EP18
「当麻様、ありがとうございます!」
「すまなかったな。不便をかけて」
「いえ。八重さんには良くしてもらっていましたし、それにもともと外には出なかったので」
最後は声が小さくなる。
「そうだったな。ただ九条の家の人間だということは、屋敷内でも外に出ても忘れるな。それだけだ」
「はい! 当麻様はお優しいかたですね」
「は?」
「すみません。お仕事中でしたね。これで失礼します」
紗月は最後に一礼すると、八重と共に執務室を出た。
「八重さん?」
「ふふふ」
あの八重さんが笑っている。でも背中を少し丸めて壁の方を向いているから、彼女の顔は見えない。
「八重さん、面白いことでもありましたか?」
「――いえ。私のことはお気になさらず」
スッと背筋を伸ばして振り返った八重は、いつもの表情に戻っていた。
「あ」
部屋に戻ってきても、特にすることはない。紗月は少し心を躍らせながら、屋敷にあるあの大きな桜のある庭を散歩していた。そこに藤堂が、庭の隅で桜の木を見ているのが目に入った。彼もこちらに気付いたようで、小さく頭を下げている。
紗月は藤堂の側まで行くと「こんにちは」と声を掛けた。
「奥様、お散歩ですか?」
「はい。藤堂さんは、大丈夫ですか?」
周りを見回しても、他に人の姿は見当たらない。
「今は僕、一人です。心配をして下さるんですね」
なんて悲しそうに笑う人なんだろう。母と藤堂の顔がダブって見えて、少し胸が重苦しくなった。
「いつも、その」
その先の言葉が喉に詰まる。
「そう、ですね。でも怪我をさせられたりすることはないので」
身体的な暴力だけじゃないことを、紗月はよく知っている。今、自分は当麻様の妻として九条家にいるのなら、彼を助けることがきるんじゃないか。自分がされていたことをこのまま放置することを、紗月にはできそうになかった。
「あの! 私が何とかします」
「え?」
「その、一応私は当麻様の妻ですし、こういうことはやっぱり……良くないと思うんです」
藤堂は目を丸くして驚いている。そして「ありがとうございます。お気持ちだけで私は十分です」と霧に覆われたような曖昧な笑顔が返ってきた。
ここは自分が無理に任せて欲しいと言えば、彼は委縮してしまうかもしれない。何より、そう言ったところで信用はしてもらえない。紗月には藤堂の考えていることが、手に取るように分かる。まるで少し前の自分と向き合っている気にさえなる。
「わかり、ました」
「あ、そうだ。あの、これ」
胸元から藤堂が出したのは、紗月が前に渡した椿の刺繍がされたハンカチだった。
「お返しします。ちゃんと洗ってありますので」
紗月は差し出された手を包み込むように握った。藤堂の手は少しカサついていて、大きくてそして冷えていた。紗月は小さく首を横に振る。
「いいえ。これは藤堂さんにあげた物なので、藤堂さんが持っていてください」
「でもこんな立派な刺繍のハンカチ……本当にいいんですか?」
「はい! 是非」
すると藤堂がまるで春の陽気を思わせるような笑みを浮かべた。本当に当麻様とはまた違う綺麗な男の人だわ。その綺麗な笑みに紗月は顔に熱が集まるのを感じた。
「何、やってるのかな?」
低く冷え冷えとした声が、紗月の後ろから聞こえてくる。この声は「青龍様」と紗月は振り向く。
凄く、怒っている? 機嫌が悪そう。青龍は今までに紗月が見たことがない、険しい表情をしている。そして青い瞳は冬の池のように冷え、氷のような視線は紗月ではなく藤堂に向けられていた。
「青龍様。あの」
「君、藤堂君さ、紗月は当麻の番なのに、なんで手を握っているんだい」
「青龍様、藤堂さんの手を握っているのは、私で」
「紗月ちゃんは、黙っておこうね」
氷の膜を張った目まま笑みを浮かべる青龍に、紗月の身体は冷気を浴びたように動かなくなる。青龍様を止めないといけないのに体が、喉が震えて上手く声が出ない。焦る紗月を置いて、青龍は続ける。
「藤堂君さ、一体なんなんだい?」
「え?」
藤堂の戸惑う声と、青龍の質問の意味が分からなくて紗月は首を傾げる。
「――まあいいよ。紗月ちゃん、行くよ」
「え、あの」
青龍に手を掴まれ、引きずられるように紗月は歩き出した。後ろを振り向くと、藤堂は俯いていて顔は見えなかった。
「ごめんね、紗月ちゃん」
庭にある池の前で立ちどまった青龍が、申し訳なさそうに振り返る。
「いえ。ちょっと驚きはしまたけど」
そう言えば初めて藤堂と会った時も、青龍の顔は硬かった。
「あの、藤堂さんと何かあったんですか?」
「え?」
「いや、あまり、その……」
青龍はうーんと言いながら、頭を掻いている。
「別に何もないんだ。この屋敷の人間を把握はしているけど、俺は当麻と血脈を繋げているからね。だから人に興味がないに近い。あ、紗月ちゃんは別。当麻の番だしね。でも彼は何というか……見ると不快というか、気分が落ち着かないんだ。嫌悪に近いかもしれない」
「何かきっかけでもあったんですか?」
「ない。まあ人でいう、合う合わない、というものなんだと思う」
清原では神獣の玄武には会ったことはない。噂程度でしか耳にしたことはないけど、やはり神獣は神聖視はされていた。




