12
「ヒスト、おいで」
ユーノの促しに、ようやくヒストが一歩踏み出した。先に立って宙道に入り込むユーノに全幅の信頼を置いているのか、一歩、また一歩と暗闇の中を歩き始める。
「来いってば」
「まって」
イルファが苛立つのに、レスファートが声をかけた。残された二頭の間に立ち、その両方の首にそっと掌を当てる。
「だいじょうぶだよ」
レスファートは低く優しく、穏やかな声で、馬に語りかける。
どこか遠い目をしているのは、語りかけつつ、安心出来る心象を馬達に伝えようとしているからなのだろう。
「ユーノがいるんだもの、だいじょうぶ」
「何で、俺じゃないんだ?」
「黙ってろ、イルファ」
混ぜっ返したイルファを、アシャが制した。
渋々と、やがて素直に、レスファートに導かれて、馬達が宙道の中へ歩き出す。それを確認したアシャが、鋭い目配せをユーノに送ってきた。
「…? あ」
そうか。
その意味を悟ってはっとした。すぐに頷き、レスファートを覗き込み、話しかける。
「ほら、レス」
「え?」
「誰がボクの役に立ててないって?」
「え…?」
きょとんとした顔で瞬きして自分を見上げるレスファートに笑いかける。
「レスがいなきゃ、ボクらはここから進めなかったよ?」
「う…ん。……そうか……そうなんだね」
頬を染め、眩そうな目をしてユーノを見返したレスファートは嬉しそうに頷いた。両手を差し伸べ、ユーノにしがみつく。ねだれられるままに、レスファートを抱き締め、その頬に唇を当てて頬ずりした。
「…ユーノ…だいすき」
うっとりと呟くレスファートにくすぐったくなる。
「ボクも、レスが大好きだよ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
楽しそうな笑い声を上げたレスファートが、眠そうなあくびをする。
「眠いの?」
「うん」
「イルファ」
「ああ、わかったわかった」
イルファがひょいとレスファートをおぶった。
「結局俺は子守り籠ってわけだ」
「ぼやかない、ぼやかない」
くすくす笑って、ぱん、とその太い腕を叩く。
「行くぞ」
微笑んだアシャが先に立って歩き出す。
しばらくして、イルファの背中から安らかな寝息が聞こえてくると、ユーノは歩みを速めて、アシャの隣にゆっくり並んだ。
「アシャ?」
「ん?」
「わざと馬が怯えるのを放っておいたろ」
希代の軍師は答えない。
「あなたなら、馬を怯えさせずに宙道へ連れ出す方法ぐらい、知っているよね?」
「レスの不安を取り除くにはちょうどよかったな」
アシャは穏やかに笑ってみせた。
「実際、この先は…レスの力も必要になってくるだろう」
「そうだね」
ユーノも微笑み返す。そんなことになってほしくはないけど、レスファートが自信を持ってくれるなら、それもいいのかもしれない、と思う。
宙道はどこへとも知れぬ闇の中を伸びている。足元は固かったが、光のない夜の湖を渡っていくようで、進むためには、体にも心にも強さがいるような気がする。
(私達の旅みたいだ)
どこへ続くとも知れない運命に従って、あるいは迫り来る運命に追われて、人は皆、夜の道を歩いている。
「ユーノ、もし」
黙って歩き続けていたアシャが、ふいに呟いた。
「え?」
アシャを振り仰ぐと、相手はまっすぐ遠くを見つめて、ことばをためらっている。
「もし、俺が、お前を求め…」
「うおっ!」
背後のイルファが突然大声を出した。慌てて振り向く。
「どうした?」
「いや、足元がちょっと崩れた気が」
「…大丈夫だ」
ひんやりとアシャが唸った。
「物理的に崩れるもんじゃない」
「ぶつり…?」
「……お前が五百人居ても崩れん」
「なら、安心だな!」
わはは、と笑うイルファの顔が少しひきつっているのを見ると、さすがの猛者もいささか不安と見える。
「意外に神経質だよね、イルファ」
「意外とはなんだ。俺はキャサランの金細工のように繊細な男なんだぞ」
「………」
「黙るな」
「いや、だって、ねえ、アシャ?」
くすくす笑って見上げたアシャは、奇妙な顔でユーノを見下ろしている。
そう言えば、話の途中だった、と思い出して、
「ごめん。それで? もし、アシャが私を?」
「……これからも大事にしていこうと思う」
だから、あまり無茶をしないでくれよ、主殿。
いきなり訥々と続けたアシャがすぐに前を見て、ずきりとした。
(何か、大事な話をしようとしたのかな)
もうすぐラズーンだから、それまでにわかっておかなくてはならない事とか、準備していなくてはならない事とか。
(整えなくてはならない身なり…とか?)
思わず自分を見回す。
「…」
ただでさえ見栄えがしない体が、旅でもっと汚れ傷ついている。そういう主の風体では困る、そういう話だったのかもしれない。
胸が詰まった。
アシャの付き人としての仕事はラズーンまでだ。ラズーンに着けば、アシャと離れる。ユーノはセレド皇代行として、ラズーンへの恭順を示した後、再びアシャを伴ってセレドに戻りたいと願うつもりではあるけれど、アシャはそんなつもりはさらさらないのかもしれない。
後少しのことだから、付き人の自分にこれ以上の負担や迷惑をかけないように大人しくしておいてくれ。
そういう意味のことを伝えようとして、けれど、イルファがいるから慮ってくれたのかもしれない。
(そう、だよね。アシャがラズーンへレアナ姉さまを呼び寄せることもできるかもしれないし)
この宙道がどこまでどれだけ通じてるかは知らないが、ラズーンの神々は、その気になれば、セレド近くまで通じさせることもできるのかもしれない。
ならば、この旅は本当に、諸国の『銀の王族』の資質を試し、篩にかけるものだった、ということなのかも知れない。
本当のところは何もわからない。
アシャも何も語らない。
だが、ラズーンへ行けば。
(全ての謎が解けるんだろうか)
そして、旅は終わり、ユーノとアシャは全く違う人生に踏み出して行くことになる。
(もう、触れ合うことさえ、なく)
数々の甘い思い出が胸を掠め、切なくなる。
(そうしたら、この気持ちに、少しは整理がつくんだろうか)
吐息をついたユーノは、隣のアシャがそっと彼女を見下ろしたことに気づかない。
苦しそうに唇を噛む、その仕草が、間近に居ても触れることができない愛しい者への想いをこらえるものだとも。
宙道は、二人のそれぞれの想いを呑み込んで、返そうとはしない。
ただそれは、深く遠く、遥かなラズーンへと続くのみだった。




