名実29 {52・53合併}(122~124・125~126 協力者の身元判明 大島事務所ガサ入れに向けた駆け引き 大将の奥さん通夜)
7月19日金曜日の午後3時過ぎ、西田は、北見方面本部の休憩室で、吉村と共にタバコをふかしていた。前日と今日は、捜査本部は、ガサ入れや逮捕に向けた準備を着々と進めていた。正確に言えば、捜査本部とは言え、情報管理のため、その中の一部の捜査員(特に西田チーム)に限って参加してもらっていたので、他の詳細な情報から遮断された捜査員達からすれば、内心相当不満があったかもしれない。
しかし、まかり間違っても、情報漏えいだけは避けたかったので、それも承知の上だった。三谷や西田も、部下達のケアの方も含めて、かなり連続するストレスに直面していた。
既に昨日の時点で、東館が「おっさん」と呼んでいたのが、当時より、以前から大島海路の地元の懐刀であり、ベテラン秘書である「中川 富美男」だと、東館に対する写真の面通しで確認出来ていた。予想通り、大島の腹心の部下だったわけだ。そして、95年の温根湯温泉・ホテル松竹梅で、西田達が大島の指紋を取るため宿泊していた際に、支持者との旅行に大島海路と同行していた人物でもあった。
一方で、伊坂組の従業員と思われる2人組については、まだリストが作成出来ておらず、照合は明日以降に持ち越しとしていた。
また、午前中、東館の兄貴分であり、駿府組の亡くなった大原幹部の自宅に、察庁組対の須藤が連絡を受けてガサ入れし、未亡人である妻からも事情を聞いていた。
ガサ入れでは特に何か出ることもなく、妻からは、確かに娘が生まれた年に、しばらく出張と称して家を半月以上開けていたという証言を得たが、さすがに大原は、重要なことは一切打ち明けていなかったようだった。
ただ、さすがに夫が死亡したばかりで、詳細な聴取は憚られたということで、あくまで「さわり程度」で済ませたと報告を受けていた。勿論、重要な証言はおそらく得られないだろうと言う、組対側の感触も大きな理由になっていたことは間違いなかろう。北見側もそれを受け入れていた。
※※※※※※※
「西田課長補佐! 今空いてますか?」
突然、後輩刑事である巨体の武隈が、声を掛けながら室内にサッと入ってきたので、2人は何事かと武隈を見つめた。
「あ? ああ別に休憩中だから構わんが……」
西田がそう言うと、
「先日のアイヌ語の話なんですが、妹に聞いた所わかりました!」
と言い出した。
「いや、お前さ……。そういうことやってる……」
吉村が、半ば呆れながら止めさせようとしたのを、西田は片手で制すと、
「お、そうか! わざわざ聞いてくれたんだ。そいつは手間取らせたな」
と応じた。
「色々忙しいとは思いましたが、今だったら大丈夫かと思ってたんですが……。やっぱりご迷惑ですか?」
吉村の態度で察したか、如何にもマズいことをしたというように、持ってきた紙を握りしめ顔を歪めたが、
「いやいや、いいんだ。教えてくれ」
と、西田は武隈が気落ちしないように努めた。
「じゃあ、遠慮なく」
そう言うと、一度仕舞ったポケットから、紙を再び取り出して説明し始めた。
「芽室の町名の語源である、『メム』のム(作者注・アイヌ語の場合、本来はムを小文字表記)ですけど、アイヌ語ってのは日本語と違って、英語みたいに子音の発音が存在するらしいんです。日本語は、50音のように、全部子音と母音の組み合わせで音が成り立ってますよね? でも英語はtとかmとかsとかだけでも音として成り立ってるんです。アイヌ語の発音形態も、そういうのと似たようなモノがあるらしいんですよ。その子音の発音を表記するのに、こういう小文字のカナやらカタカナやらを使うみたいなんですよ」
「ほう……。そう言えば、アイヌ語ってのは、確か文字が存在しないとか聞いたことがあるけど、そこら辺はどうなんだよ?」
