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セシルの生まれ育ったアモルエには、梅雨はない。冬に雪こそ降るが、夏もそれほど暑くなく寒暖の差が少ないため過ごしやすい。
ニラカスが、池に落ちてから二日目の朝を迎えた。
きのうから、帝都には雨が降り続いている。梅雨に入ったのだ。北にある帝都の梅雨は湿気寒い。
今朝も、どうにかベッドの上に体を起こしたセシルは、その肌寒さにぶるっと体を震わせた。森にいたときなら、こういうときは、体に配慮してベッドからでなかった。無理をすれば、この後熱が出て寝込むこともあるからだ。しかし、ここでは、そうはいかない。
今日の近侍は、エカシーとブリューだ。
ここ最近同様ベッドの上に服が投げつけられ、着替えようと手を伸ばしたが、襲ってきた眩暈にその手を止めた。
二人の近侍は、「色なし殿下、何をしているのです」「早くお着替えを」と喚いているが、どうしようもない。なんとか、眩暈をやり過ごし、着替えを終えたが、襟のリボンも歪み、腰のベルトもずれていた。
よろよろと廊下に出れば、飴玉隊のオルグが気遣わしい気な視線を向けていた。
その後、やっとのことで長卓に席をおろすも、いつも以上に手が動かない。更に、料理のくどい臭いに気分が悪くなり、器に手をかけた瞬間、またもひっくり返してしまった。
「全くこれだから、下賤は困る」
ブリューが、声を荒げ、今度は、エカシーが、雑巾をセシルの顔に投げつけた。
「色なし殿下、ご自分の不始末は、ご自分で」
―― バタンッ ――
猛然と開けられた扉から現れたのは、ロウダン帝国皇帝グランジウスだった。
「これは、皇帝陛下。お早うございます」
二人の近侍は、胸に手を当て、これぞまさしく貴族の鏡と言うべき礼をとった。
そして、長卓の席に着くセシルと、汚れたテーブルに視線を向け、大げさなため息をつき、肩まで竦ませてみせた。
何度も言うが、彼らに罪の意識はない。
ちょうど良いところへ、皇帝が来た。目の前で、色なしが無様な姿を晒している。
―― 陛下、よくご覧ください。あなたが、誑かされている『色なし殿下』は、こんなにも無作法な下賤です。早く、その目をお覚まし下さい。
と、そう伝えているのだ。
「グ、グラン、……ごめんなさい」
セシルが、声を絞り出した。
皇帝グランジウスは、二人の近侍に目をくれることなく、近侍の言うところの『色なし殿下』をただ見つめ、真っ直ぐに歩みを進めた。
「兄上」
慈愛を纏った声で呼ぶ。
セシルは、もう見つめ返すことしかできない。
グランは、その兄の体を椅子の上からすくいあげた。……軽い。ただでさえ華奢な体が更に細くなっている。たった一週間たらずにだ。
その間、兄はどれほど苦しんだのか。
グランは、セシルを抱え、そのまま大股で『樹冠の間』をでる。
後ろを近侍の二人が、追いかけて来た。
「陛下、陛下、お待ちください。その色な……。いえ、セシリエス殿下は、……」
エカシーは、うっかり、いつもの『色なし殿下』と口走りそうになり、慌てて言いなおした。
しかし、もはやグランには、そんなことはどうでもいい。廊下で控えていたボウヘイに、
「兄上のために、口当たりの良いあっさりしたスープを持て」
と、命じた。
「すぐにお持ちします」
答えたボウヘイを近侍頭エカシーが、睨みつける。
なぜ、お前がここにいる。殿下に近づいてはならないと言ったはずだ、と。
それにエカシーは、心内でせせら笑った。厨房は、すでにエカシーの一派が押さえている。皇帝の命令とはいえ、直ぐにセシルの好みのスープなど用意できないのだ。
ボウヘイに代わり、オルグが『新緑の間』の扉を開け、セシルを抱きかかえたグランを導く。二人の近侍も蚊帳の外に置かれてはならぬと、なんとか部屋に入り込んだ。
寝室のベッドに横たえられたセシルの顔色は悪い。瞳も力なく閉じている。
