37
ロウダン帝国の紋章は、金の麦穂に縁どられ、中に栗毛の二頭の馬が前脚をあげ交差している。
皇帝の紋章は、その二頭の馬の背後に雫型の黒曜石が加えられ、親衛隊の紋章は、馬の背後に交差した剣が描かれている。
今、皇宮の前に用意された馬車には、馬の背後に交差した鍵が描かれた紋章が付いている。皇宮の家令の紋章だ。
皇帝の居宅である皇宮を預かる家令には、様々な特権が与えられている。この馬車もその一つだ。
広大な宮殿の奥に政の中枢を担う正殿があり、そこに、皇族貴族が務め、皇帝の執務の間もある。
普通、正殿に行くには、外門をくぐり宮殿の敷地に入り、更に内門をくぐり、そびえ立つ建物群の中を通り抜けて行かなければならない。
しかし、皇宮と正殿を直接つなげる道がある。その道を通れるのは、皇帝一家の馬車と家令の馬車だけだ。
皇宮で火急の用ができた場合、家令が正殿まで直接乗りつけ速やかに皇帝と相見できるようになっていた。
鍵が描かれた馬車の中に、家令のムロトと聖職者のローブに身を包んだセシルが乗り込んだ。その馬車の前に、馬に跨った頬傷の親衛隊オルグが就く。
馬車の車輪が動き出した。
と、同時に、馬蹄の音が近づいてきた。一頭、そして、二頭。
三頭の騎馬が馬車を囲むように並んだ。
家令ムロトが、窓の外に目をやる。
「おやおや」
セシルも、外を見る。目に入ってきたのは、親衛隊だった。
彼らとは、毎日、顔を合わせ、言葉を交わし、いつの間にか打ち解け始めていた。
とは言え、セシルを前に後ろに、朝な夕なに監視していることには、間違いない。
「ム、ムロトさん、大変です。囲まれてしまいました。ど、どうしましょう。……あの、ムロトさんは、逃げて……」
「大丈夫ですよ、殿下。彼らは、飴玉隊ですから」
「飴玉隊?」
セシルは、知らないが、セシルを監視する親衛隊は、他の親衛隊からそう呼ばれていた。
皇帝付親衛隊は、隊長が元傭兵隊隊長だったのと同様、ほとんどが傭兵隊の出だ。その為、平民や、また貴族といっても曰く付きの者が多い。
以前は、皇帝付親衛隊は、貴族の中でも名家の子息が担っていた。
皇帝付親衛隊の制服は黒地に金の縁取りがしてあり、〝黒金〟と呼ばれる。選ばれたサラブレッド達は、その制服を纏い羨望の眼差しを集めた。
しかし、現皇帝グランジウスは、その通例を無視し、傭兵隊長を親衛隊長に据え、親衛隊も傭兵隊の中から実力を備えた者を選んだ。
宮殿や皇宮では、皇族、貴族が、幅を利かしている。
その為、たとえ皇帝付親衛隊といえども、妬まれ蔑まされることは珍しくもなかった。
だが、セシルは違った。
なんの偏見も先入観もなく、あの優しい笑顔を向けてくるのだ。
会うたび、ねぎらいの声を掛け、挨拶の言葉をくれるのだ。
セシルは、オルグに飴玉を握らせた後、他の隊員の為にも飴玉を用意した。夜中起きられないときの為に、赤い小袋を用意し、その中に飴玉を入れ居間のテーブルの上に置いた。
「疲れたら食べて下さい」と、小さな手紙を添えて。
セシルの監視に選ばれた者は、みな強面の巨体を持った猛者ばかりだった。言うまでもなく、セシルを威圧するためだ。
その男たちが、セシルに貰った飴玉の小袋を大切に腰にぶら下げた。
親衛隊の〝黒金〟の制服に赤い小袋は、目を引く。
……セシルは、気付かなかったが。
巨木の下でオルグとセシルが対峙した時、飴玉隊もセシルを拘束する為に周りに潜んでいた。
しかし、全てを見ていた飴玉隊は、皇宮に向かうセシルに付き従うことを決めた。
セシルを皇宮から出すなという皇帝の命に背いてまでも。
馬車の中から、セシルが、飴玉隊に頭を下げる。その眼には、黒金にぶら下がる赤い小袋が映っていた。
飴玉隊を伴った馬車は、『皇族の丘』の坂を下り正殿へ向かう。
馬車の中でセシルは、家令ムロトに頭を下げた。
「ムロトさん、すみません。俺のせいで巻き込んでしまって……」