「ええそうです。ですから、これは、アイヌ人が日本語を学習する……と言うか、させられるようになってから、編み出された表記方法みたいです」
武隈の話は、西田にとってわかりやすいという程ではなかったが、ある程度まで理解出来るレベルには落としてくれていた。ただ、まだ肝心のことを教えてくれていないので、そこを要求してみた。
「で、この小さいムだけど、結局どう発音すりゃいいんだ?」
「あ、一番大事なことをうっかり……。それについてはですね……。妹がファックスで送ってくれた紙にも書いてあるように、英語の「member」と言う単語にある、真ん中のmの発音と、ほぼ同じと考えてください」
「メンバー? の真ん中のmとなると、つまり日本語だと『ン』に当たる部分ってことか?」
「そうです! しかも、日本語としてのメンバーという読み方の『ン』であっても、英語の単独のmの発音と全く一緒らしいんですけどね」
「え? 日本語の、メンバーの発音が、そのまま英語の発音に近いって?」
西田は少し意外な話に驚いた。
「ええ。ただ英語の発音に近いってのは、メンバーの中の『メン』の部分までの話ですよ、あくまで。最初のmeの部分も日本語とほぼ同じで良いみたいですから、それと併せてです」
「ちょっとそこをわかりやすく頼む」
西田は、聞いている内に、思った以上に興味が湧いてきた。
「じゃあ。例えば、ローマ字にヘボン式ってのがありますけど、普通『ン』の発音にはnを当てますよね? でも、その前にbやらpやら、破裂音をともなう発音があると、nがmに変わることがありますよね? 例えば、踊りのサンバならsambaという表記になります」
西田の理解度を一々探るような武隈の言動だったが、実際のところ、西田も義務教育時代の怪しげな記憶を辿りながら、説明を聞いていたのだから仕方がない。
「うん、まあ確かそんな感じだったかな……」
なんとなくわかった風を、そのまま言葉にして返した。
「こういう変換が起きるのは、破裂音は、常に唇を閉じた状態から発せられるので、『ン』の時点で唇を1度閉じる必要があるからなんです。ところが、私達が普通に『ン』を発音する時は、別に唇を閉じてないです。例えば、サンバに似たサンタという言葉を発音した後に、サンバを発音してみてください。『ン』の発音に違いがあるのがわかるはずです」
西田は、武隈に言われるまま口にしてみたが、確かにサンタでは「ン」の部分を、口を開けたままで発音したのに対し、サンバでは口を閉じて「ン」と発音していた。
「おお! 確かに違うな! なるほど、そういう違いが具体的にあったんだ」
西田は素直に感心した。一方の吉村は、その様子を何とも言えない顔で見守っていた。
「つまり日本人であっても、英語の子音のmの発音は、実は日常的に普通に出来るレベルなんです。ところが、日本語の表記上も、聞き取る上でも、口を開けたままの『ン』と口を閉じたままの『ン』は同じ『ン』として扱われてるんですよ。ですが、実際に発音する時には、区別出来てるケースがあるってことです」(作者注・ここの辺りについての詳細は、以下のサイトをご参照ください。http://honmono-eigo.com/shiin/mn-hatsuon.html
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n42557)
「なかなかわかりやすいじゃないか。……それはともかく、結論としては、小さいムの発音は、サンバの『ン』の発音でいいんだな? そしてアイヌ語の「メム」の発音は、メンバーの『メン』の部分と一緒ということになるんだろう? そうなるとだ、芽室の由来である「メム・オロ」は、発音自体の日本語表記上は『メン・オロ』が正しいってことでいいか?
