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グランは、セシルを抱えたまま皇帝専用の馬車に乗り込んだ。馬車の中でも、兄セシルを膝の上に載せ離さない。
「……グ、グラン、もう大丈夫だから、……俺、一人で座るから……」
「いえ、顔色が、まだ優れません。それに、兄上、あなたは小鳥のようだ。手の中に捕らえれば、か弱い形をしているのに、手を離せば、自分の翼で、私の飛べない空へと羽ばたく」
「……お、俺、もう逃げないよ。皇宮で大人しくしてるから。……それに、重たいし……足、痛くなるから……」
「そのような軟な鍛え方はしておりません」
「でも……」
「……フッ」
微かだが、グランが笑った。セシルは、初めてグランが、笑った顔を見た。
「……えっと、グラン、なに?」
「兄上、言葉遣いが……」
「……あ、あぁー……ご、ごめん。……じゃなくって、も、申し訳ございません。あ、あの……」
遅まきながら自分の言葉に気付き、焦るセシルに更にグランが加えた。
「それから、生まれて初めて、バカという罵声も浴びせて頂きました」
「……え、えっと、本当にご免なさいで……御座います……です」
「今さらですか」
グランが、楽しそうにセシルの顔を覗き込む。それにつられて、セシルの頬も緩んだ。
「…………プッ、ハハハッ……。そうだよね、グラン。今さらだよね」
「はい。それに、私は、その〝ぞんざい〟な言葉遣いの方が、嬉しく思いますが」
「うん。俺もグランと近くなれた気がする。だって、兄弟だもんね」
馬車が、皇宮に近づく。
グランが、器用に片手でセシルのローブのボタンを外し始めた。
「グラン、これ着てないと『色なし』ってばれてしまう」
「かまわない」
グランは、そう言いながら、セシルのローブをすっかり脱がせてしまった。
戸惑うセシルをよそに馬車が、皇宮の正面玄関につく。
そこには、先回りした家令のムロトと皇宮に勤める使用人が、両脇に並び待ち構えていた。
グランが、セシルを抱きかかえたまま、馬車を降りる。
使用人たちは、みな一様に目を見開いた。驚く使用人に、グランは、視線を巡らし、そして、強い意志を持った声を放った。
「余の兄、セシリエスだ」
皇帝のその言葉に、使用人たちは、再度一様に目を見開いた。しかし、家令ムロトが、当然のように、
「お帰りなさいませ。陛下、セシリエス殿下」
と言い、礼をとると、他の者も黙ってそれに倣った。
セシルは、居た堪れない。
紹介してくれるのは、喜ぶべきことなのだろう。しかし、この体勢で、と言うのは……。
グランの耳元に低く囁く。
「グ、グラン、降ろして」
「……」
グランは、セシルの声に答えず、更に強く抱きしめ、やわらかな笑みを浮かべセシルを見つめた。
その笑みを見た使用人たちは、三度目を見開いた。『鋼』の名を持つ皇帝が、使用人の前で笑顔を見せたのは初めてだった。
十日ほど前、皇宮の廊下で『白の民』を抱えた皇帝が目撃され、使用人の中では大騒ぎになった。
しかし、その後、皇帝からなんの説明もなく、その件に関して緘口令が敷かれ、詮索することも出来ず、うやむやになっていた。陰では、様々な憶測が飛び交ってはいたが。
今、皇帝は、腕の中の『白の民』を兄だと言った。それも、見たこともない笑みを浮かべ。
この事態は、使用人たちの憶測を遥かに超えていた。
驚く使用人たちを残したまま、玄関ホールを抜け、中に入れば、更に廊下の両脇にも使用人たちが、並んでいた。
その様子は、百人を超える使用人が、全て顔を出したのではないかと思わせた。
両脇に並ぶ使用人の壁の間を、皇帝付親衛隊を先頭に、次いで家令ムロト、そして、セシルを抱えたグランが進んだ。
セシルは、グランの肩に顔を伏せた。初めて皇宮に足を踏み入れた時も、やはりグランに抱えられ、恥ずかしさに顔を伏せた。今日は、それより数倍恥ずかしい。
一階の廊下を抜け、生活の場である二階に上がり奥へ進むと、セシルが与えられた『新緑の間』ではなく、向かいの部屋の扉が開けられた。
「グラン、ここは?」
「私の部屋『皇帝の間』です」
「えっ、そんな部屋に俺が入ってもいいの?」
「兄上だから、許される」
そう言い、グランは、居間のソファーに腰をおろした。やはり、セシルは、抱いたままだ。
セシルは、初めて入ったグランの部屋をぐるりと見回した。
はっきり言って、何もない。住人の臭いが無い。あるのは、居間として体裁を整えるだけのソファーとテーブル、そして、戸棚と机。どれも高価な上等なものだろうが、それが却って寒々しさを生んでいる。
むしろ、日の浅いセシルの部屋の方が、ムロトの手によってセシルが好むように手がかけられている。
セシルの視線の意味を汲んだグランが答えた。
「ここには、ほとんど居ませんでしたから」
「……いなかったって。……どうして……」
「帰って来る意味がなかった」
「……グラン」
家令のムロトが、言っていた。
皇族にとって、宮は家であると。その家に、自分の家に帰る意味がないと言うのは、本当に寂しい。