扉がたたかれ、ボウヘイが、言葉通りあっさりしたスープを早速持ってきた。
近侍の二人は、驚き眼を見開いたが、ボウヘイは、構わずグランに伝えた。
「こちらのスープは、賄い方のソウチョクが、昨夜から殿下の為に煮込んでいたスープです」
グランは、ボウヘイの言葉に付け足した。
「兄上、ソウチョクは、柿探しに遣わしていた賄い方です」
セシルは、静かに瞳を開けた。
「……そうかぁ、無事に戻ってこれたんだね。……よかったぁ」
セシルは、今、自分が置かれている厳しい状況には触れず、他人にばかり心を配る。グランの胸が締め付けられる。
「……はい。昨夜遅く戻って来たばかりですが、兄上の為にと自分で食材を用意し、自宅で一睡もせずこのスープを作ったようです」
「……えっ、本当に?」
「はい。召し上がりますか」
「うん」
頷くセシルの体を、グランが優しく起き上がらせた。
それとともに、美味しそうなにおいが、セシルの鼻にも届いた。ここ数日の脂ぎったにおいとは異なり、あっさりとした野菜の香が食欲をそそる。
誘われるようにセシルが器に手を伸ばそうとしたが、その器は、グランの手の中に収まった。その上、もう一方の手には、匙が握られた。
「……グラン?」
セシルが、小首をかしげていると、グランは、スープを掬うとセシルの口に持ってきた。
「兄上、どうぞ」
「……えっ」
セシルが、固まると同時に近侍の二人が喚きはじめた。
「陛下、そのような卑俗なまねは、おやめ下さい」
「その通りです。下賤な色なしの為に陛下の手を煩わせるなどもっての外です」
グランは、持っていた器と匙をベッド脇のテーブルに置き、怯えるセシルを抱きしめ、言った。
「イオリ、もういいだろう」
「はい」
その返事と共に現れたのは、宰相イオリ、親衛隊長ドモン、貴族院最高顧問二名、法務省審議官二名、法務省書記官二名、正規軍幹部二名だった。
宰相イオリが、眼鏡を押し上げた。
「あなたたちの行動は、この二日間全て、この十名で拝見させていただきました。そして、全て記録させていただきました。この記録書には、私たち十名全ての署名がされています」
「……な、なんだと」
「どういうことだ」
近侍の二人は、思いもよらない展開に驚きを隠せない。
「気づきませんでしたか?私たちは、隣の部屋や廊下に潜み、二日間ずっとあなた方を監視していたのです。あなた方の行いは、不敬罪、『白の民』差別罪、虚偽流布罪、国家反逆罪、国家揺動罪に値します。まあ、生きているうちは、美味いワインは、無理でしょう。下手をすると極刑も……」
「ふ、ふざけるな」「子爵ごときが、たまたま宰相になったからといい気なるな」
「私だけではありません。何度も言いますが、ここにいる十名が、全て一緒にこの目で見て、この耳で聞きました。従って、私たち全員が証人となります」
近侍頭エカシーが、詰め寄った。
「……フッコー卿、ドウカン卿、あなたたちまでどうして……」
「……」
「……」
エカシーが名指しした者たちは、苦々しく近侍たちをにらみ返した。かれらは、反皇帝派と呼ばれる者たちだ。いうなれば、エカシーと同じ穴の狢だ。
ロウダン帝国の中には、もちろん皇帝を支持する者も多い。そして、前皇帝ダヴィーグの働きにより『白の民』迫害を嫌う者も今や少なくないのだ。
しかし、宰相イオリは、あえて今回の査察役に反皇帝派の重職人物も選んだ。後から、皇帝派のでっち上げと言われないように四つの役職二名ずつの内、片方は反皇帝派を持ってきたのだ。そして、一緒に査察し、その都度記録し、署名をさせた。
いくら同じ穴と言っても、非道が、目の前で繰り広げられれば否定できない。嫌でも目にした通りの記録に署名せざるをえない。
さらに、正規軍がここにいるということは、この件が、間違いなく皇宮内だけはなく国家犯罪扱いということを意味する。