西田も、さすがにずっとこの調子で付き合ってる訳にはいかないので、早急な結論を求めた。
「はい。まさにそういうことで良いはずです。更に言えば、日本人レベルであれば普通の『ン』の発音で構わないと。出来ればmのンを意識した方がより正確ではありますが……」
武隈は巨体を少し屈ませながら、西田の表情を窺うようにしてそう答えた。
「うん、そうか。こいつはなかなかわかりやすかった。わざわざ色々調べてくれて悪かったな。ファックスで説明まで書いてくれた、妹さんにもよろしく伝えておいてくれ!」
西田はそう言うと、大きな武隈の背中を軽く叩いた。
※※※※※※※
「いいんですかねえ、こんなことに付き合ってて……」
武隈が出ていったのを確認してから、吉村が西田にわざとらしく文句を付けてきた。
「いいじゃねえか。俺が先日あいつに聞いたことを、わざわざ調べてきてくれたんだから、無碍に扱うわけにもいかないだろ? それに今は休憩中だぞ。そこまで時間を気にする段階じゃないだろ?」
「そりゃそうですけど、あいつも、こっちが抱えてる案件の重要性は、それなりにわかってるはずですよね? そんなアイヌ語の発音だかなんだか、やってる場合じゃないと気付いてもらわないと……。どうも、誰かさんじゃないけど、頭の良い人は、空気が読めないところがあるからなあ……」
そう愚痴った吉村の矛先は、どうも紋別の竹下に向いたようだったが、「おまえも空気読めないことあるだろ」と西田は言いたいのをグッと飲み込んで、そのまま休憩を終えた。
※※※※※※※
「しかし、海の日って何年経っても慣れないなあ。あれ、今日土曜でしたっけ?」
東館の取り調べのために、北見署内の取り調べ室へと向かう吉村が、一方的に西田に話し掛けたが、西田はこの先のことで頭が一杯だったこともあり、生返事を返すに留めていた。それにしても、吉村の言う通り、7月20日の海の日(翌年の2003年より、日付固定ではなく、7月の第3週の月曜日になりました。いわゆるハッピーマンデー法)は、西田もまだしっくり来る祝日ではなかった。海の日は、一連の事件に2人が関わるようになった95年の翌年である96年に、初めて祝日として扱われるようになっていた。
言うまでもなく、仮にあの年に既に祝日だったとしても、当時、喜多川専務を別々ではあったが絶賛張り込み中であった2人が、それを享受することはなかっただろう。しかし、制定された後の7年後の今も、改めて事件の捜査で祝日を楽しめなくなっていた。そもそもシフト制の刑事に祝日も糞もないのではあるが……。
この日は、いよいよ、伊坂組社員のリストを持って、東館に確認させるつもりだった。可能性は高いとは考えてはいたが、まだあくまで捜査上の推測に過ぎず、ここで確定出来るか否かが、捜査の進展に与える影響は大きかった。是が非でも、東館達に協力した2人が、このリストの中に居ることを西田も吉村も願っていた。
そして、既に捜査陣はある2名を、その可能性が最も高いとしてリストアップしていたが、予断を持って聴取に当たることのないよう、全員を最初から確認することとしていた。
取調室でリストを東館に確認させていると、およそ15分程で、事前にリストアップされた、7年前の2人が写っている箇所までたどり着いた。軽く身構えて様子を見ていると、やはり反応した。
「ああ、こいつらで間違いない! こいつらだ!」
人差し指をトントンと、それぞれの写真の上で数回ずつ叩くと、正面の2人の取調官を見据えた。
「間違いないな?」
西田は敢えて抑えた低い声で確認したが、
「しつこいな! 絶対こいつらだからよ!」
と、「いい加減にしろよ!」というような態度を示した。勿論、西田達も証言を疑っているわけではなかったが、そこは念を押しておく必要があった。
※※※※※※※
2人はそれぞれ、「坂本 久志」と「板垣 隼人」という名の、伊坂組の社員だった。それぞれ現在28と26歳で、同じ中学卒業、学年で坂本が1つ上の関係だ。
それぞれ中卒で、伊坂組の子会社である「伊坂土建」での土木作業員を経て、9年前に、親会社の伊坂組の社員に昇格し、現在は坂本が建設部、板垣が資材部のそれぞれ副主任になっている。
