残響
高所の風が、静かに吹き抜ける。
黒瀬ユウ——ブラックは、スコープを外したまま立っていた。
視線の先。
すでに、標的の姿はない。
「……逃げられたか」
短く呟く。
その声に大きな感情はない。
だが——
「……詰めが甘いな」
わずかに、自分へ向けた言葉。
最後の一瞬。
煙の中。
撃てた可能性はあった。
(いや)
判断は間違っていない。
最適だった。
それでも——
結果は、未達。
「……まだ足りないか」
静かに息を吐く。
そして、思い出す。
煙の中の影。
至近距離での攻防。
ナイフの軌道。
回避の速さ。
(強い)
間違いなく。
(ただのスパイじゃない)
それは確信している。
そして——
(……どこかで)
一瞬、見えた輪郭。
髪。
体格。
断定はできない。
だが。
「……妙に残るな」
小さく呟く。
違和感。
だが、それ以上は踏み込まない。
今は——任務。
ユウは端末を取り出す。
秘匿回線を開く。
淡々と入力する。
【任務報告】
「対象、排除未完了」
「交戦あり」
「高練度個体と判断」
送信。
数秒の沈黙。
そして——返信。
ユウの目が、わずかに動く。
【継続任務】
短い一文。
続けて表示される。
【対象の排除を最優先】
【長期任務へ移行】
「……長期か」
小さく呟く。
珍しい。
この組織で、同一対象への長期任務はほぼない。
(そこまでの相手か)
あるいは——
別の理由か。
さらに追記。
【危険度S指定】
「……」
一瞬の沈黙。
(随分な評価だな)
あの短時間でここまで上がる。
やはり普通ではない。
だが——
「……了解」
短く返す。
疑問はあっても、任務は変わらない。
端末を閉じる。
そしてもう一つ。
別回線を開く。
「……データ」
呼び出し。
数秒後。
「——はいはい、ブラックくん?」
軽い声。
橘ひなの——データ。
いつも通りの調子。
「任務終わり?」
「未完了」
ユウは淡々と答える。
「え、珍しくない?」
少しだけ驚いた声。
「相手が悪かった」
短く。
それだけで十分だった。
「へぇ……どんな人?」
「……強い」
一言。
沈黙が一瞬入る。
「ふーん……」
軽い返事。
だが、ほんの少しだけ興味が混じる。
「で?」
「長期任務に移行した」
その一言で——
「……え?」
ひなのの声が止まる。
「長期って……あのノクスで?」
「そうだ」
「いやいや、それほぼないやつじゃん」
少しだけトーンが上がる。
だが、まだ深刻ではない。
単純な違和感。
「対象排除最優先」
「危険度S」
ユウが続ける。
「……ふーん」
今度は少しだけ考える間。
「まあ、強いなら納得……なのかな?」
完全には納得していない。
だが、決定的な違和感でもない。
「ねえブラック」
「なんだ」
「その人さ、どんな感じだった?」
ユウは一瞬だけ考える。
煙。
暗闇。
交差した一瞬。
「……無駄がない」
短く言う。
「判断が早い」
「迷いがない」
「……へぇ」
ひなのが少しだけ興味を持つ。
「プロって感じ?」
「……ああ」
それが一番近い。
「ふーん……」
軽く返す。
だが、その裏で少しだけ思考が動く。
「ま、でも」
ひなのはすぐにいつもの調子に戻る。
「ブラックくんが仕留められない相手とか、ちょっと見てみたいかも」
冗談っぽく言う。
「やめとけ」
即答。
「えー、つれないなぁ」
軽く笑う。
そして——
少しだけ間を置く。
「……でもさ」
トーンがほんの少しだけ変わる。
「長期任務ってのは、ちょっと気になるかも」
ぽつりと呟く。
ユウは何も言わない。
「ま、深い意味はないけど」
すぐに軽く流す。
「ちょっとだけログ見てみるね」
「好きにしろ」
ユウも止めない。
「はーい」
軽い返事。
だが——
完全に遊びではない。
「じゃ、またねブラックくん」
通信が切れる。
静寂。
ユウは夜を見下ろす。
(長期任務……か)
そして。
(あの相手)
煙の中の影。
一瞬の顔。
「……次は外さない」
小さく呟く。
それだけ。
一方——
橘ひなのは端末を見つめていた。
「……長期任務ねぇ」
軽く呟く。
指が画面をなぞる。
任務ログ。
過去データ。
「まあ、たまにはある……のかな?」
自分に言い聞かせるように。
だが——
ほんの少しだけ、引っかかる。
「……気のせいか」
小さく笑う。
いつもの調子。
軽いまま。
それでも。
「ちょっと本気で調べるか」




