名実85 {113単独}(268~270 竹下による本橋の心理推測5)
「一方で、これについては、かなり考えが過ぎるようにも思いますから、正直自信はないんですが」
竹下はそう前置くと、
「幾ら、95年当時の取り調べで、我々の当時の捜査への熱意を感じていたとしても、それから7年後の2002年に、それがまだ維持されているかどうか、本橋さんは確信出来ていたのかどうか、私は微妙だと思っています。久保山さんの様な、付き合いの長さから来る、堅い信頼関係とは行かなかったのは、まず間違いない訳ですから……。もし、我々にそれが無くなっていたとすれば、黒田さんに会わせるのは、ちょっと危険かもしれない、私が本橋さんなら、そう考えると思います」
と、喋り出した。
「それはどういう意味があるんや?」
久保山が興味ありげに尋ねてきたので、
「もし、年月の経過で捜査への意欲が落ちていれば、本橋さんがイマイチ信用していなかった大阪府警などに、捜査を委託してしまう、こういうことは、十分あり得るんじゃないでしょうか? ただ、それについては、我々以外の捜査員が来ても、決して相手にしないように、本橋さんから久保山さんへ、暗号で指示があった様なもんですから、実はほぼ問題はありません。しかし、我々自身が時間の流れで、警察という全体的な組織の論理に、もし完全に取り込まれていたとしたら、それはかなりやっかいなことになります。極端な話、告発どころか、黒田さんなどの情報を売り渡すということも、最悪あり得なくはない」
と返した。
「それはさすがにあり得んやろ? 今のあんたを見ても」
黒田は笑ったが、
「今私が、御二人の前でこうしているからこそ、初めてそう言える訳で、本橋さんとしては、確証が欲しかったのは間違いないんじゃないですか? あれだけ徹底して、黒田さんの情報を伏せたい程だったんですから……。それに、本橋さんの死後に行われることですからね、尚更心配していた可能性はあるんじゃないでしょうか」
と反論した。
「そないなもんやろか……」
この時は、黒田もかなり懐疑的という感じだった。もっとも、竹下自身も、この時には、実際に確証を持っていた訳ではないのだから、黒田がそう思うのは、至って仕方のないことだろう。
「それで、真意のカムフラージュと同時に、『将来』において告発を任せられるか、黒田さんに会わせて大丈夫かという点において、ある種のテストを兼ねていたのが、我々への、この非常に複雑な暗号の解読要求だったのかもしれないと思ってるんです。知識や論理の必要性もさることながら、あれは『何としてでも解く』という強い意志が必要なレベルでした。捜査への熱意が無ければ、面倒臭がって投げ出していたかもしれない……。解くまでに大して時間を要さなかったのは、7年前の捜査での解読経験を前提に、偶然や西田の協力もありましたから……。捜査に当たった95年から7年後、死刑から5年後の我々に、そこまでの熱意や捜査への勘がまだあるのなら、告発をそれなりに安心して任せられる、そんな意味すら、あの手紙にはあったのかもしれません。何度も言うようですが、これは、憶測でしかありませんが……」
ここまで言うと、竹下はその言葉尻の自信の無さとは違い、すっきりとした表情を浮かべた。全て言い切ったという満足感から来るものだった。
同時に、本橋がやけに挑発的な「表」の文章を送り付けて来たのは、西田や竹下を鼓舞しようという意図も、もしかすると、あったとみるべきかもしれないとも考えていた。更に、時効のわざとらしい「計算ミス」にも、暗号を読み解いた時の、「なんだ、ちゃんと知っていたのか」と思わせるという、本橋自身の自己満足に加え、西田や竹下にも、解答を得た時の意外感を感じさせてやろうという配慮があったのかもしれないとも推理していたが、これらは、2人に伝えたところで、ほとんど意味もないので、そのまま黙っていた。
「正直、やっぱりそこまでは考え過ぎやないか?」
黒田も、改めて竹下の考えに一見否定的で笑っていたが、そう言っておきながら、
「せやけど、もしそれがあり得るなら……。こういうこともあり得るかもしらんぞ。単に俺の勘で、あくまでひょっとしたらやけどな」
と、急に真剣な面持ちで言い出し、