事件当時は平社員だったが、学歴や年齢から見ても、かなり早い出世劇であった一方、2人共、働きぶり自体は実際なかなか良いらしい。佐田実殺害事件時の、以前の喜多川や篠田の役員就任のような、そう極端な昇進とは周囲には受け止められてないようだった。おそらく、伊坂政光も、佐田実殺害で任意の聴取を受けた経験などから、そういう「学習」はしていたのだろう。
ただ、どうも役職以上に給料が良いという噂が、社内にまことしやかに噂されているらしく、事実、2人の金回りが良いのは間違いなかった。人気の高級SUVを乗り回していたし、高級時計を身につけており、夜な夜な北見市内の高級クラブに出入りしていたという目撃情報があった。
そして何より、2人は中学時代からかなりのワルで、同じ不良グループに所属していた。年齢的に逮捕歴こそなかったが、補導沙汰は数知れずあり、当時の北見署・生活安全課の少年係でも、かなりマークされていた2人だったようだ。
その不良グループは、伊坂組と関係の深い双龍会とも代々繋がりがあったようで、2人が一連の建設会社銃撃事件に関与しているとすれば、東館の証言からも、おそらく銃撃の指導等で、双龍会とも何か関係があったかもしれない。何より伊坂土建に入ったのも、そういうコネがあった可能性が高いと見られていた。
※※※※※※※
「よし! 取り敢えず2人についてはそういうことで……。ところで、東京の方の刑事が、大原の遺族にガサ入れと聴取しに行ったんだが」
西田がそう、まだ伝えていなかった新たな話題を東館に切り出すと、
「兄貴のところにか? こうなることはわかってたが、あっちの家族にも迷惑かけちまったな……。でも、あのまま兄貴の敵を取らないわけにはいかないし、しゃあないよな……」
と、絞りだすように心情を吐露した。
「一応、ああいうことがあったばかりだから、あっちも慎重な聴取に努めてくれているようで、その点については、余り心配しなくて良いと思うぞ。それに、ガサ入れの結果から見ても、家族に大きな迷惑が掛かることはないんじゃないか?」
西田は、東館をやや気遣うような発言をした。
「今は、確かもう1人息子が生まれていて、家族は3人のはずだ……。それにしても、兄貴という大黒柱が亡くなって、カミさんも気落ちはしてたろうが、皆元気にしてただろうか?」
そう尋ねられた西田は、一瞬答えを迷ったが、
「ああ、そう聞いてる」
と言う言葉が思わず口をついた。西田は須藤からはそのようなことは詳細に報告されていなかったが、何故かそう誤魔化しておきたい気分になっていた。
※※※※※※※
「どうしてあんな適当なこと言ったんですか? 確かに手加減はしてくれてたって話は聞いてましたけど」
取調室から戻る最中に、吉村が西田を問い質してきた。
「自分でもわからん。ただ、東館が自供したことを後悔させたくなかったのかな……」
そう自己分析して見せたが、
「それは、東館がちゃんと反省して悔いていたらまだしも、あいつの自供の主目的は、所詮兄貴の敵討ちでしょ? そこまで配慮してやる必要なんてあるんですかねえ」
と、如何にも懐疑的という素振りで返すと、吉村は、そこからやや西田より早足になった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
その後、捜査本部首脳による捜査会議が始まった。病院銃撃事件に加担、協力した3名が判明した今、残る問題は、大島の選挙事務所のガサ入れについてどうするかということと、3名逮捕のタイミング、そして伊坂組社長である伊坂政光をどうするかが議題になった。
確実に誤射の痕跡が残っていなければ、ガサ入れの意味が無いどころか、有力者である相手に「反撃」の口実を与えかねない。指紋などの、東館達が潜伏していた他の痕跡が採取できる可能性はより低く、そのためには、ガサ入れの前に、出来れば銃撃の痕跡があることを把握しておきたい。7年前でなく、事件直後であれば、通常の「一発勝負」のガサ入れも可能だったかもしれないが、時間の壁がそれを躊躇させていた。
