「僕は希少な男子らしい」
放課後の教室は、昼とは違うざわめき方をしていた。
部活へ向かう生徒が慌ただしく席を立ち、帰る生徒は机の中をひっくり返すように教科書を鞄へ詰め込む。
椅子の脚が床を引っかく音、友達同士の短い約束、誰かを待つようにわざと動きを遅くする気配。
毎日同じように繰り返される、見慣れた放課後の光景だ。
その中で僕だけが、少しだけ違う速度で動いていた。
今日はどこにも寄る気はなかった。
誰かと話す気力もない。
まっすぐ帰って、できれば一人で静かになりたかった。
教科書を二冊、ノートを一冊、筆箱を鞄に入れる。
そのひとつひとつの動きが妙に遅いのは、疲れているせいか、それとも考えたくないことを考えているせいか、自分でもよく分からない。
「東條」
担任に呼ばれて、手が止まった。
顔を上げる。
担任はいつも通りの顔だった。
けれど、こういう“いつも通り”が一番油断できないということを、最近の僕は少し覚え始めていた。
「…はい」
「支援棟の会議室B。今から」
短い。
それだけで十分だった。
周囲に聞かれたくないのだろう。
僕も何も聞き返さず、「分かりました」とだけ返した。
担任はそれ以上何も言わずに離れていく。
それを見送ったあと、僕は小さく息を吐いた。
またか、と思う。
でも、その“また”の中身が少しずつ変わってきているのも感じていた。
前は、ただ面倒だった。
最近は、それに加えて少し怖い。
何を言われるのかより、何を知っていると言われるのかが怖かった。
◇
支援棟の廊下は、夕方になると本当に静かだ。
教室棟のざわめきが遠くなったぶん、足音やドアの開閉音が妙にくっきり聞こえる。
窓の外では運動部の掛け声がかすかに響いていたけれど、それもこの建物の中まで熱を持ち込んではこない。
会議室Bの前で一度立ち止まる。
プレートの文字を見ても、そこから何が待っているのかは分からない。
でも、軽い話ではないだろうということだけは、ここ数日の経験でよく分かっていた。
ノックをする。
「どうぞ」
中から聞こえたのは、鷹宮ひとえの声だった。
僕は少しだけ肩を固くして、ドアを開けた。
室内には二人いた。
一人は鷹宮ひとえ。
もう一人は見慣れない女性だった。
机を挟んで向かい側に並ぶように座っている。
ひとえが現場の空気をまとっている人だとしたら、その隣の女性はもっと書類と規則の匂いがする人だった。
黒髪をきっちりまとめ、皺ひとつない濃紺のスーツを着ている。
姿勢がまっすぐで、目元には冷たさというよりも、余計な感情を混ぜない強さがあった。
「座ってください、東條くん」
ひとえに言われ、僕は机のこちら側の椅子に腰を下ろす。
会議室は広くない。
なのに、机の上には何も置かれていないせいか、やけに空白が目立った。
書類の山も、飲み物も、やわらかいクッションもない。
ここは、誰かを休ませるための場所じゃない。
話を“決める”ための場所だと、一目で分かる。
見知らぬ女性が軽く会釈した。
「初めまして。学園連携部・評価調整室の霧島紗世です」
「…東條凪です」
「把握しています」
その言い方が、最近いちばん嫌いな種類の返答だった。
名前だけじゃない。たぶん、もっといろいろ“把握”されている。
霧島さんは机上の端末に指を置き、感情の凹凸をほとんど乗せずに言った。
「今日は確認と説明を行います」
確認と説明。
曖昧さのない言い方だ。
「東條くん自身が、自分の現状をどこまで理解しているか。そのうえで、現時点で共有すべき情報を伝えます」
僕は少しだけ眉を寄せた。
「現状、って」
「あなたの立場です」
霧島さんが即答する。
立場。
その単語に、胸の奥が小さくざわついた。
「…男が少ないこととか」
とりあえず、今の自分が分かっている範囲を口にする。
「それで、目立ちやすいこととか。見られやすいこととか」
「それだけですか」
間髪入れずに返される。
僕は少しだけ口をつぐんだ。
“それだけですか”と聞き返される時点で、向こうが用意している答えはもっと重いのだと分かる。
「…他にもあるなら、聞きます」
そう言うと、霧島さんは小さく頷いた。
「では、順に説明します」
端末の画面が起動する。
淡い光が机の上を照らした。
最初に映ったのは、男女比や出生率などの一般統計だった。