「俺に直接竹下さんを引き会わせたのは、さっき言った理由だけやのうて、俺をあんた……、幸夫としては、もう1人の西田とか言う刑事も含めた2人だったかも知らんが、直接引き合わせたかったのかもしれんぞ」
と、自らもある種の飛躍した推測をしてみせた。
「それはどういうことですか?」
竹下が驚いて問い返すと、
「さっきからあんたの話を聞いていると、幸夫の手紙や俺や久保山との思い出話を元に、かなり細かい分析をして、俺達に幸夫が抱いたであろう考えや思いを聞かせてくれとる。俺も、幸夫に対する単純な怒りは、大分収まってきて、昼間ブチ切れといて、今更なんやけど、正直、今日、あんたらと行動を共にして良かったと思い始めとるんや……。もしかすると、幸夫は、俺に対する『不義理』の理由や過ちに対する詫びを、あんたの口を通じて、今更ながら、少しでも伝えてもらいたかったんやないか? そんな気がするわ」
と答えた。これには、
「ああ! 確かに竹下はんの考えを聞いていると、何となく、兄貴の思いに直接触れたような感覚がありますわ!」
と、久保山も賛同してみせた。
「さすがに、それはどうでしょうか……」
竹下は謙遜も込めてそう返した。と言うよりは、本気で「それはないんじゃないか」という思いが半々だったかもしれない。
今までの黒田や久保山が、竹下の考えに対して抱いたのと同様、「考え過ぎではないか」という所感を持っていたのだ。ただ、もし目の前の2人が、そう思える程に貢献出来たのだとすれば、それはそれで、竹下としても良いことが出来たという満足感はあった。
しかし、確率は相当低いとは言え、黒田の推測が事実だったとすれば、またもや本橋に、良い様に使われたことになるという意味でもあった。そう認めたくない感情も、無意識に働いているのかもしれないと、突き放した見方を自分に適用してもいた。
そして、
「それが事実かどうかは置いておくとしても、確実に言えることは、今回本橋さんと御二人のおかげで、こちらも重要な証拠を得ることが出来たということです。おかげで、佐田実殺害について、大島の関与を具体的に認識する術を得ました。それに、来る前までは、ここまで想定していなかった、あの瀧川を挙げることまで確信出来る様になったんですから……。本橋さんの書いた手紙を考えると、多少皮肉ですが、大阪府警も……、否、警察組織全体にとっても、これらはかなり大きな証拠となるでしょう。まあそれも、本橋さんの『瀧川にも罪を償わせる」という考慮の内ですが……。しかし、時効間際にこういうことをやるってのは、瀧川や大島だけではなく、道警にとっても、半分嫌がらせみたいなもんですよ」
と、苦笑しながら伝えた。
だがその発言に対し、
「あ! そう言えば、兄貴が起こした最初の方の2つの殺しは、ギリギリどころか、本来なら既に時効になっとるんやないか!? 事件発生から15年やったよな? せやけど、竹下はんらに送った暗号の方には、まだ時効になっとらんみたいな意味が、午前中見せてもらった時にあったな……。それについても、ちゃんと聞いとかなアカンと思っとったが、話が色々あって、うっかり忘れてしもうたわ! 竹下はんの今までの話からすれば、少なくとも2番目の事件は、まだ大丈夫なんやろか?」
と、久保山が、急に思い出したかのように、常識レベルの知識で、時効について指摘してきた。
今までずっと話していた上に、しかも時効の事件をここまで本気で追うはずもなく、「今更そこかよ」と、竹下は多少ガックリ来る部分もあったが、話が細かい方向に行った上、話題の項目も多かったため仕方ない部分もあった。それに、時効制度について、海外渡航による停止などは有名だが、一般人が詳細を理解していないのは仕方ないことだ。
そこで竹下は、
「実は、それはあくまで起訴されてない場合やら何やら、色々隠された条件がありまして……。具体的には、起訴されていれば、判決が最終的に確定するまで、時効は停止されます。おまけに、同じ事件についての共犯にも、その停止期間が適用されます。ですから、最初の事件については、2番目の佐田実の殺害以外の事件の3事件と共に審理されて、本橋さんが死刑になった方の公判で、起訴から判決確定まで4年掛かっていますから、瀧川や他の依頼者にも、その時効の停止期間が適用される訳です。つまり、まだまだ時効まで余裕があるということになります」