更に、伊坂を出来れば同時に逮捕して、証拠の隠滅などをする時間を与えないまま、一連の事件への関与を明らかにしておきたい。かと言って、現状では、若手社員2人に、建設会社、病院の両銃撃事件関連で何か指示(教唆あるいは共謀共同正犯扱い)を出していたと予想は出来ても、実際に逮捕出来るか、現状の「材料」だけでは、かなり微妙なラインではあった。逮捕強行は不可能ではないが、あちらには、7年前に煩わされた顧問の松田弁護士もいるだろうし、相手に結果的に有利になるような結末は避けたいところだった。
「ガサ入れの前の、『内偵』への協力者はどうなんだ? 見つからないか?」
小藪刑事部長が出席者を見回しながら確認するが、誰一人として挙手するものはいない。当然彼も分かった上で聞いているのではあるが、浮かない顔だ。
「正直言って、大島の事務所に出入りできる程の関係でありながら、警察に協力し、且つ口外しないとなると、かなり難しい人選ですよ……。そう簡単にいかないのは仕方ないです」
手越管理官は、出席者全員の率直な感想を代表して言った。
「やっぱりそこがネックだよなあ」
苛立ち紛れか、小藪は後ろのホワイトボードに、何やら他人からは判別不可能な文字をマーカーで書いた。何の意味もないことは本人が一番よくわかっているのか、さっさと自ら消した。
「事務所に出入りの業者なんかはどうなんだ?」
「それも考えてはみましたが、さすがに取引相手に、しかも地元の有力者となると、業者側も厳しいでしょう。第一に、まずそれらの『対象』に、この件を依頼する時点で、相当気を使うのは、個人相手の時と変わらないのでは?」
西田もこの点については困り果てていたのだ。
「警察全体で、協力者探しってのも出来ないのが現状で、打つ手は限られますよ。何しろ、トップシークレットについては、捜査本部の他の連中ですら、全貌は明かしてないでやってるんですから」
三谷課長もお手上げという態度を隠さなかった。
「あとちょっとなんだけどなあ。何とかならんか!」
小藪の憤懣やるかたない咆哮も、虚しく会議室に響くだけだった。
※※※※※※※
7月21日の日曜日。伊坂政光の逮捕案件を探っていた西田達に、内偵していた真田から面白い情報が入った。複数の取引業者で、3年程前ぐらいに、記入しないままの白紙の領収書を伊坂がたまにもらっていたというのだ。おそらく、金額を勝手に書き込んで経費水増ししているのではないかと真田は報告した。
元々税金関連については、伊坂組及び伊坂家はクリーンだと、7年前の捜査で、当時の倉野・北見方面本部・捜査一課長が西田に語っていたが、いよいよそうも言っていられない建設不況の波に飲み込まれたのだろうか……。
しかし、捜査陣にとっては渡りに船。私文書偽造で別件逮捕のチャンスが出てきた。伊坂を逮捕出来ないのであれば、税金に絡みそうな案件は、税務当局の介入で捜査上面倒なことになりえるが、伊坂本人を確保できるのであれば、それを気にする必要はない。西田は、真田に内偵を更に進めるように指示した。
7月22日月曜。西田は思い切って、北見方面本部や北見署それぞれの刑事課において、一定の範囲で、全体的な捜査情報を共有することを、刑事部長室で小藪に提案した。このことで、大島海路の事務所へ出入り出来、且つ捜査協力してくれそうなコネを探しだす「脈」を増やす目的があった。
元々、捜査情報の厳重管理は、何を隠そう西田の主張するところであったが、この方針を事実上撤回するものでもあった。折角、東館の証言で事件の協力者が炙り出されたにもかかわらず、無駄に時間を費やすだけでは、みすみす逮捕の機会を逃しかねない。早い段階で大島海路の事務所をガサ入れ出来るか結論を出し、出来ることならば、ガサ入れと3名の逮捕を同時に行うことが、もっとも求められる捜査だ。
問題は、情報共有対象が広がることによる情報流出だったが、これについては、短期間で協力者を探しだすことで打開しようとした。そもそも、ここ最近の流れを見る限り、情報が外に漏れているという感覚は西田も持っておらず、多少管理を緩めても大丈夫ではないかと考えていたこともあった。