セシルの森の家は、この居間くらいの広さだ。おまけに、あちこちガタがきていた。しかし、森の奥に木の実を採取に行っても、バナルの家に行っても、帰るときは、何も考えずとも、足が勝手にあの小さな家に向く。そして、中に入っただけで、ほっこりするのだ。安心するのだ。満たされるのだ。
グランには、それがなかったというのか。
「……グラン」
セシルが、またグランの名を呼び、堅く広い背中をあやすように優しくさすった。
次の瞬間、優しい手に返すようにセシルの頬にグランの唇がふれた。
「なっなっ……、グラン!」
セシルは、辺りを見回した。宮殿では、成り行き上仕方なく受け入れたが、こんなところを誰かに見られたら恥ずかしすぎる。幸い、親衛隊も、近侍もいない。
「兄上、ご安心ください。人払いをしています」
「よかったぁ。……じゃなくて、グラン、……そ、そのお願いは、さっき聞いたはずだけど」
「兄上、私は、あの場所で、あの時限りと申したでしょうか?」
「……そうは言ってないけど……」
「ならば、いつ、どこでも、何度でも許されるものではないかと……」
「……そ、そんな……」
「私は、兄上の願いを聞きました。それでもなお、兄上は、私の願いを蔑にする気ですか」
「ち、違うよ。……蔑なんてそんな。……わかった。……グランの好きな時にいつでも……何度でも……いいよ。……でもでも、誰も見てないときにして欲しいんだ」
「承知しました」
その後、グランは、これまでの会えなかった分を埋めるように、セシルと二人だけで過ごす時間を味わった。
夕食を自室の居間に用意させ、給仕の為にムロトだけを中に入れた。
食事が終われば、二人並んでソファーに身を預け、何をするでもなく、セシルの話に耳を預けた。
思い出したように、ぽつり、ぽつりと語られる話は、森で出会った動物、洗濯を失敗した話、勉強をさぼって母に叱られたことなど、どれもたわいもない。
話振りも、相変わらず要領を得ないが、心地よいセシルの声に、いつしかグランは、まどろみ始めた。それに気付かず話し続けるセシルの声は、眠りに誘う子守唄のようだ。
グランは、物心ついた頃から、人前で眠ることも、深く眠ることもない。常に緊張を必要とした環境で育ち、眠ることは、すなわち油断を意味し、最悪命を落とすことにつながるからだ。
ただ、セシルは、別だった。セシルの前では、防御の為の鎧をすべて外すことができる。
グランは、ゆりかごのような至福に浸っていた。
しかし、耳に届いた一つの言葉で、グランは、がばりと身を起こした。
「兄上、お泊りとは?」
「他の家に行って、泊まって来る事だよ。だから、俺が、カイト兄さんの家に泊まりに行ったり、カイト兄さんが、うちに泊まりに来たり」
「それは、わかりますが、……その後に、なんと?」
「お泊りのときは、一緒に寝て……」
「……兄上は、カイトなる輩と床を共にしたと……」
「うん。……だって、ベッドが、一つしかなかったから。大丈夫、子どもだったから狭くなかったよ。でもね、カイト兄さんは寝ぞうが悪くて、夜中に俺に絡まったりして大変だったんだ」
「ほう、そうでしたか」
グランの眼差しが険しさを帯びる。
「兄上、兄上には今夜このまま私の寝室で私の床で一緒に寝て頂きます」
「……へっ?……なんで?……でも」
「兄上、大丈夫です。私のベッドは、大きいので一緒に寝てもけっして狭くありません」
その夜、セシルは、ムロトの手により寝支度をすませると、今度は、グランの手で寝室へと運ばれた。
初めて入る、グランの寝室は、セシルの寝室の倍の広さがあった。セシルにしてみれば、寝るだけの部屋にこの広さは、無駄にも感じられた。
部屋の真ん中に、グランが言ったように、天蓋付きのやたら大きいベッドがあった。頭の中で、この大きさだったら寝ぞうの悪いカイトも大丈夫だろうと思った。
グランが、セシルを抱えたまま、ベッドに腰を下ろす。
「兄上」
「なに、グラン?」
セシルが答えたその瞬間、すっと、セシルの唇を何かが、かすめた。
「……グ、グラン……い、今、……口、口に」
思わずセシルは、唇に手を当てる。
「間違えました。兄上」
「……間違えた?」
「はい。頬に口づけしようとして、間違えました。申し訳ございません」
グランが、頭を下げる。
「……ま、間違えたんだ。……そっか、間違えたのか。……間違いだったら仕方ないよね。」
「はい。お許しいただけますか?」
「あ、うん。……大丈夫、大丈夫。気にしないで」
「…………」
押し黙ったグランに、セシルは小首をかしげたが、少しは気にして欲しいと思うグランの胸の内に気付くことはなかった。
グランが、そっとベッドの上にセシルを横たえれば、昼間の疲れが出たのか、すぐに静かな寝息を立て始めた。
グランは、セシルを愛しい兄を腕の中に抱き寄せた。華奢な体は、グランの腕の中にすっぽりとおさまる。
飢えていた心が満たされていく。
セシルを知る以前、グランは、自分の奥底にある寂しさも孤独も自覚したことはなかった。それは、知らなかったからだ。愛情というものを。
しかし、セシルを手にした今、愛を知ってしまった今、もうセシルを離すことは出来ない。離すつもりもない。
輝く白い髪に口づけした。ふせられた瞼に口づけした。さっきは、かすめただけだった唇にゆっくりと口づけした。