そこまでは知っている。
この世界で男性が極端に少ないことも、保護対象として扱われていることも、今さら説明されるまでもない。
問題はその次だった。
画面が切り替わる。
表示された表の見出しを見て、僕は思わず眉をひそめた。
**希少男性評価区分**
項目が縦に並んでいる。
年齢区分、健康安定値、対人反応傾向、学習適性、社会適応性、将来保護優先度。
数値と、アルファベットの区分。
「…何ですか、これ」
口に出した声が、自分でも少し硬かった。
「登録男性に対する基礎評価です」
霧島さんは淡々と答える。
「学齢期以降は、継続的に更新されます」
「更新…」
「はい」
まるで成績表か何かのような言い方だった。
でもこれは、学校のテスト結果じゃない。
もっと、僕そのものを別の物差しで測っている表だ。
霧島さんが次の画面へ切り替える。
今度は、個別データ。
画面の左上に、自分の名前がはっきり表示されていた。
**東條 凪**
見慣れたはずの自分の名前が、急に他人のものみたいに見える。
「…僕の、ですか」
「はい」
霧島さんは迷いなく頷く。
「現時点の登録評価です」
僕は画面から目を離せなかった。
いくつもの数値。
いくつもの区分。
評価欄の一つ一つが、僕の知らないところで勝手に決められている。
視線が止まったのは、**保護優先度A** という表示だった。
「A…」
「高位区分です」
霧島さんが説明する。
「同年代の登録男性の中でも、比較的高い評価に分類されます」
「比較的、って…」
「かなり高い方です」
そこだけ言い直した。
その率直さに、変な意味で息が詰まる。
「どういう基準で」
「複数要素の総合です。容姿印象、身体安定性、対人反応、学習傾向、将来的な社会配置適性」
言葉がどれも綺麗すぎて、一瞬何を言われているのか分からなくなる。
でも要するに、僕は“価値の高い男”として扱われているということらしい。
その理解が追いついた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「…そんなの」
言葉がうまく続かない。
「そんなふうに見られてるんですか、僕」
「はい」
あまりにもすんなり肯定される。
「東條くんは、ただ男性であるだけではなく、“価値の高い男性”として見られています」
価値の高い男性。
それは、きっと誰かにとっては喜ぶべき言葉なんだろう。
少なくとも、僕が前の世界でずっと欲しがっていた“選ばれる側”に近い響きはある。
でも、今は少しも嬉しくなかった。
価値。
それはつまり、失いたくないものとして見られているということだ。
大事だからじゃない。貴重だから。
好きだからじゃない。減らしてはいけないから。
そんなふうに整理される自分を、まだうまく受け止められない。
「東條くん」
今度はひとえが口を開いた。
「最近、自分に向けられる視線の強さを感じたことはありますか」
「…あります」
それは否定できない。
むしろ、嫌というほど感じている。
「それは、個人的好意だけが理由ではありません」
「……」
「あなたのような区分の男子は、公的にも私的にも注目されやすい」
ひとえはそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「つまり、“珍しいから気になる”では済まない位置にいるということです」
珍しいから気になる。
そこまでは、たぶん今までの僕も分かっていた。
でも、“それでは済まない位置”と言われると、急に現実味が増す。
霧島さんが再び画面を切り替えた。
今度はグラフだった。
日付ごとの線。
棒グラフ。
接触件数。
間接照会。
校内保護観測値。
知らない単語が並ぶ。
「…これ、何ですか」
「直近三週間の推移です」
「推移?」
「東條くんに関する接触・関心・照会の総合変化です」
僕は思わず顔をしかめる。
「照会って、何を」
「学内連携窓口や、支援経由での確認です」
「確認?」
「東條くんが現在どういう状態か、どう接するべきか、接触は可能か、など」
言われた意味を理解するのに少し時間がかかった。
どう接するべきか。
接触は可能か。
つまり、僕の周りではもう、そういう相談が動いているということだ。