しかし、繰り返すが、当然ながらそれには出来る限り短期間、出来れば数日内で探し出す必要があった。言うまでも無く、一種の賭けの側面もあるわけだ。小藪も三谷も、西田の提案に対し一定の理解は示したが、元々が西田の情報管理路線を支持した理由を考えれば、同時に懸念を示したこともまた言うまでもなかった。
「すぐに見つかるか? 長引けば長引く程、情報管理は難しくなるんだぞ?」
三谷はどちらかと言えば、これまでの路線のままで行くべきという意見のようだった。
「しかし、このままにしていても仕方ないですから」
「それはその通りだが、捜査員側の流出はないとしても、協力者と目した相手には、協力してくれるかくれないか判明しない状態で、ある程度何を調べて欲しいか依頼するわけだし、『黙っててくれ』と言われれば、要請された相手は『何事か』と思うわけだしなあ……」
小藪も、少なくとも乗り気と言う程ではないのは間違いない。
「まず捜査員に情報提供した上で、ガサ入れの『予習』を頼める相手が居れば、それが誰なのか、きちんとリストアップさせましょう。そして、こちらでゴーサインを出せる相手の場合のみ、実行を許可するという方向で」
そのような西田の主張に、
「それはそうなんだが、これまでも実質そうしようとはしてたからな……。ただ、今までは、俺達による協力者の選定過程がなかったってだけの話で」
と、小藪は返した。
「それをしっかりやって、短期間なら何とかなると思います!」
西田は怯まず2人に決断を迫った。
「……わかったよ、西田がそこまで言うならそうしよう」
最終的に、押し切られる形で小藪は渋々了承したが、余り納得したような様子ではなかった。
捜査本部に戻ると、吉村が北海道新報の朝刊を持って西田に話し掛けてきた。
「大将の奥さん、昨日亡くなったみたいです」
そう言うと、お悔やみ欄を西田に見せた。遠軽の訃報も、北見地区のお悔やみ欄には載るのだ。
「ああ、結局ダメだったのか……」
西田はそう言うと、大将の心中を察した。
「そうだな……。3時間だけなら行って来てもいいぞ。そのぐらいの時間なら、何とか都合付けてやる。今、丁度捜査方針を若干修正してる最中だし、今ならすぐにやるべきことがないから」
捜査が行き詰ったとは言え、でかいヤマの捜査中に、私用で離脱は、本来ならば許されるはずもないが、どうせ待機させているだけなら行かせてもいいやと、異例中の異例であるかなり甘い判断をした。
「いや、ホントにいいんですか?」
何度も小声で確認を繰り返した吉村に、
「だからいいから! そうそう、ついでに俺からの香典も頼む。銀行でピン札に変えてもらってくれ」
と、西田は財布から1万円札を取り出し吉村に託した。
「わかりました。じゃあ申し訳ないですが、家に急いで戻ってすぐ向かいます」
そう言うと、ダッシュで部屋を出て行った。
※※※※※※※
9時過ぎに、通夜から戻った吉村の話によれば、大将も今年の春には、医者から覚悟を決めるように、実は告げられていたらしい。とは言え、長年連れ添った女房を失った悲しみは、さすがに隠せなかったとのことだった。
母の死で戻ってきた、旭川に住んでいる息子には、「これを機会にこっちに来ないかと言われた」そうだった。店の経営も苦しいらしく、かなり本気で考えているように見えたと、吉村は西田に報告した。
※※※※※※※
7月23日。北見方面本部並びに北見署の刑事課内部でも、情報を提供した上で、ガサ入れの事前調査に協力してくれる人物に思い当たる節がある捜査員を探していた所、北見署の刑事課・盗犯係の刑事に、父親が大島の後援会に入ってる者が居た。その父親自体、元々仕事の付き合いで入ったということで、特に大島の支持者というわけでもなく、協力も間違いなくしてくれるだろうと言う。
その刑事の名前は香川と言った。父親は、現在故郷の常呂町(2006年、合併のため現・北見市常呂)在住だが、昔は、北見の商工会事務所に勤務して居たという。何かあったところで、今迷惑が掛かることもなければ、掛けられることもないというのが息子である香川の判断だが、勿論、父親自身へ直接確認したわけでもなく、最終的な判断はその後ということになった。ただ、少し視界は開けてきたのは間違いなかった。
