最終話 伊織&佑
不倫って?
佑さんがまさか、誰かと…ってこと?!
待って。そんなわけないよ。絶対にそんなわけ…。
頭がぐるぐるする。目の前もぐるぐるしてきた。
みんなの言っていることも良く聞こえなくなってきた。どうしよう。
「中山さん、不倫じゃないですよ。れっきとした僕は伊織の夫です。自分の妻を抱きしめてもセクハラにも不倫にもならないですよね?」
今、なんて佑さん言ったの?自分の妻をって言った?
あ、そうか。この前のコピー室で佑さんと抱き合っているところを、中山さんに見られたんだっけ。
そうか。それを中山さんが勘違いして。
「そうそう。社内でいちゃついていたってだけでね~~~?い、お、り」
「……」
「伊織?どうした?」
真広が私の顔を見て目を丸くしている。
「び、び、び、びっくりして」
なんとか声を出したけど、言葉が続かないよ~。
「え?」
「佑さんが浮気するわけないって思ったけど、思ったけど…」
やばい。私、泣きそう。
「するわけないだろう。他の女性になんてまったく興味も無い。まさか、一瞬でも僕が不倫していると思ったのかい?」
「ごめんなさい」
ボロッと我慢していたのに涙が出てしまった。
「ほらほらほら~~。中山さんが変なこと言うから~。伊織、泣く事ないって」
そんなこと言ったって、真広…。本当にびっくりして。
「いや、主任が社内でいちゃついたのが悪い」
ああ、塩谷さんが佑さんを怒ってくれた。
「ごめんなさい。お二人が結婚しているって知らなかったから。だ、だって、苗字も違うし」
「戸籍上では伊織は魚住伊織。職場では魚住が二人いるとやっかいだから、旧姓を名乗っているだけですよ」
佑さんは、泣いている私の頭をなでなでしてくれた。ああ、やっとこほっとできた。
「中山さん、主任が浮気するわけないじゃない」
「そうだよ、自分の奥さんに激甘な人が」
「奥さんをエコヒイキしている人が」
うひゃあ。真広も野田さんも塩谷さんも、何を言い出したんだ。激甘って何、激甘って。
「溝口さん、野田さん、塩谷、変なことを言ってないでください」
ほら、珍しく佑さんが照れている。私も顔が熱いよ。
「桜川さんにだけは優しいのよ」
塩谷さん、まだそんなこと言って~。
「いつも主任怖いんですけど、優しい主任素敵ですもんね。羨ましいなあ、桜川さん」
「え?」
今なんて中山さん言った?
優しい主任、素敵ですもんね?!
そして、中山さんはとろんとした目で佑さんを見ている。
まさか、
まさかと思うけど。
佑さんを好きになっていたりしないよね?!
中山さんのことが、すっごく気になって、マンションに帰ってからも私は暗かった。
ベッドに入り、もんもんと中山さんのことを考えた。
私も、佑さんの最初の印象は悪かった。最悪だった。
これから毎日、佑さんと顔を合わすのかと思うと憂鬱だった。
だけど、いつからだったかな。
ああ、きっと映画の話をしてからかな。ううん。佑さんのくすっと笑った顔を見てからかな。
佑さんの印象が変わって、どんどん気になる存在になって、話をするのが嬉しくて、また笑顔が見たくなって。
佑さんに何か仕事を頼まれると嬉しくて、佑さんに会えるだけで嬉しいから、会社に行くのが楽しみになって。どんどん、どんどん、佑さんが好きになった。
中山さんも、そうなるかもしれないよね。
そして、佑さんも最初は部下として見ていた中山さんが、だんだんと大事になって一人の女性として見るようになって。
なんてことに…。
うわ~~~~~~~~~。思考がどんどん暗くなっていく。
中山さんのほうが私よりも可愛いし…。でも、ちょっと頼りなげなところなんて、守ってあげたくなる感じだし。
私なんてまったく、魅力ないし。いつ、佑さんに飽きられるかわかんないし。
とめどなく落ち込んでいってる。
「伊織?」
布団の中で丸くなっていると、佑さんが寝室に来て掛け布団をめくった。
「あ…。丸くなってる」
ぼそっと佑さんの呟きが聞こえた。
「どうした?」
隣に寝転がり、佑さんが私の髪を優しく撫でた。
なんでもないと言いつつ、思わず佑さんに抱きついてしまった。
佑さんの腕の中は安心する。そして、お酒の力も加わり、佑さんに本音を話した。
中山さんのことが不安なんだって…。
でも、佑さんは優しく、私を安心させてくれた。
「伊織は特別だよ」
出会った時は、お互い最悪の印象。
いつ、佑さんは私を好きになってくれたんだろうか。
わかんない。だけど、夢の中で私は佑さんと出会ってからを思い返していた。
映画の話。いつも盛り上がった。
一緒にカラオケに行ってくれた。
フラワーアレンジメントに興味を持ってくれて、佑さんのマンションで一緒にアレンジした。
佑さんは、真剣な顔や、優しい笑顔や、いろんな表情を見せてくれた。そのたび、私は胸キュンしていた。
酔った時も、風邪で寝込んだ時も、いつだって佑さんは心配して世話してくれた。
そうだ。佑さんは、いっつも優しかった。
会社では、クールでそっけなくって、周りの事務の子達からは嫌われたりもしていたのに、私にだけは優しかったよなあ。
「伊織は特別だよ」
その言葉が木霊のようにずっと聞こえてくる。
私も、佑さんは特別なの。
翌朝、目が覚めると目の前に佑さんの優しい顔があった。そして、
「おはよう、伊織。朝ごはんできているよ」
と、おでこにキスしてくれた。
わあ。朝から胸キュン!