言葉にならない気持ち悪さが、背中のあたりを這う。
自分の知らないところで、自分への近づき方が相談されている。
しかも、それが“普通”のこととして説明されている。
「この上昇は」
霧島さんがグラフの一部を示す。
「最近の接触増加に対応しています」
最近。
それが何を指すかはすぐに分かった。
佐伯さん。
朝の件。
昼休みのやりとり。
小さな好意の往復。
教室の空気の変化。
そういうものが、全部どこかで“記録される現象”として処理されている。
「…気持ち悪いです」
思わずそう漏らすと、会議室の空気が一瞬だけ止まった気がした。
でも霧島さんは表情を変えない。
「そう感じるのは自然です」
その返答の方が、余計にきつかった。
自然です。
つまり、その気持ち悪さももう想定済みで、そのうえでなお制度は動いているのだ。
「東條くんは今、自分が思っている以上に見られています」
霧島さんが続ける。
「近づく人間も、距離を測る人間も、避ける人間も含めてです」
避ける人間。
その言い方に、昨日や今日の教室で感じた微妙な距離を思い出す。
近づいてくる人だけじゃない。
巻き込まれたくないから離れる人も、やっぱり僕を見ている。
視線の意味が一つじゃない。
だからこそ厄介だ。
「…じゃあ、僕はどうすればいいんですか」
出てきたのは、また同じ問いだった。
ひとえにも聞いた。
澪にも。
しずくにも。
そして今、またここで聞いている。
霧島さんは端末を伏せ、まっすぐこちらを見る。
「まず、自分が一般的な男子学生とは違う立場にあると理解してください」
「違う立場」
「はい」
その声は落ち着いている。
でも、そこに曖昧さはなかった。
「東條くんは、普通の意味での“自由な男子生徒”ではありません」
その一文は、思っていたより深く刺さった。
自由じゃない。
いや、完全に自由じゃないことは、薄々分かっていた。
けれど、こんなにあっさり言葉にされると、さすがに少し笑いたくなる。
「すごいですね」
自分でも驚くほど平たい声が出た。
「僕、今、普通に学校来て、普通に授業受けて、普通に帰ろうとしてただけなんですけど」
「そうですね」
「それでも自由じゃない?」
「はい」
そこを濁さない。
僕は机の下で、膝の上の手を強く握った。
「東條くんの安全保障は、個人の感覚より優先されます」
霧島さんの言葉は、まるで最初から答えが決まっている文章みたいに迷いがない。
「それがこの社会の前提です」
「…前提」
「はい」
「前提だから従えって?」
「前提だから、まず知らなければならないという意味です」
言い返そうとして、少しだけ言葉に詰まる。
この人は、怒らせるような言い方をわざとしているわけではない。
ただ、本当にその順番でしか物を言わないのだ。
感情より先に構造。
納得より先に制度。
それがこの人の話し方だ。
ひとえが、そこで静かに口を開いた。
「東條くん」
僕は視線を向ける。
「あなたがどう感じるかは、大事です」
少し意外だった。
でも、次の言葉でその意外さはすぐに現実へ引き戻される。
「ただ、感じ方だけで現実は変わりません」
結局そこへ戻る。
「あなたが普通にしているつもりでも、それが普通として処理されない立場にいる」
「……」
「だから、自覚が必要なんです」
自覚。
最近ずっと、その言葉ばかり聞いている気がする。
でも今なら、少しだけ意味が違って聞こえた。
気をつけろ、というだけじゃない。
お前はもう、知らなかったでは済まない側へ来ている、という宣告に近い。
「…僕」
気づけば、口が動いていた。
「そんなに立派な人間じゃないです」
声は思ったより小さかった。
「ただ、少し女の子に好かれて、いい気になって。曖昧にして。ちゃんと切れなくて」
言いながら、自分で嫌になる。
「そんなやつに、“価値が高い”とか言われても」
会議室の空気がまた静かになる。
霧島さんは少しだけ視線を落とし、それから言った。
「価値があることと、立派であることは別です」
その返答は、ひどく残酷だった。
人格が優れているから価値があるわけじゃない。
未熟でも、軽くても、どうしようもなくても、社会の側が価値を見出してしまえば、それで終わりだ。
むしろその方が、逃げ場がない。
