませんが……」
竹下もそれを聞いて半信半疑と言った反応だったが、
「基本的には、今回のテープの中身と日記が肝ではあるが、最後の一押しってところでどうか」
と西田に付け加えられ、
「こればっかりは、大島相手にそれの訴求性がどこまで有るか次第なんで、自分がとやかく言っても意味はないと思います。やるなら時期尚早ってこともないんじゃないですか?」
と、渋々同意するという形になった。
「ま、今回の証拠でも落ちるかもしれませんし、案ずるより産むが易しってところで、今から気にしても仕方ないと思いますよ」
吉村は総括のような形でそう述べたが、前日はもっと否定的な態度だったはずで、時間が経って考えを変えたのか、或いは竹下の意見に迎合したのかは、長年の付き合いのある西田にしても、はっきりとわからなかった。
※※※※※※※
10月9日。札幌拘置所に、病院銃撃事件の起訴で引き続き拘束されている大島の元に、西田と吉村が取り調べの為に訪れた。
前日の昼間には、既に道警本部の刑事が、本橋の新証拠が発見されたことを伝えつつ、軽く取り調べていた。その際、忙しいスケジュールの合間を縫って、2人は裏の控室から様子を見ていた。しかし、大島は多少動揺する素振りもあったが、「伝聞法則」について知っているのかどうかはともかく、大きな心理的変化は見せず、必要以上のことは何も喋らない作戦を継続していた。
竹下を札幌駅で出迎える必要もあり、最後まで監視は出来なかったが、その状態はやはり終始変わらなかったらしい。そして、改めて2人が、本日は取り調べることにな
取調室に入ってきた大島は、西田と吉村の姿を見て、
「ああ、君達か……。君らの前回の取り調べは、確か9月の下旬以来だったかな」
と、無表情で言った。
「直接会うのはあれ以来ですが、実はあの日の後も、よく後ろから拝見させてもらってたんですよ。ただ、あなたがなかなか折れてくれないんで、本日は再び我々が直接出しゃばらせてもらいます」
西田も、皮肉を込めながらも淡々と返した。
それを聞きながら、ゆっくりと椅子に座った大島を確認すると、西田は、
「今日は、まず、昨日別の(取り)調べ官が話していた録音音声を、実際に聴いていただきたい」
と切り出した。そして吉村がパソコンで、竹下が見つけて大阪府警でデジタルデータ化された、例の瀧川と本橋との間で交わされた、佐田実殺害依頼電話の会話を再生し始めた。
※※※※※※※
会話を聴いている最中、大島には、前日以上にそれ程の変化は見られなかった。いきなり、瀧川と本橋の会話を聞かせるよりは、先に「そういう録音内容がある」と伝えてしまっていたので、ワンクッション置かれることで、ある程度感情のコントロールをする余裕を与えてしまったのかもしれない。もし、今の大島の態度にそういうことが影響していたのならば、西田は「失敗したな」とも考えていた。
録音中の発言には、大島は勿論、佐田や伊坂、中川秘書などの名前は出てきており、事件の核心に触れるような箇所も多く、その点について大島がピンとこないというのは無理がある。やはり、落ち着いて対処したというのが正確だったはずだ。また、瀧川の喋り方や声についても、おそらく大島は実際に話したことがあるだろうから、当然記憶していた可能性が高いだろう。
「どうですか? この音声は、本橋が捕まる前まで住んでいたマンションの一室から、最近発見されたモノを入手して、大阪府警が中身に驚いて、我々道警にも送って来たものです」
西田は大島にそう言ったが、言うまでも無く、大阪府警の書いた筋書きに従ったもので、その入手の真相はしっかりと把握していた訳である。ただ、瀧川相手ならともかく、大島相手なら本当のことを言っても、それほど問題ではなかったろう。
隣の吉村は、緊張感のある取り調べにも拘らず、ニヤニヤするのをこらえるのに必死に見えた。真相を知っているだけに、西田のあからさまな嘘に反応しているのだろう。勿論ふざけている訳ではないが、嘘を付くと顔に割と出てしまうタイプだけに、刑事としては勿論、上司としても苛立ちはしたが、仕方ないと諦めても居た。ただ、これからは、取り調べでも責任を負っていく立場になっていくのだから、もうちょっと何とかしてもらわないと困るのも事実だった。
「そう言われてもな、私の声が入っている訳でもなく、どうにでもなるだろう、こういうものは」
「とは言え、瀧川と本橋の音声であることは、府警の科捜研による声紋分析から確定しています」
大島の言い訳に、西田もまた冷静に反論した。
「いずれにせよ、私は知らんのだから仕方ない」
改めて、大島は知らぬ存ぜぬを貫くが、
「しかし、この会話内容において、中川秘書と本橋が、87年9月下旬当時に北見駅で落ち合ったことを、現実に立証出来るだけの材料を我々は既に確保しています。ですから、この会話が、瀧川と本橋の2人の会話であることが立証された上、実際に本橋と中川秘書が会っていたことが立証されれば、2つの事を合わせて考える限り、この会話が佐田実殺害謀議であることは、まず疑いの余地のない所じゃないですか? その上で、中川秘書とあなたの関係を加味すれば、少なくともあなたを、佐田実殺害において、殺人幇助の教唆ぐらいには問えるはずです」
と、西田は踏み込んだ。特に自信めいたものはなかったが、相手に舐められてはいけないので、少し高圧的な口ぶりになっていたのを、西田自身も自覚していた。