エカシーが、突然声を上げた。
「ニ、ニラカスだ。悪いのは、あいつだ。私は、あいつに脅かされたんだ」
「往生際が悪いぜ」
答えたのは、親衛隊長ドモンだ。ドモンが、顎で合図すると縄を掛けられたニラカスが親衛隊に連れられ現れ、即刻エカシーにかみついた。
「馬鹿を言うな、俺は、いつもこいつの指図に従っていたんだ」
「嘘だ。主犯は、おまえだ」
いがみ合う二人の間にドモンが、入った。
「はいはい、仲間割れは、塀の中でやってくれ」
その言葉に答えるように正規軍が、二人に縄をかけた。
「離せ、離せ、汚れた色なしのせいでなぜ私がこのようなめに」
「我々は、当然のことをしたまでだ。相手は、下賤な色なしだ」
暴れる二人は、最後まで悪態をつく。
「おい、イオリ。今ので、刑期がどのくらい延びた」
「そうですね、五,六年でしょうか」
「だとよ。さあて、殿下は、これからお食事だ。そろそろお暇するか」
ドモンの号令と共に、男たちが『新緑の間』を後にした。
残されたのは、セシルとグランだけだ。
「兄上、申し訳ございませんでした」
グランが、頭を下げる。
「グ、グラン、グランは悪くないよ。悪いのは、俺だよ。俺が、もっと強ければ……。ムロトさんもそう言ってたのにね」
「兄上、前にも言いましたが、私は、兄上に何も望むことはございません。ただ傍らにいて下さればいいのです。……それなのに、私の力が及ばないがために兄上を傷つけた」
「……グラン、もういいよ。……俺、大丈夫だから。……そうだ。それより、ソウチョクさんのスープが、飲みたいなぁ。……あっ、でも、自分で飲むからね」
セシルが、わざと明るくふるまうのは、悔いるグランへの気遣いからだ。その優しさが、グランの胸に染みる。
ボウヘイが、冷めたスープの代わりに新たに温かなスープを差し出した。
受け取ったのは、またもグランだ。
「兄上、どうぞ」
「……グラン。俺一人で飲めるよ」
「体調のすぐれないときは、手に力が入らないのではありませんか」
「……うっ」
図星されては、セシルは何も言えない。グランが、更に畳みかける。
「兄上、これで、私の罪悪感が、少しでも軽くなるのです。さあ、どうぞ」
弟にそう言われれば、嫌とは言えない。セシルは、仕方なく口を開けた。
口の中に入って来たスープは、優しい味がした。作り手の愛情が、こもっているのがわかる。
「……おいしい」
「それは、良かった。では、もう一口」
「うん。ありがとう、グラン」
ぐらんが、何口目かの匙をセシルの口に運ぼうとすると、セシルが急に顔を曇らせた。
「グラン、その手の傷どうしたの?」
「ああ、これは、たまたま、ぶつけたのです。大したことはありません」
「大したことあるよ。ちょっと貸して」
そう言って、グランの手を取ると、傷をペロペロと舐めた。
「兄上、何を……?」
「グラン、知らないの?唾液には、ばい菌を殺菌する作用があるんだよ。動物も怪我をすると、自分で舐めて治すんだ」
「そうですか」
そう言われれば、セシルに舐められた場所は、心なしか良くなってきたような気がした。また、ペロペロと舐めた後、セシルが言う。
「でもね、母さんが、あまり人前で舐めたり、他の人は舐めては絶対にいけないってた。でも、グランはいいよね。兄弟だから」
それは、誠に正しい。そして、危険すぎる。
グランは、セシルの肩を掴んだ。
「兄上、母君の言うとおりです。決して、人前や、他の人間を舐めてはいけません。いいですね」
「……う、うん。わ、わかったよ。……グラン、痛いってば」
その後、侍医長モーリスの診療を受けたが、まともに食事をしていなかったセシルの体力は落ち、案の定熱を出しそのまま寝込んだ。
「……ス殿下、……シリエス殿下」
熱にうなされたセシルの耳に、自分を呼ぶ声が届く。
あぁ、この声は……。懐かしいこの声は、……。
旅の間、自分を一番近くで支えたくれた……。