優しすぎる。激甘って言葉、ぴったりかも。
こんなに佑さんが優しくするのは私だけ?じゃあ、ど~~んと自信持っていたらいいのかな。
その後、中山さんは仕事に対して意欲的になった。そして、佑さんに褒められると嬉しそうにしている。
それが、時々気になったが、そのたび、自分に自信を持って。大丈夫。と自分自身に言い聞かせた。
佑さんは、中山さんがしっかり仕事をするとちゃんと評価し、褒めていた。でも、けっこう厳しくて、細かいことまで注意をした。その時の佑さんは怖かった。
結局、中山さんは、
「主任って、やっぱり怖いです。桜川さんは、なんであんな怖い人が良かったんですか?」
と、佑さんに対して一線を引き、怖い上司としてしか認識しなくなった。
中山さんには同期に好きな人がいるらしく、とても優しい明るい人のようで、
「私、優しい人がいいですよ」
と、一緒にランチをしたときに言っていた。
「主任も伊織には十分優しいみたいだけど、伊織にだけなんだよね」
真広にそう言われ、困ってしまったが、中山さんが佑さんを好きになることもなく安心した。
そんなこんなで、2週間はあっという間に過ぎ、私の辞める日が来てしまった。
3時までは仕事をした。月末なので、けっこう忙しかった。でも、その後は、社内に挨拶に行き、最後には営業部のみんなに挨拶をした。
5時半を過ぎると同期に呼ばれ、会議室で花束を貰った。真広も、鴫野ちゃんも目に涙を浮かべているから、私まで涙がこみ上げてきた。
「幸せにね」
「寿退社おめでとう」
みんなに祝福してもらい、会議室を出た。自分のデスクに戻ると、2課のみんなからも花束を貰った。
真広とロッカールームに行き、私がぐずぐず泣いていると、真広に一喝された。
「泣くなってば。まだまだ、アレンジ教室でも会社来るんでしょ?」
「うん」
「結婚退職なんだから、おめでたいんだから笑ってよ、伊織」
そう言いつつ、真広も目を真っ赤にしている。
「真広が辞めるときには、来るからね」
「うん。そうだ。披露宴での友人挨拶、任せてね!鴫野ちゃんと盛り上げるから」
「うん」
真広とはそこで別れ、佑さんに花束を一つ持ってもらって、会社を出た。
もう、佑さんと一緒に出社することも、こうやって帰ることも無いんだな。
あの私の席には、今後中山さんが座る。佑さんに頼まれてコピーをすることも、会社で佑さんにコーヒーを入れることもない。
会議室で抱きしめられたり、資料室でキスをされたり…、そんなドキドキすることもなくなる。
ああ、なんだか、寂しい。心にぽっかりと穴が開いたみたいだ。
佑さんが、マンション近くのレストランで夕飯を食べようと言ってくれた。そこでついつい、お酒を飲んですっかり私は酔ってしまった。
帰ってからも佑さんに甘えた。私って、こんなに甘えん坊だったのかなって、自分で呆れるくらいに。
でも、いっつも、そんな私にも佑さんは優しい。今日もまた、佑さんの優しい腕の中で私は眠るんだ。
翌週の月曜日、朝食は佑さんが作った。洗濯物は私が干した。それから、佑さんを玄関まで見送りに行き、キスをしてハグをして、いってらっしゃいをした。
あ~~~~。後ろからついていきたいよ~~~。
数日は、マンションで寂しく過ごした。でも、結婚式の準備で忙しくなり、そうそう寂しさを味わってもいられなくなった。
6月。真広が退職した。花束を作り、会社に持っていくと、真広は私のときよりも派手に泣いた。
7月。梅雨の季節ど真ん中。でも、結婚式のその日、見事に晴れた。
佑さんは私のウェディングドレス姿を見て、にやけていた。私も、佑さんのタキシード姿を見てキュンキュンしていた。
結婚式は、身内だけ。チャペルで厳かに挙げた。
披露宴はホテルのレストラン。親戚、2課のみんな。同期。大学時代の友人を呼んだ。佑さんも大学時代の友人が3人来ていて、そのうちの一人は東佐野さんだ。
友人代表では、私側は真広と鴫野ちゃんのスピーチ。佑さんが、私だけエコヒイキしていたとか、私にだけ優しいとか、そんな話を披露し、佑さんはおでこから汗をかいていた。
