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グランは、執務の間で膨大な政務と格闘していた。
先日、兄セシルの存在を宮殿にも内示した。それに伴い、国内外への公布の準備や諸般の雑務が増え更に多忙を極めていたが、愛しい兄の事を想えば苦にもならなかった。
一方で、セシルと仲直りした後、ロウダン帝国が抱えていた様々な難問が、解決へと動き始めた。ここを乗り越えれば、政務はかなり落ち着く。
とにかく、少しでも早く区切りをつけ、兄と二人で過ごしたい。
今日も、昼休みに皇宮に戻ることができなかった。報告では、今頃兄は、中庭を散歩しているはずだ。本当は、自分が中庭を案内したかったが、しかたがない。
グランが、文官たちと仕事に精励するなか、執務の間の扉を開けたのは宰相イオリだった。
宰相イオリは、まっすぐグランのもとに向かい、耳打ちした。
「『黒耀の間』へ」と。
『黒耀の間』に入ってすぐに告げられた話に、グランは、イオリの襟を掴んだ。
「池に落ちた!して兄上は!」
「……ゥグッ」
「おい、グラン落ち着け」
グランと共に部屋に入ったドモンが、襟を締め付ける鋼の腕をほどいた。
「……ゴ、ゴホッ、ゴホッ。……い、池に落ちたのは、近侍のニラカスです。……セシリエス殿下は、ご無事です」
「なに。兄上ではなく、近侍だと。……ふん。ならばなんの問題もない。兄上が、無事ならそれでいい」
「おいおい、グラン」
余りの反応の違いに、ドモンは苦笑した。
緊張感の消えた二人とは違い、宰相イオリは、曲った襟を直し、眼鏡を押し上げた。
「いえ、問題があるのです」
「「なんだ」」
思わず、グランとドモンの声が重なった。
「皇宮からの報告によりますと、近侍のニラカスは、セシリエス殿下に突き落とされたと申しておるそうで……」
「「馬鹿な!!」」
予想外の答えに、再び声が重なった。
どう考えても、あり得ない。
あのセシルが、そんな事をするはずがない。仮にあったとしても、セシルは、華奢だ。対するニラカスは、近侍とはいえ、『黒の民』らしくがっしりしている。簡単に突き落とされたとは考えにくい。
宰相イオリが、さらに報告を続ける。
「この話は、皇宮のみならず、すでに宮殿にまで広まっているそうです」
「どういうことだ、それは」
「やけに、はえぇなぁ」
確かにこれは、問題がある。……どうやら、単純な事故ではなさそうだ。
いずれにせよ、大切な、大切な兄の身に何かが起きているのは、間違いない。
グランの胸にどうしようもない焦りと不安が渦巻く。
「皇宮に戻る」
踵を返すグランの腕をドモンが捕らえた。
「待て、グラン」
「離せ、ドモン。兄上が心配だ」
「なら、なおのこと落ち着け。策もなしに動いても無駄なだけだ。殿下の事を想えば尚更だ。とにかく、状況を掴むことが大事だ。動くのは、それからだ」
親衛隊長ドモンの言うことはもっともだ。グランは、一旦眼を瞑り、逸る気持ちを堪えた。そして、次に眼を開けたとき、その眼は、かつて戦場で一睨みで敵兵を散らした〝鋼〟の眼だった。
「ああ。だが、兄上に何かあったらただでは済まさない。兄上を傷つける者は、たとえ誰だろうと許さない。……決してな」
その頃、セシルは、自室の『新緑の間』に戻っていた。
「ニラカスさんは、大丈夫だったでしょうか?」
「……」
ニラカスの代わりに付いたブリューは、セシルの問いに答える気もないらしい。
セシルは、池に落ちたニラカスを何の疑いもなく心配していた。池の水は、まだ冷たい。風邪などひかなければいいがと、自分が受けた仕打ちも忘れ心を痛めていた。
まさか、そのニラカスが、セシルが自分を突き落としたと言いふらしているとは、知る由もなく、夢にも思わなかった。
その後、夕食を向かえたが、食欲はない。献立が、これまでと異なり油がきつく、一口だけ口にしたが、とても食べられたものではない。結局、ほとんど手をつける事もなく床についた。
深夜、『黒耀の間』には、いつもの三人の姿があった。
「どうやら、見えて来たな」
「はい」
「……」
親衛隊長ドモンの言葉に宰相イオリは頷き、グランは無言のまま、厳しい目つきで床を見据えていた。
宰相イオリが、ここまで掴んだ情報を報告した。
本来皇宮に勤める使用人は、仁徳があり優秀な人材が選ばれる。しかし、強力な後ろ盾や、権力者の伝手で入った者も少なくない。
―― 皇宮に勤める ―― それがそのままステータスになる為、貴族の子弟は、こぞって皇宮勤務に志願した。しかし、全ての志願者を受けいれるわけにはいかない。能力はもちろん、貴族間のバランスを見ながら採用された。
そう言った事情から、皇宮に勤める使用人全てが、純粋に忠誠を尽くしているわけではない。表面は、典雅な貴族のなりをしているが、中身は私利私欲に蝕まれた魑魅魍魎の輩もいた。
その筆頭が、セシルの近侍頭エカシーだった。エカシーは、公爵家の出ということで使用人の中でも力を持ち、それなりの勢力を作っていた。
