マウンドに立つ⓼
(……馬鹿だ、オレ)
"ピッチャーを担うというのは責任を担うこと"。叶華に忠告されたあの時、理解したつもりでいた。
なのに、全然だ。一ミリもわかってなかった。
このマウンドに立った瞬間、このチームの命運を"任せられた"のに。
それなのに、"逃げる"なんて――。
「…………っ」
きつく噛み締めた奥歯。強く握った右の掌から、食い込む爪の痛み。
それでも古義は解けずにいた。
情けない。悔しい。渦巻く感情が出口を見失って、胸を突き破ってしまいそうだ。
「古義」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、目の前にキャッチャーマスクを上げた明崎がいた。
明崎は古義の眼前にボールを掲げ、
「どうする?」
問われた意図に、古義は足元へ視線を落とした。
ここで出した答えが、今後にそのまま直結するのだろう。
マウンドを降りるのか、それとも。
足下に描かれた一本の線が浮き上がり、網膜に飛び込んでくる。真新しいそれは紛れもなく、古義自身の投球によって刻まれた跡だ。
ピッチャーとして、マウンドに立った証。
(……そんなの、決まってる!)
古義は勢いよく顔を上げ、「明崎センパイ!」と右手を差し出した。
「お願いします! もう一回やらせてください……っ!」
甘えるな、と叱咤されるかもしれない。それでも"ピッチャーとして頑張る"と決めた心に、迷いはなかった。
本気なのだ。ちゃんと。逃げてしまった身では説得力はないだろうが、気持ちに嘘はない。
(投げたい、投げたい、投げたい!)
右手を宙に浮かせたまま、必死に明崎を見つめ続ける。
ふと、明崎が頬を緩めた。
「……ほらよ」
右手に落ちてきた重みを受け止めようと、反射で指先に力を入れた。
硬い、ゴムの感触。明崎から受け渡された温度が、掌からほんのりと伝わってきた。
「古義」
柔らかい声で呼んだ明崎は、「いいか、覚えておけ」と続ける。
「どんな場面でも、キャッチャーはピッチャーを信じてるんだよ。14.02メートル離れた先で、ピッチャーっつう"相棒"がこのグローブ目掛けて、その時のめいっぱいを投げてくるのを待ってんだ。受け止めてんのはボールだけじゃない。そのボールに込められた全部を、身体全部を使って捕まえてるんだ。腰落として、両足踏ん張って、ピッチャーと向き合いながら受け止めるのがオレの役目」
「……向き合って、受け止める」
「そ。だからそのボールには、古義のめいっぱいを込めてくれ。お前が"投げる"っていうなら、オレはちゃんと受け止める。信じろよ、オレを。それと、お前自身を」
「オレ自身を、信じる」
呆然と呟いた古義に、明崎は「そうだ」と笑って肩を叩いた。
「待ってるからな」
そう行って背を向けた明崎は、防具をカチャカチャと鳴らしながら小走りで戻っていく。
残された古義は、握りしめた白球へ視線を落とした。
――込める。考えたことのない感覚だ。
古義にとってボールはただの道具で、それ以上でもそれ以下でもない。
それはどんな試合でも同じで、飛んで来たらグローブで捕まえて、放って、バットを構えて、来たら打つ。それだけだ。
感情を乗せる余地などない。いわば常に、"受け身"なのだと思う。
「……ったく、アイツは相変わらずいちいち面倒くせぇなあ」
声に古義は右方と見遣った。サードを守る宮坂が、ぞんざいに頭を掻く。
「大体お前、投げる練習すら大して出来てねぇんだろ? オレからしたら、その状態でそこ立って投げたってだけで十分スゲーと思うわ。明崎も深間サンも鬼すぎだろ……つーかよ」
宮坂は眉間に皺を寄せ、他方へと視線を投げた。
受け止めた美咲が、腕を組んだまま「おや?」という顔をする。
「おめーもよく黙ってんな。いっつも"無茶はさせない"ってウルセェくせに……。古義のコレは"無茶"じゃねーのかよ、"コーチ"さんよ」
「この件に関しては優に任せてるからね。まあ、ピッチングフォームをみた限りは綺麗なもんだし、宗一郎が打球のコントロールをミスるとも思えないし、そういった意味では"無茶"ではないかな」
「んだよその含み」
「まだ始めたばっかりの新人くんに、いきなりそこまで求めるのは酷じゃない? って点は私も同意。けどまあ、急ぐ気持ちもわかるからね……。だから真也も目を瞑ったんでしょ」
視線を受けた高丘が肩を竦めて苦笑する。
宮坂は顔をしかめつつも合点がいったのか、「……けっ」と前を見据た。
言葉を引き継いだように、高丘が一歩を踏み出して
「すまない、古義」
「……いえ」
その謝罪が美咲の言う"急ぐ気持ち"に起因するものだと、古義は何となく察したが、何故急いているのかは訊ねないことにした。
正直そこは、どうでもいい。
ピッチャーとして立つ古義を、「受け止めてくれる」と言うのだ。
宮坂も高丘も「降りろ」とは言わず、むしろ気遣ってくれている。
(あったかいなあ)
ふと、古義の脳裏に、いつだかの日下部の言葉が浮かんだ。
『二年の時に総体を見に行って、このチームでやりたいって思った。だから来たんだ』
日下部が憧れたのは、表面的な強さじゃなくって、こういった温かさだったのかもしれない。
(……今度、聞いてみよっかな)
心を覆っていた熱量が、丸みを帯びて和らいだ。
――ひとりじゃない。
ピッチャーズサークルを描く白線は、地面からほんの数ミリ盛り上がっているだけだ。
見えない壁なんてない。