「いえいえ、どうぞ、お気になさらず」
そう答えたムロトの表情は、緊張のため色を失っているセシルとは逆に、どこか嬉々としている。
セシルは、それに気づかず続ける。
「宮殿の中に入ったら、ムロトさんは、こっそり皇宮に戻って下さい」
その言葉に、家令ムロトは、首を振る。
「とんでもない。これからですのに、そんなもったいないこと……」
「もったいないこと?」
「いえ、なんでもございません」
馬車が、宮殿の奥にある正殿の家令専用門にたどり着いた。
正殿は、皇帝に加え帝国の要人が詰め、帝国の根幹をなす場所だ。その為、帝国正規軍が警備をしている。門兵といえども一族名を持つ貴族の出だ。
馬車が止まると、二人の門兵が現れた。
「家令様、ご足労様でございます」
衛兵は、挨拶をした後、馬車の戸が開けられるのを待っている。警備の為に、ここで馬車の中を検察するのだ。
窓を開けた家令ムロトが頷き、親衛隊オルグが戸を開けた。
「失礼いたします」と二人の門兵は、馬車の中を覗き込む。
ここ近年の太平の下では、この検察も形式的なもので、いつもならこの後、馬車はすんなり門を通って行くのだ。
しかし、今日は違った。
今日は、親衛隊の数も多く、その顔ぶれも、いつにも増してやたらむさ苦しい。
その上、……。
「……あの、家令様、こちらの聖職者様は?」
「私の大事な人です」
「はい?」
〝大事な人〟その言葉は、いろいろ妄想を掻き立てられるが、今は、そういう問題ではない。門兵は、気を取り直し、職務を続ける。
「……あの、大事な方でも、家令様以外は、通行証が必要になります」
「火急の用で参りました。この通り、お願いできませんか」
家令が頭を下げたことに、門兵も一瞬目をみはり、たじろぎはするが、やはり引かない。
「き、決まりですから、それは無理です」
「そうですか。どうしましょうかね」
うつむき顔を隠しているセシルの手に嫌な汗がにじみ出る。
その時、
「う、うわぁー」
見れば、門兵の二人が、宙吊りになっていた。
掴んでいる巨体の飴玉隊が、言う。
「家令殿、今の内に」
「ええ」
馬車は、そのまま通り過ぎる。
セシルは、窓の中から二人の門兵に頭を下げた。
「ごめんなさい」
門兵は、襟首を掴まれた猫のように、恐怖のため声も出ず並んでぶら下がっている。
彼らは、悪くない。職務を全うしただけだ。
馬車が、家令専用門口の車寄せに止まった。
オルグが、馬車の戸を開け、家令ムロトが降り、セシルが続いた。
入り口にいた四人の衛兵が、事態に気付きおたおたしはじめた。
飴玉隊のうち、一番むさ苦しい髭面の男が前に出る。この男の顔半分は、髭で覆われている。
「家令殿、ここは、私が」
「お任せしましょう」
セシルは、髭面の男に心配げに告げる。
「あの、どうかお怪我などなさらぬように……。それから、……なるべくさせないようお願いします」
「……まあ、せいぜい努力はしますが……」
その言葉にセシルは、「ありがとうございます」と髭面男の手を握り笑顔を浮かべた。
手を握られた髭面男は、わずかに覗く顔を赤らめ、声を上ずらせた。
「……えっと、……ち、力のかぎり努力します。いや、させていただきます」
セシルに付けられた親衛隊は、見た目を裏切らず、腕も強靭だった。
四人の衛兵を髭面一人に任せ、セシルたちは、オルグを先頭に通路を進む。
この通路を曲れば、すぐに家令専用の階段があり、三階まで、直結している。三階は、皇帝の執務の間や、『黒耀の間』、控えの間があり、皇帝が宮殿にいる間、身を置く場所だ。
言いかえれば、家令専用口から三階までは、家令のための通路であり、他の者と出くわすことは、ほとんどない。
しかし、先頭のオルグが足を止めた。
柱の陰から、帝国正規軍士官の制服を身に着けた男があらわれた。その周りを数人の部下が囲む。
「どこのゴロツキどもかと思えば、皇帝付の親衛隊ですよ。ノウダ大尉」