と、まず解説した。そこから更に
「一方で、我々が北海道で捜査していた2番目の殺人は、それらとは別に立件された上、本橋さんが争わなかったこともあり、起訴から判決確定まで数ヶ月の停止しかありませんでした。当然、その共犯である瀧川や大島についてもそれが適用されるにせよ、今年の年末辺りがその時効の限度ということになります。つまり、最初の事件よりも、2番目の事件の方が、もっとも時効に近いという、逆転現象が発生する訳で、本橋さんは、まさにその2番目のギリギリの時効を狙って、我々に捜査させるという、心憎い演出をしてくれたわけですよ」
と説明してみせた。ただ、さすがに、目の前の2人は、すぐには理解出来なかったようなので、竹下はメモ帳を破って切り取り、それに図を書きながら、詳しく説明した。
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「兄貴はそこまで考えて、9月の末に、北海道に手紙を出させたってことかいな!」
その説明を受けた久保山は、遅ればせながらはっきりと理解した上で驚嘆した。
「間違いなくそういうことですよ! 拘置所でも刑事訴訟法やら、色々研究してたと、水野住職から聞いています。敵ながら本当に嫌らしいやり方です。というより、今回は、結果的に呉越同舟の形で、こちら側の味方になってくれましたか……。とにかく、あの人をわざわざ敵に回した瀧川達が、舐め過ぎだった、そういうことです。そして、安心しきって寝ているところに、これから夜襲を食らう形になるんですよ」
竹下はそう言って笑うと、残っていたうな重を再び口に入れ始めた。
その後、竹下と黒田は、残りのうな重を会話もせずに食べ続けていて、久保山は黙ってそれを見ていた。会話が弾まなかったというより、本橋と言う、既にこの世に居ない人物について、各々が各々の思いを抱きながら、生前の姿を振り返っていたというのが正確だっただろう。
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「ごちそうさまでした」
最後に鰻を食べ終えた竹下が、久保山に礼を言う。すると、久保山はしみじみとした様子で、
「しかし、こんだけ兄貴の考えや思いを、論理的に説明してみせられるあんたが、7年前には、兄貴にやられっぱなしやったっちゅうのは、到底信じられんわ……。兄貴も頭は良いもんの、今の竹下はんの話を聞いとる分には、それ以上やと思うがなあ……。兄貴は、さっきの日記の中でやけに否定しとったが、アンタは、それこそホンマモンのイタコみたいな存在やわ。死んだ兄貴の考えや思いを、代わりに伝えてくれるような存在や。さっきの黒田はんの話やないが……」
と返してきた。
その発言を聞いた直後、
「あれはですね……。多分本橋さんは、本当は……」
竹下が、久保山に対しそう言い掛けた時、咄嗟に黒田が話を遮り、
「ホンマに幸夫はアホやと思うわ! その件だけでも、竹下さんは、幸夫に完全にやり返したことになるんやないか? 今回の色んな推理の中でな……。何しろ、久保山の言う通り、イタコの能力を日記の中で否定しとった幸夫が、ある意味、本物のイタコみたいな竹下さんにしてやられたんやから。最終的に、竹下さん、あんたの勝ちやで! 幸夫も今頃地獄で悔しがっとるやろ!」
と、竹下に対し、大袈裟なまでにこやかにそう話し掛けた。
「それは……」
竹下は、一瞬その後に「どうでしょうか」と、改めて続けようとしたが、黒田の様子から察し、それ以上言うのは止め、
「今回、7年前の件をやり返したことになるなら、ちょっと嬉しいですね」
と言い直した。すると、
「もっと言えば、あんたはイタコどころか、まるで名探偵ホームズみたいなやっちゃ。幸夫も小学校時代、図書館でよう読んどったわ、ホームズを……。俺もあいつの影響で、ホームズの全集を親に買うてもろたが、それすら幸夫がよう借り出しとったことを思い出すわ」
と、黒田は小学生時代を思い返したようだった。それなりに昔からやっている、大袈裟に言えば老舗のパン屋である以上、当時から、ある程度経済的にも余裕があったのだろう。
