第一章 最強の清掃会社、異世界にて営業開始
金のデッキブラシと、35年ローン
鬱蒼と茂る見知らぬ森の中。
俺――大和 尊は、セブンスターの煙をゆっくりと肺に吸い込み、紫煙を空に向かって吐き出した。
「ここは……どこだ。現場に向かう途中で道に迷ったか? いや、まさか流行りの異世界転生ってやつか」
周囲の植生は、俺が趣味の家庭菜園で育てているものとは明らかに違う。遠くで聞いたこともない獣の咆哮が響いていた。
だが、俺の心は凪のように静かだ。
(パニックは最大のタイムロスだ。生き残るための基本は『5S』……整理・整頓・清掃・清潔・躾。まずは状況を整理し、水の確保が先だな)
サバイバル術の基本に則り、俺は森を歩き、ほどなくして透き通った池を発見した。
よし、まずはあそこで――。
「アババババッ! アバババッ! た、助けてぇーっ!」
池の真ん中で、何かが激しく水飛沫を上げて溺れていた。
よく見ると、ふわふわの癖っ毛の少女だ。なぜかその頭上には、黄色と緑に光り輝く『初心者マーク』がプカプカと浮遊している。
「何だあいつ……」
池の深さは、見たところ大人の腰ほどもない。立てば普通に息ができるはずだが、本人はパニックで気づいていないらしい。
俺は作業着の腰袋から、長さ30cmほどの黒い筒を取り出した。特注の伸縮棍『掃討』だ。親指でスイッチを押し、一気に180cmまで展開。先端にデッキブラシのアタッチメントを装着し、池の中へ差し出した。
「おい、これに掴まれ」
「あばっ!? ぁ、はいぃ!」
少女がブラシにすがりついたのを確認し、力任せに岸へと引き寄せる。
ズザァッ、と勢いよく引き上げた瞬間――ボキッ。
少女の体重と引き上げる角度の計算がわずかに狂い、先端のデッキブラシだけが根元から折れ、ポチャリと池の中へ沈んでいった。
「あー……アタッチメントが」
「えへへ……ぶぅえっくしょん! た、助かりましたぁ、ありがとうございますぅ!」
ずぶ濡れの少女が立ち上がる。純白の神官服のようなものを着ていたが、泥だらけだ。
すると彼女は、ゴソゴソと懐から『カンペ(紙の束)』を取り出し、咳払いを一つした。
「えっとえっと……ゴホン。我は女神リリス! 迷える子羊よ……あ、違った。貴方の落としたブラシは、こちらの『金のブラシ』ですか? それとも『銀のブラシ』ですか?」
リリスと名乗る少女の右手に純金のブラシ、左手に純銀のブラシが神々しい光と共に握られていた。
「いや、俺が落としたっていうか、お前のせいで池の中に入ったんだが」
「ふぇ!?」
「まあいい。じゃあ、金で。賠償金だ」
俺が淡々と要求すると、リリスは「えっ?」と素っ頓狂な声を上げ、慌ててカンペをめくり始めた。
「えっとえっと……『正直に答えたら両方あげる』って書いてありますけど、最初から金を要求された場合は……あわわわ、マニュアルにないですぅ!」
「お前の不注意で俺の清掃用具(商売道具)が破損した。当然の請求だろう。それとも神様は補償もできないブラック企業なのか?」
「そ、そんなことないです! ちゃんと補償しますぅ! これで良いのよね……はい、金のブラシをあげる!」
俺は差し出された純金のデッキブラシを受け取った。
ずしりとした重み。まごうことなき本物の金だ。
「おう。助かる」
こうして、俺の異世界生活は推定時価数億円の軍資金を手に入れるところから始まった。
* * *
【後日――天界セレスティア・総務部】
「あんだと!? 純金のブラシをそのまま渡したぁっ!?」
バンッ! とデスクを叩く音が響き渡る。