僕が立派じゃないなら、せめて価値もなければよかったのに。
そんな子どもみたいな考えが、一瞬だけ浮かぶ。
ひとえが、少しだけ声を落とした。
「東條くん。あなたがどういう人間かと、あなたに価値がついてしまうことは別問題です」
「…そんなの、余計に嫌です」
「ええ」
ひとえは否定しなかった。
「私も、気持ちは分かります」
その一言に、ほんの少しだけ息が詰まる。
軽々しく言っているわけではないと分かるからこそ、そこに逃げ込みたくなる。
でも、ひとえは逃がさない。
「ですが」
やっぱり続く。
「現実は変わりません」
会議室の外で、誰かの足音が通り過ぎる。
それが遠くへ消えていくまで、僕は何も言えなかった。
窓の外はもうほとんど夜で、ガラスには室内の光と、そこに座っている僕の顔が薄く映っていた。
普通の高校生にしか見えない。
少なくとも、自分ではそう思う。
でも、この世界では違うらしい。
男であること。
その中でも、価値が高いと判断されること。
それだけで、もう普通ではいられない。
その事実が、今さら本当に重くなってくる。
「…分かりました」
ようやく出せた言葉は、それだけだった。
全部が分かったわけじゃない。
納得したわけでもない。
でも少なくとも、もう知らないふりはできないところまで来ているのだけは分かる。
霧島さんが小さく頷いた。
「現時点では、それで十分です」
「十分…」
「はい。自覚の有無は大きいので」
端末が閉じられる。
会議の終わりを告げるように、机の上の光が消える。
「今日はここまでです」
ひとえの言葉に、僕はゆっくり椅子から立ち上がった。
足が少しだけ重い。
でも、ここで立ち止まっていたら、何かがさらにのしかかってきそうで、早く外へ出たかった。
ドアのところまで行ったところで、ひとえに呼び止められる。
「東條くん」
振り返る。
「今後、あなたへの接触はさらに増える可能性があります」
「…はい」
「ですが、今日の説明を聞いたうえで同じことを繰り返すなら、それはもう“無自覚”ではなくなります」
その言い方は静かだった。
脅しでも、怒りでもない。
ただの確認。
でも、それが一番重い。
「…気をつけます」
それしか言えなかった。
ひとえは小さく頷くだけで、それ以上何も言わない。
会議は本当に終わったらしい。
僕は会議室を出た。
廊下は静かで、窓の外の空は暗い。
教室棟の明かりが遠くに見える。
その場で少しだけ立ち止まって、僕は窓ガラスに映る自分を見た。
制服姿の男子生徒。
顔立ちは、この世界では少し恵まれている方なんだろう。
でも、それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
なのに、向こうはそう見ない。
見た目。
安定性。
将来性。
保護優先度。
いくつもの言葉と数字で、僕はすでにどこかに並べられている。
「…僕は希少、か」
誰もいない廊下で、小さく呟く。
口に出してみると、ひどく他人事みたいだった。
でも他人事じゃない。
今日見せられた数値も区分も、全部僕の名前の横にあった。
それを背負って生きろと言われている。
しかも、自分で自覚したうえで。
笑いたくなる。
でも、笑えない。
たぶん今日、ようやくはっきりした。
僕はただ“少しモテる”だけじゃない。
この世界の側から、価値をつけられている。
それは武器にもなるし、守られる理由にもなる。
でも同時に、簡単に人を傷つける重さにもなる。
僕はまだ、自分が何者かもよく分かっていないのに。
窓から目を離し、廊下を歩き出す。
足音が静かに響く。
その音を聞きながら、僕はぼんやり思った。
たぶん、もう前みたいには戻れない。
知らなかった頃の僕には。
ただ好かれているだけだと思っていた頃の僕には。
少し優しくして、少し気持ちよくなって、それで済むと思っていた頃の僕には。
今日で、そこには戻れなくなった。
それが良かったのか悪かったのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは、ここから先はもう、
“知らなかった”では済まないということだった。
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