私も恥ずかしくて顔を赤くしていた。
佑さん側の友人代表は東佐野さん。私と佑さんの共通の友人としてスピーチをした。どんな話をするか、ドキドキしていたが、けっこうまとも。どうやら、佑さんからへんなことを言うなと釘を刺されていたらしい。
私のブーケも、各テーブルの花も私がアレンジした。それは、誰よりも佑さんのお母様に喜ばれ、自分の会社でフラワーアレンジの仕事をしてくれないかとあとで頼まれた。
「ごめんなさい。そんな大それたことできないです」
と、断ったが、ゆっくりでいいから考えてと言われてしまった。
「母さん、人使い荒いよ。下手したら、毎週土日に仕事入れられるかもしれない」
新婚旅行に行く飛行機の中、佑さんがそう言ってきた。
「それは嫌だ。佑さんとの時間がまったくなくなっちゃう」
「うん。でも、もしやってみたいって言うなら応援するけど」
佑さんは、私との時間がなくなってもいいの?と一瞬思ったけど、
「ただし、土日のどっちかは家にいてもらうとか条件付で」
と、真面目な顔でそう付け加えた。
「やらない。私がしてみたいのは、アレンジの教室だから。みんなとわいわい楽しくアレンジしたいんだ」
「うん。伊織にあってると思うよ。それにしても、お義父さん、大丈夫かな。かなり酔っていたよね」
「恥ずかしい。あんなに泣いちゃって」
「僕も、もし娘が嫁ぐってなったら、泣くのかなあ」
「え、想像つかない。そんなの」
「うん。僕も」
そう言って佑さんは、くすっと笑った。
私の父は、途中からお酒を飲み始め、披露宴が終わる頃にはべろべろに酔っていた。花束贈呈の時なんて、ぼろぼろと泣き出すわ、私に抱きつくわで大変だった。母と美晴がなんとか慰めてはいたが。
美晴も母も、父がそんなだったから、感動も何も無かったわ。とあとで愚痴を言っていた。
「伊織、そろそろ着陸するよ。シートベルを閉めて」
「はい!」
わくわく。もうすぐハワイに着く。
思い切り佑さんといちゃつくぞ~~!きゃ~~~。楽しみ!
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結婚式も無事に終わり、ハワイのホテルに着いた。オーシャンビューの部屋の窓から見える景色は、最高だった。
伊織は僕の腕にしがみつき、
「何しようか。買い物?海?プール?」
と、僕の顔を覗き込んだ。
「とりあえず、疲れたからプールサイドの長いすでのんびりっていうのはどう?」
「いいかも。それで、トロピカルなジュースを頼んでもいい?」
「いいよ?」
でも、なんなんだ。その、トロピカルなジュースって言うのは。
まあ、伊織が上機嫌だからよしとするか。
僕らは水着に着替え、Tシャツや短パンをその上から着ると、プールサイドに向かった。プールでは数人泳いでいるだけで、静かだった。
プライベートビーチもあるんだから、きっとみんなそっちに行っているんだろう。
「のんびるできるね」
長いすに寝転がりそう言うと、伊織はトロピカルジュースを嬉しそうに飲みながら、頷いた。
そこに、外人の親子が来た。子供はまだ5歳くらいだろうか。大きな浮き輪を持ってやってきた。
「可愛いね、あの男の子」
「うん」
確かに。金髪で真っ青な目の可愛らしい男の子だ。
「いつか、子供が生まれたら旅行行きたいなあ」
ぼそっと伊織が呟いた。それを聞き、僕はまた容易に子連れで旅行に行くところを想像できた。
これから、きっと僕の生活はどんどん賑やかになっていくんだろうな。独り身でいようと思っていた頃には、想像もつかなかった生活がやってくるんだろう。
そして僕は、きっと結婚したことも、家族を持ったことも、賑やかな生活にも後悔しないだろう。いつでも隣にいる伊織に感謝することはあっても。
きっと、伊織との出会いは僕の人生を変えた奇跡なんだ。と、そんなふうに思うことはあったとしても。
~おわり~