「ああ。正殿を襲撃するなど血迷っているとしか言えん」
「まったくその通り。いや、らしいと言えばらしいですかな。しょせんは、一族名も持たぬ下賤ども」
「〝黒金〟を脱いで、山賊にでもなった方が、お似合いだ」
ノウダ大尉と呼ばれた男と周りの男たちが口々に言い放つ。
オルグが、前に出る。
「ノウダ・グラオ・キーモア、これは、襲撃ではない。我々は、陛下に大切な要事があってここに来たのだ。通してもらおう」
それに対し、帝国正規軍大尉が、答える。
「おや、誰かと思えば、学舎時代の同級にして名門フルール一族の厄介者オルゲムントではないか。
家令様をたぶらかし、その胡散臭い聖職者を正殿に引き入れるとは……。
一族名を剥ぎ取られたにもかかわらず、せっかく〝黒金〟を許されたのに、こんな馬鹿なことをしでかしては、いよいよ屑になり下がるのではないか。」
「……」
「それに、ノウダ大尉ごらんください。名誉ある黒金にあのようなちゃちな赤い袋などをぶら下げて」
部下の言葉に、ノウダは、肩をすぼめ首を振った。
「制服の着方もわからぬとは?ここは、学舎時代の同級のよしみだ。詰所で指導するか、それとも、許しを乞い、このまま引きさがるか。」
「引きさがるわけにはいかない。どうしても、この聖職者様を陛下のもとへお連れする。ここを通してほしい」
「それが、人にものを頼む時の態度か、オルゲムント・ソフィーレ・フルール。いや、もうフルールの名を名乗れんか。
まあ、どうしても通りたければ、頭を下げ、膝を折れ」
オルグは、違和感を覚えていた。
皇宮に勤める貴族は、一枚岩ではない。
皇宮のトップである家令の不穏な動きを、皇宮に勤める貴族が、正規軍に告げ口するのも想定内だ。
したのならしたで、すぐさま情報が皇帝まで届き、セシルの来訪を悟り、なんらかの対処をするだろう。
しかし、門兵、衛兵は、何も知らされていないようだった。
正規軍が、まだ知らないなら知らないで、後は、このまま三階まで行けるはずだった。
しかし、ここで出くわす確率の少ない人物の登場だ。
ノウダは、正規軍とはいえ、この時間、この場所にいる事はまずない。
そして、ノウダの一族キーモアは、皇帝とは、決して良好な関係とは言えない。
とにかく面倒なことになる前に、ここを突破しなければ。
一番、手っ取り早いのは、正規軍を殴り倒していくことだが、やはりそれも面倒ことになりそうだ。
何と言ってもセシルの存在は、まだ公にされていない。
オルグが、頭を垂れ、膝をつく。
息をのみ、身じろぐセシルを家令ムロトが抑える。
―― ガツッ ――
跪いたオルグを、ノウダの軍靴が蹴りつけた。よろめき手をついたオルグが、口元を拭う。
「いい様だな、クズが」
ノウダの言葉に共鳴するように正規軍がせせら笑う。
オルグの前に陰が差す。
顔を上げれば、ムロトの手を振り払ったセシルが、オルグを背に手を広げ立っていた。セシルが震える声を絞り出す。
「オ、オルグさんは、ク、クズなんか、じゃない」
「なんだと、このいかさま聖職者が」
ノウダが、ローブに手を掛けた。めくられたフードから白い髪がこぼれ、真珠の瞳がさらされる。
「貴様、色なしか。貴様のような下衆が、なぜこの正殿にいる」
ノウダが、剣に手を掛ける。抜きざま、オルグの剣が、ノウダの首に当たった。
剣を当てたまま、オルグが、ノウダの耳元で囁いた。
「ノウダ、学舎時代、女子寮を覗いていたことと、下着を盗みまくっていたことを黙っててやる。そのかわり、今は見逃せ。いいな」
こくこくと頷くノウダの首に一文字の赤い筋が出来ていた。
オルグたち一行は、最後の飴玉隊にノウダたちを任せ、皇帝のいる三階に向かう。
去り際、振り返ったセシルに、残る飴玉隊が告げた。
「怪我をさせないよう、精一杯努力します。お任せ下さい」
すると、セシルは、困ったように眉を下げ、そっと伝えた。
「ちょっとだけなら、仕方ないですよね」と。