7月24日。香川から父親の回答が伝えられた。香川の事前の判断と違い、かなり渋られたという。理由は簡単だった。現状退職した自分にとっては何の問題もないが、やはり、商工会などの残った人間のことも考えないといけないという理由だった。
しかし、最終的に、香川の父以外に適格な人物が見つからなかったこともあり、西田は香川の父を説得して協力してもらうことを、再度香川に要求した。そして当日の夜、香川から何とか説得がかなったと常呂から電話で連絡が入った。わざわざ直接説得しに、常呂町まで出掛けてくれたのだ。香川の献身的な協力に西田は感謝し、事件解決への緒がはっきりと見えた直後、一気に奈落の底へと突き落とされるような言葉を香川の口から耳にした。
「親父からは、『次の支援者の懇親会があるのが、お盆の前の8月8日だから、その時に』ということを言われてますが、問題無いですか? 直接捜査に関わってないんで、よくわからないんですが、大丈夫ですよね?」
「ちょっと待て! その日まで事務所には入れない?」
「ええ。支援者って言っても、事務所に頻繁に行くような熱心なもんじゃないし、4階に行くとなると懇親会ぐらいしか思い浮かばないと言ってます」
この期に至って、西田を筆頭に捜査首脳陣は、大変な思い違いをしていたことに気付いた。事務所に入れる人間と言っても、何時でも入れるわけではないし、どの部屋にでも自由に行けるわけでもない。大島にとってかなり重要な支援者か関係者でもなければ、自ずと限度があるわけだ。
そして、それ以上に大きな問題があった。東館の殺人での勾留は、延長含め20日間が限度だが、その最終日が8月3日だった。いや、正確に言うのであれば、8月3日が土曜日なので、検察の決済の問題で、実質8月2日金曜日までに起訴するか決めないとならなかった。容疑によっては、更に5日間延長出来ないこともないが、内乱罪などの特定の重犯罪以外では適用されないので、東館の場合には当然適用が出来ない。
こうなると、それまでに東館について殺人での起訴をする必要があるが、さすがにこの時点では、逮捕時とは違い、報道機関に「北見共立病院銃撃事件の犯人起訴」という情報を流さないわけにはいかない。
そうなると、当時病院銃撃事件に参加・協力した連中にも、「捜査の手が迫っている」ことが必然的に伝わることになってしまう。その場合には、証拠隠滅や逃亡などの行動に移されておかしくはない。だからこそ、東館の殺人での起訴前に、ガサ入れと対象人物の逮捕を済ませてしまう必要があるのだ。
「まいったな。見通しが甘過ぎたか……」
小藪は悔しそうに椅子から立ち上がり、刑事部長室の窓の周囲を歩きまわったが、自身もまた、その判断に関わった以上は誰のせいに出来るはずもなく、再び椅子に深く座り込んだ。
「どっちにしても、時間は相当限られているし、内部から協力者がこれ以上出てくる可能性はないと言って良いでしょう。いざとなれば、内偵なしで踏み込むことも、覚悟しないといけないかもしれません」
西田がそう言うと、
「いやいや! 相手が普通の一般人ならそれでも構わんが、絶対にガサ入れの失敗は許されない以上、事前に、間違いなく弾痕があることを確認しておかないとならんだろ? リフォームでもされてたら元も子もない。確かに銃痕が無くても、大島事務所の関与は、幾つかの秘密の暴露で立証出来ないことはないが、もしガサ入れした挙句、銃痕が出なかった場合には、むしろ相手にとっては多少なりとも、東館の証言の信憑性について疑義を挟む口実にはなるからな……。まして相手は大島だ。蟻の一穴が大きな穴になりかねん」
と、三谷が強く反論した。
「しかし、そんな悠長なことを言ってる場合ですかね? そうは思えないんですが」
色をなして反論した西田に対し、小藪は、
「普通の事件じゃないんだ! 下手すりゃ北見方面のトップの首どころか、道警本部、いや、察庁まで巻き込みかねないんだぞ!」
と珍しくはっきりと叱りつけた。それでも尚、西田は納得出来ないという態度を崩さなかった。




