マウンドに立つ⑦
「――っ」
右手をぐっと握りしめ、張り付く両足を地から剥いだ。全力の駆け足で、マウンドへと向かう。
白線で書かれたピッチャーズサークルまで、ほんの数秒。古義は辿り着いた白線の前で、歩を止めた。
――この先は、マウンドだ。
ザワリ、と心臓が騒ぎ立つ。白線の内側が、まるで未知の別世界のようだ。
緊張なのか興奮なのか、自信でもよくわからない起伏に包まれながら、古義は意を決して一歩を踏み入れた。
ゴクリと鳴った喉。地中に埋め込まれたピッチャープレートが、細かい砂を被りながらこちらを見つめている。
周囲に刻まれた無数のピッチングの跡が、そこが蒼海の縄張り(ポディション)なのだと強く主張していた。
「――古義っ!」
呼ばれた名にハッと顔を上げると、放たれた白球が眼前まで迫ってきている。
反射でグローブを振り上げ、なんとかキャッチした。
緩やかな投球で良かった。安堵を零しながら視線を投げると、投球主はそこまで計算済みだったのか、悪戯っぽく口角を釣り上げた。
「思いっきりでいいかんな。深間さんは、避けんのも得意だから」
バッターボックスに立つ深間が、こくりと首肯する。
古義はグローブ内のボールをぎゅっと握り、「…………す」と了解を示した。
視線を落として、ピッチャープレートを見つめる。右足で軽く砂を掃うと、"勉強会"で教鞭をふるう叶華の言葉が思い起こされた。
『いーい? ピッチャーはまず、ピッチャープレート上で"セット"しなければならないの。投球前の静止ね。この時、ソフトボールではプレートを"両足で"踏む必要があるわ。片足が少しでも離れていたらルール違反よ。……アンタの場合は――』
「……右のかかとと、左のつま先で挟み乗る」
呟きながら、古義はピッチャープレートに足をかけた。太ももの上でグローブを構え、右手で内側のボールを握る。
セットの体制は練習時とさして大差はない筈なのに、微妙な違和感が身体を抑えつけている。
無理やり弁当箱に詰め込まれた卵焼きみたいな、そんな窮屈さだ。
(……心臓が耳で騒いでる)
周りでいくつもの声が飛び交っているが、どれもただの音としか思えなかった。
深間がバットを構える。
その光景だけがダイレクトに飛び込んできて、古義は下唇を噛んだ。
(――投げなきゃ!)
体重を移動させながら身体を振り、右手を振り上げたと同時に右足で地を蹴った。
状態を開くように振り上がった左手。重力を振り切ったグローブの重みと、一瞬の浮遊感。
しかし、
「――っ」
瞬間、ザワリと駆け上がった恐怖。
もしかしたら、当ててしまうかもしれない。
そんなコンマ数秒の躊躇が古義の右腕を失速させ、着地した左足とのリズムを狂わせた。
「っ!!」
球をはじこうとする指先の感覚が、やけにリアルだ。皮膚を擦るゴムのザラリとした摩擦。
まっすぐ、まっすぐ……!
必死な脳裏がそれだけを占めて、古義は不格好ながらも右腕を伸ばし、待ち構えるキャッチャーミットへと球を送った。
崩れた上半身を支えようと右足が流れる。
眼前に現れた白球は不格好な線を描いて、深間とは反対側、アウトハイに逸れてった。
バフリ。受け止めた明崎のキャッチャーミットが、鈍く間抜けな音をたてる。
悪球。の筈なのに、古義の肩は安堵に下がった。
(――良かった)
当たらなかった。
一気に緊張が抜けていく。が、
「……古義」
普段は温厚な深間の声が、剣呑な響きを帯びる。
その驚愕と危機感に、背筋を伸ばした古義の「はいっ!」は若干裏返ってしまった。
それでも深間は真剣な表情を崩さない。
まっすぐに古義を見つめて、咎めるように双眸を細めた。
「なぜ、安心している。"こんなの"がお前の球なのか」
「! っ、それは」
「こんなことでは、"俺達"のマウンドは任せられない。後ろを、守ってやるつもりもない」
「っ!」
ストレートな一蹴が古義の胸中を突き抜け、抱いた決意や微かな希望を、強烈な轟音をもって粉々に打ち砕く。
脳天から指先まで、一気に凍り付いていく感覚。
知っている。これは…………"絶望"だ。
「ふ、深間さん。知ってると思いますけど、古義はまだセットの投球も始めたばっかで……」
立ち上がった明崎が、遠慮がちにフォローを入れてくれているのが聞こえた。
それでも古義は微動だに出来ず、ただ、呆然と深間の双眸を見つめ返す。
深間もまた、古義から一瞬たりとも目を逸らさずにいた。
「……知っている」
深間はバットを軽く下ろし、
「……プレッシャーのかかる場で、"置きに"くるようでは、任せられない」
「!」
そういう、ことか。古義は理解した。
深間は"覚悟"を試していただけではない。わざとプレッシャーを与え、"精神力"を測ろうとしていたのだ。
『ピッチャーは孤独だ』
そんな言葉を何度も聞いたことがある。
マウンドに立つピッチャーに逃げ場はない。どんな窮地に陥ろうと、投げなければならないのだ。
恐怖とか鼓舞とか、沢山を抑え込んで。
そうして放ったその一球で、勝敗が決まってしまう。