永遠の17歳こと、上司の女神ルチアナが、ポテトチップスを片手にブチ切れていた。
「ばっかぁぁぁ! あれ一個生成するのにどれだけ神気がかかると思ってんの!? 約10億円よ! 10億円! 私の推しのライブを何回最前列で見られると思ってんの!」
「うわあああん! ごめんなさぁぁい! だって彼が賠償金だって言うからぁ!」
「うるさい! あの金のブラシ、どうにかして返してもらいなさい! それまで天界は出禁よ!」
ルチアナはそう叫ぶと、空間からズルズルと『紫色の芋ジャージ』と『イボイボの付いた健康サンダル』を引きずり出した。
「ほら、これ着ていきなさい! 私のタローマン製のお下がりだけど、現場を走り回るならこれが一番よ!」
「ふぇっ? いやですぅ! 女神なのに芋ジャージなんてぇぇ!」
「問答無用!!」
* * *
【地上――ポポロ村近郊の街道】
「……あのう。返してもらえないでしょうか?」
紫色のダサい芋ジャージに身を包み、足元から「ペチッ、ペチッ」と情けない健康サンダルの音を鳴らしながら、リリスが俺の前に立っていた。
背中と頭上には、相変わらず初心者マークが輝いている。
俺はマッチでセブンスターに火をつけ、紫煙を吐き出した。
「やだね。これは既に俺の財産として計上されている。お前、純金のデッキブラシが日本円でいくらになるか分かってるのか? 重さからして約10億円だぞ」
「じゅ、じゅうおく……!? うわあああん! お願いですぅ、返さないとルチアナ先輩に殺されちゃいますぅ!」
芋ジャージの裾で涙を拭いながら泣き崩れる女神。
なんとも情けない光景だが、この理不尽な異世界で10億の資本は手放せない。だが、このまま泣かれ続けるのも近所迷惑だ。
俺はタバコを携帯灰皿にしまい、一つ提案をした。
「そうだな……この純金ブラシの値段分を、お前の『労力』で払ってもらおうか」
「ふぇ?」
「要するに、お前を俺の清掃会社のスタッフとして雇う。借金10億円分を労働で返済しろ。金利なしの35年ローンだ。神様なら寿命に問題はないだろ? 破格の条件だぞ」
リリスの頭の上の初心者マークが、疑問符の形に点滅する。
「さ、さんじゅうごねん……? つまり、貴方の下で働けば、天界に戻れるんですか?」
「ああ、きっちり働き終えればな。週休二日、福利厚生は……まあ追々考える。やるか、やらないかだ」
「や、やりますぅ! 雇用契約を結びますぅ!」
リリスは何も考えず、ぶんぶんと首を縦に振った。
――ピコンッ。
その時、虚空に光の窓が開き、ルチアナが呆れた顔でこちらを覗き込んできた。
『ちょっと……あんた、本当にただの清掃スタッフになってどうすんのよ。頭痛くなってきたわ……』
「ル、ルチアナ先輩! 私、労働で返してきますから!」
『はぁ……もういいわ。ほら、せめてこれ使って。可哀想だから餞別よ』
ポータルからジャラッと鍵の束が投げ出され、俺の目の前にドスンドスンと巨大な鉄の塊が降ってきた。
それは、マットグレーに塗装され、カンガルーバーとウインチを備えた、オフロード仕様の『特装ワンボックスカー』だった。
「ほう……社用車付きか。悪くない」
「ルチアナ先輩、ありがとうございますぅ!……痛っ!? このサンダル、歩くたびに足の裏のツボが……あうぅっ!」
ペチッ、ペチッ、と情けない音を立てて車にすがりつくリリス。
俺は車のキーを拾い上げ、ドアのロックを解除した。
「さあ、乗れ。借金返済の第一歩だ。まずはこの世界の『汚れ』の相場を調べに行くぞ」
俺――大和尊と、借金まみれの芋ジャージ女神による異世界清掃業務が、ここに幕を開けた。