「今の話ですが、本橋さんが、ホームズに詳しかったのは、自分も95年の捜査の過程で知りました。私が当時勤務していた署に、本橋さんを移送している最中、西田が本橋さんから直接聞いていたそうです。私はその時同行してなかったもんですから、あくまで又聞きですが……。何でも、好きなのが『青い紅玉』やら、『ノーウッドの建築技師』やらだったとか」
竹下も7年前を思い出しながら、その話に乗った。
ただ、「ノーウッドの建築技師」については、本橋は「工作」を勘付いた当時の西田や竹下に、事実、工作による自供があったと示唆する為に持ち出した話と思われ、本当に好きかどうかについては疑ってはいた。
「幸夫は、色んなホームズの話を、俺に自慢げに解説しとったわ。内容は、ほとんど暗記しとったんやないかな? 一連の話の中で、面白くなかったもんは、おそらく無かったんやないかと思う。ただ、特にしつこく言ってたのが、あんたが今言った『青い紅玉』やら、知ってるかどうかは知らんが、『ボヘミアの醜聞』やら、『6つのナポレオン』やら『銀星号事件』とか言う話やった記憶がある」
竹下は、黒田のそんな話を受けて、
「最後の銀星号事件ってのは、私もそこそこ好きですね……。牧場の近くで殺されていた調教師が、実は黒幕自身で、自分の管理する競馬用のサラブレッドを故障させることで、レースの賭けで大金を掴み、自分の愛人に掛かる高額な費用を工面しようとしていたって話でしたか……。犯人は、自分の脚にメスを入れられそうになったことを本能的に察知し、調教師を蹴り飛ばした、その管理馬である銀星号自身だったって奴ですね」
と語った。
「せやね。そんでホームズは、その推理が当たっているかどうかを、ある別の推理で証明したんやったか?」
「ええ。それは、同じ牧場で飼育されていた羊の群れの中に、異変があったものが居るのではないかと、牧場の従業員に確認したって話でしたっけ……。殺された調教師は、実際に馬の脚ににメスを入れる前に、飼われていた羊で実験したんじゃないかという、矛盾する様ですが、ある意味、根拠のある当てずっぽうのような、論理的な一か八かの推理でした」
竹下は、そのホームズの大胆な推理を表現するのに、「根拠ある」、「論理的」と「当てずっぽう」、「一か八」という、矛盾した言葉を、それぞれ敢えて並べ立てた。
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(作者注・銀星号事件について読んだことがなく、詳しく知りたい方は、ここをお読みください。尚、銀星号事件については、シルバー・ブレイズ号事件やら、白銀号事件やら、幾つか題名が異なるパターンがありますが、全て同一です。http://www.221b.jp/h/silv.html ここは文面では直接リンクは出来ない仕様ですので、コピペでどうぞ。短編ですので、時間は大して要しません。尚、ノーウッドの建築業者については、http://www.221b.jp/h/norw.html でも読めます)
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「竹下さんもよう憶えとるやないけ! そこで、牧場の従業員から、『飼われている羊達の中に、最近脚を引きずっている羊が何頭か居る』と聞いたホームズは、競馬にちなんで『大穴を当てたよ! ワトスン君!』と思わず叫んだって話やな。ワシも幸夫同様好きな話の1つや」
「そう言う黒田さんも、内容をしっかり記憶してるじゃないですか」
竹下は心底感心したが、
「ガキの頃の記憶は鮮明やけど、50超えたら、10秒前のこともよう忘れてまう様になったわ。ウワハハハハ!」
黒田はそう言って、現状を嘆きつつ高笑いした。
一方の久保山も、
「ワシも40超えた時点で、そっちは年齢には勝てませんでしたわ」
と同調した上で、
「ワシには、ホームズがどうたら、さっぱりわからへんわ」
と、不服そうに喋りだした。
「ああ、スマンスマン! すっかり置き去りやったな」
黒田は苦笑しながら謝り、取り敢えず2人のホームズ話は幕を閉じた。




