EP20
下弦の月が雲に飲まれると、星の明かりだけでは心もとない。街灯の光が届く先から先は、闇が息を潜めて待っている。街は日中の賑わいを家々の中にしまい込み、夜は静まり返っていた。
屋敷を抜け出すのも入るのも、九条に仕える人間であれば問題はなく簡単にできる。馬鹿なのか忠誠心を疑っていないのか。
今日は小さな懐中電灯があれば、夜道に不自由することはない。待ち合わせの時間は午前零時。あと二〇分ほど余裕はあるが、街の外れにある廃屋のために急がないと間に合わない。
男は周囲を気にすることなく、小走りで道を走った。
街の外れにある廃屋の周りは人の出入りもなく草が生い茂り、木々も間引きされることなく密集しているため夜を深くしている。
今にも崩れ落ちそうな扉を開くと、ギイと耳障りな音が響いた。
「ギリギリじゃあないですか」
長い髪を一つに纏め、女のように薄っすらと化粧をした男が、持ち込んだランプに火を点けて立っていた。
「チッ! ギリギリであって遅れてはいない」
「舌打ちはよくないですよ。さて、久々の顔顔合わせ。九条当麻の妻になった紗月殿はどうでした?」
思わず自分の襟を軽く摘まむ。初めて接触した時のことを思い出し、胸が少しだけ縮まったような生き苦しさを覚えた。
「聞いていた話しの通りだ。自己肯定感は低いな。でも、それなりに当麻から自由を与えられたみたいだ」
厳道廻は「ほう」と驚きつつ、直ぐに笑みを浮かべる。
「あの九条当麻がねえ……夫婦関係は順調、と言ったところでしょうか?」
「いや、そうでもないだろう。一緒にいる所を見たことがない。それにあいつは討伐で屋敷にいる時間が短いからな」
でも彼女が寂しそうにしている素振りはない。自由を満喫しているように見える。
「あらあら、私のせい、なのでしょうねえ」
厳道は「うふふふ」と声を出して笑っている。
「じゃあ今回、九条夫婦が二人いる所を見られる、ということですね」
「そうだな」
胸ではなくその奥の心臓に、針を刺されたようなチクリとした痛みが走った・
「おや? 藤堂さん、どうかいたしましたか?」
「いや。二週間半後、だったな」
「そうですよ。ボケたんですか?」
「確認をしただけだ」
「そうですか」
この男が何を考えているか未だに分からないが、目的は似たようなの。己の目的が達成されれば、そこでこの縁も切れる。藤堂はかすかに揺れる明かりに浮かび上がる厳道の姿を、じっと見つめていたた。
「では、私たちは仕事をしてきますね。藤堂さん、無茶な行動はくれぐれもなされぬよう」
「するか。お前たちこそ、目立ちすぎるなよ。まだ意図的だとは気付いてはいないみたいだからな」
「おまぬけなことで」とクククッとお腹を抱えて笑っている。
「では、次は作戦決行の三日目に。それまでまた精々、九条家で甚振られていてくださいね」
藤堂はそのまま無言で廃屋を出た。草むらを抜けると静かな夜の街が、下弦の月に照らされている。「彼女もやはりパーティーに行くのだろうか」
空に浮かぶ月は、ただ静かに冷たい明かりを放っていた。
「はあ」
当麻は車の中で深いため息を吐いていた。
「当麻様。今の溜息が三二回目です」
「高遠。気持ち悪いぞ」
「申し訳ありません。しかし先代との面会は避けられないので、腹を括っては?」
この男は簡単に言うが、どうしても当麻は自分の父親で先代の九条龍庵が昔から苦手だった。ここ最近は呼び出しがなかったのに、一体何の用だろうか。毎回呼び出されても、大した話はしない。顔を合わせ、近況報告で終わるだけで屋敷に尋ねる必要性を当麻は感じられない。
「妖や怪異討伐してる方が楽だな」
「龍庵様と討伐を同じ土俵で考えること自体、違うのでは?」
まったく真面目な奴だ。当麻は車の窓の流れる景色をぼんやり眺めた。
人の行き来がまばらになり、建物も次第に少なくなって木々の姿が目立つようになってきた。そして車を走らせて三〇分。口を閉ざした大きな門が見えてくる。車のスピードが落ちると門がゆっくりと開き、吸い込まれるように車が敷地に入って行く。
「当麻様」
「分かっている」
車から降りると、父親の世話係をしている長岡が玄関の前で頭を下げて待っていた。
「当麻様。旦那様がお待ちです」
「ああ」
帝都の屋敷に比べれば造りも規模も小さいが、九条家の別邸と呼ぶにふさわしい広さの屋敷と手入れの行き届いた庭園は、隠居した当主ごとに趣を変えてきた。今は見事な枯山水になっている。
長尾の後を付いて行くとどうやら今日は、茶室で対面するようだ。渡り廊下を進むと小さい庵が現れる。
「では。私はここで」
自分もここから立ち去れたなら、どれだけ楽だろうか。障子の前に座り「当麻です」と声をかけた。
「入れ」
「失礼します」
茶道の作法に従い、茶室の中に入る。亭主をしている父の前の客畳に、当麻は腰を下ろした。
パチっと炭が始める音とシューと釜の中の湯が音を立てている。炭に香木を入れているために、茶室に匂いが満ちていた。