前家令のムロトは、自身の持つ秀逸さでそれらを抑え込んできたが、ムロトが、皇宮を去った後、一気に噴き出したと言える。また、邪魔なムロトが、失脚するように手出ししたのもエカシーの一派だ。
皇宮潜入の際、ノウダに密告したのは、エカシーの手の者だ。
「殿下付き近侍は、当初別の者が選ばれていましたが、エカシーが、公爵家の権力を嵩に新しい家令のボウヘイを脅かし割り込んだということです」
「皇子の近侍ともなれば、それだけでも箔が付くからな。たとえ、相手が『色なし』でもな」
『色なし』の言葉にグランは、ドモンに視線をやるが、侮蔑から言っているのではない事は知っているので何も言わない。
「脅かされたボウヘイは、涙ながらに謝罪し、全てに協力すると言っています。ボウヘイは、伯爵家コデの名を名乗ってますが、男爵家の生まれで、聖職者として寺院にいた後、伯爵家に養子に入りました。公爵家のエカシーにしてみれば、男爵家などクズみたいなものでしょう」
「まあな。エカシーの奴らは、前から気にくわなかったが、やっぱり碌でもねえ奴らだってことだ。今回のニラカスが池に落ちた件も、セシリエス殿下の悪い噂を流し、グランの気持ちが殿下から離れるように仕向けたんだ」
「たわごとを」
グランは、あまりの馬鹿馬鹿しさには吐き捨てた。
「まあな。更に、殿下が皇宮宮殿内に馴染む前に全てから孤立させる狙いもあった。だから、宮殿にまで噂を広めた。周りに誰もいなくなった殿下を操り、あわよくば、権力をと……いけ好かないやり方だぜ」
「それ故に、『色なし』への偏見に加え、自分に服従させる為にも、殿下にひどい仕打ちを……」
「なんだと」
グランの瞳が、怒気を孕む。
「奴らは、兄上に何をした?」
宰相イオリの口から、エカシーたち三人の近侍が、セシルにどのように接し、セシルに何をしたのかが、明らかになる。
グランの握った拳の震えが、溢れかえる憤りで止まらない。
ドモンも付け加える。
「オルゲムントも言ってたんだが……。殿下は、ここ数日、グランが登殿するとまもなく、起床されているということだ。オルゲムントも気になり声をかけたそうだが、殿下自身が、早く起きられるようになりたいからと言ったんで、そのまま様子を見ることにしたそうだ。ただ、顔色がよくないのが気になると。……奴らに無理やり起こされたんだろうよ」
グランが、宰相イオリに目線をやると、イオリは、その意味を汲みとり、戸棚から、一冊の綴りを取り出した。表には、『 セシリエス殿下 仕え人心得 』、その一番下には、ムロト・アコウ・ロウダンゲンの署名がある。
中をめくると、セシルの世話をする際の注意事項が、詳細に記されていた。
性格は、穏やかで思いやりがあり、我慢強く、遠慮深い等が記されていた。
能力では、作法は、申し分なく身につけられている。ただし、魚介類は馴染みがない為、食事の際は、手を差し伸べるようにと付け加えられていた。
記載は、好みまで及び、食は、あっさりとしたものを好む。
身に付けるもの、目にするものは、派手なものをあまり好まないとあった。
そして、『朝』の項目には、
―――― セシリエス殿下は、早朝、無理に起こしてはならない。
無理に起きると眩暈、立眩み、動悸、頭痛、食欲不振を招く恐れがある。
と書かれ、更に、
―――― また、起きてすぐには、体に力が入らない。
着替え、食事は、自分で思うようにできない場合がある。殿下が心苦しく思われないように手助けするように。
ともあった。
この綴りは、セシルを世話する近侍にも手渡されていた。
宰相イオリが、眉間に皺を寄せた。
「彼らは、これを逆手に取ったってわけですね」
「人の弱みにつけ込むなんざ、犬畜生にも劣るぜ」
これまで、怒りを抑えていたグランが、愛剣に手を掛ける。
「あやつら、即刻打ち首にしてくれる」
「待て、グラン」
ドモンがグランを押さえる。
「陛下。証拠もなく手を下せば、貴族たちの反感をかい、帝国に混乱を招きかねません」
宰相イオリが説き伏せる。
ガツッ ――
ドモンの手を振りほどいたグランの拳が、壁を打ち付ける。
「なにが、ロウダン帝国皇帝だ。何が、賢帝だ」
ガツッ ――
「たった一人の兄さえも守れぬのなら、何の価値がある。今すぐ、皇帝など辞めてやる。そして、兄上と二人静かに暮した方が、どれほどいいか……」
鋼と称された皇帝グランジウスも、最愛の者を前にすれば、ただの一人の人間だった。
拳から血が滴る。だが、痛みは感じない。兄セシルの受けた心の傷を想えば……。
更に、拳を突き出す。
「止めろ、グラン」
その拳をドモンが受け止めた。
「逃げてどうする。殿下は、おまえの為に、皇宮に残ると決めたんだ。だったらその覚悟に答えるのが、筋ってもんだ。いいか、グラン。皇宮を変えるんだ。」
「ええ。その通りです。この際、一気に皇宮に巣食う奸凶を排除しましょう」
「そのためにも、エカシーの一派を炙り出さなきゃなんねぇ」
「兄上にまだ、辛い思いを堪えさせるつもりか」
「いえ、一両日に解決して見せます。向こうが、卑劣な手段を使ってくるのなら、こちらは、一分の反論も出来ないほど正当な方法を取りましょう。そうすれば、他の貴族たちへの見せしめにもなります」




