プロローグ 「今の僕は」
数ある作品の中から読んでいただきありがとうございます。
この作品を心から楽しんでいただけたら嬉しいです。
前の世界で、僕は選ばれなかった。
別に、壮絶に嫌われていたわけじゃない。
友達はいたし、普通に学校へ行って、普通に笑って、普通に毎日を過ごしていた。
ただ――恋愛だけが、最後まで自分のものにならなかった。
話しかければ返してもらえる。
優しくすれば、優しいと言ってもらえる。
でも、それだけだった。
いい人だよね。
話しやすいよね。
気が利くよね。
その先に進んだことは、一度もなかった。
放課後、好きな子が別の男子と笑っているのを見て、勝手に落ち込んだこともある。
思いきって連絡先を交換して、何日も文面を考えたくせに、結局、当たり障りのない会話だけで終わったこともある。
自分から踏み込めなかった。踏み込んだところで、選ばれる気がしなかった。
だから、最初は夢なんだと思った。
転生だとか、別の世界だとか、そういう大げさな言葉を信じるつもりはなかったけれど。
目を覚ましたときには、確かに世界が変わっていた。
男が少なくて、女の人たちが強くて、そして、男であるというだけで、妙に大事にされる世界。
最初は戸惑った。
次に、居心地の悪さを覚えた。
その次に――少しだけ、気分がよくなった。
前の世界では、誰も僕を特別には見なかった。
けれど、この世界では違う。
少し笑うだけで、相手が顔を赤くする。
丁寧に返事をするだけで、やけに嬉しそうにされる。
ありがとう、と言うだけで、「そんなふうに言ってくれる男の子、初めて」なんて目をされる。
最初は怖かった。
でも、人は慣れる。
何度も何度も同じ反応を見ているうちに、僕は少しずつ理解した。
ああ。
この世界では、僕は“選ぶ側”なんだ、と。
◇
朝、スマホの画面には、三件の通知が並んでいた。
**紗奈:おはよ、凪くん。今日、放課後って空いてる?**
**美優:昨日の続き、また話したいな**
**七海:朝から会えたら嬉しいかも**
ベッドの上で上半身を起こしながら、僕はしばらくその画面を見つめた。
「…すごいな」
口に出してから、自分で苦笑する。
前の世界の僕が見たら、たぶん目を疑うだろう。
朝から女子三人にこんなふうに連絡をもらう人生なんて、想像したこともなかった。
だから、正直に言えば。
今でも少し、浮かれる。
誰から返すか、少し考える。
三人とも同じ学校の生徒だけど、クラスは違う。
誰か一人にだけ返すと、後が少し面倒になることもある。
だからといって、全員に同じ温度で返しても、それはそれでまずい。
――とはいえ、僕は別に、誰かに付き合うって言ったわけじゃない。
そう思いながら、指を動かした。
紗奈には、**今日は少し予定あるけど、時間できたら連絡するよ**と返した。
美優には、**昨日の話、ちゃんと覚えてる。また落ち着いたら聞かせて**と打つ。
七海には、**朝は難しいかな。でも顔見たら声かける**と送った。
どれも嘘じゃない。
嘘じゃないけど、確約でもない。
それで十分だった。
たぶん、今の僕は、その曖昧さがいちばん心地よかった。
スマホを置いて、制服に袖を通す。
鏡の前に立つと、見慣れた顔が映った。
前の人生と比べれば、だいぶ恵まれた顔をしていると思う。
線が細くて、威圧感がない。
目元もきつくないし、笑えば柔らかく見える。
少なくとも、この世界では「守ってあげたくなる男の子」に分類される顔らしい。
自分でそう考えるのは、少し嫌だった。
でも、事実でもある。
「…まあ、使えるものは使うか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、僕は部屋を出た。
◇
通学路は、朝から人が多い。
制服姿の女子生徒たちが何人もすれ違っていく。
その中で男子は少ない。いても年下の小学生か、保護者に付き添われた中学生くらいだ。
高校生くらいになると、男は本当に目立つ。
駅前の横断歩道を渡ったところで、早速声がかかった。
「凪くん、おはよう!」
振り向くと、紗奈がいた。
明るい茶色の髪を揺らしながら、嬉しそうに手を振っている。
「おはよう」
返すと、紗奈は少しだけ頬を緩めた。
「やっぱり会えた。メッセージ見てくれた?」
「うん、見たよ」
「ほんと?ならよかった」
それだけの会話なのに、彼女は満足したみたいに笑う。
僕はその反応に、また少しだけくすぐったい気持ちになる。
前の世界では、朝に会えただけでこんな顔をされることなんてなかった。
「放課後のことなんだけどさ――」
紗奈が話しかけてきた、そのとき。
「東條くん」
別の声が横から入った。
見ると、美優が立っていた。
目が合うと、彼女は少し遠慮がちに微笑む。
「おはよう。昨日のノート、ありがとう」
「いや、別に」
「助かった。…あ、紗奈もおはよ」
「おはよう」
微妙な間が生まれる。
僕は、その空気を知っていた。
知っていて、知らないふりをするのにも慣れていた。
「昨日の続き、また聞かせてほしいなって思ってたんだけど…」
美優がそう言うと、紗奈の笑顔がほんの少しだけ固くなる。
ああ、またか。
心のどこかでそう思いながら、同時に少しだけ、自分が中心にいる感覚に酔う。
だめだな、と思う。
でも、嫌じゃない。
「また時間あるときにね」
僕はそう言って、どちらにも偏らないような笑い方を作った。
紗奈も、美優も、それぞれ違う意味でその言葉を受け取る。
僕にはそれが分かる。
分かっていて、やめない。
最低だとまでは思わなかった。
だって僕は、どちらにも付き合うなんて言っていない。
ただ感じよくしているだけだ。
それで向こうが喜ぶなら、別にいいじゃないか、と。
「凪くんって、ほんと優しいよね」
紗奈が言う。
「そうかな」
「そうだよ」
美優までうなずく。
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
優しい。
前の世界で、何度もそう言われた。
でも、あのときの“優しい”は、たいてい“恋愛対象じゃない”の言い換えだった。
今の世界では違う。
優しい、の先に、期待がある。
熱がある。
欲しがられる気配がある。
それが、たまらなく気持ちよかった。
「…じゃあ、また後で」
軽く手を振って、その場を離れる。
二人の視線が背中に残る。
どちらも、少し名残惜しそうだった。
それを感じながら歩く自分に、薄く笑いたくなる。
ほんと、変わったよな。
前の僕じゃ、こんなふうにはなれなかった。
「凪くん」
また声がした。
今度は七海だった。
さすがに少し笑う。
今日は朝から大盛況だ。
「おはよう」
「おはよう。ね、今ちょっと時間ある?」
少し上目遣いで聞いてくるその顔に、僕は内心で小さく息をつく。
いや、ほんと。
前の世界の僕が見たら、贅沢すぎて怒るだろう。
「少しだけなら」
そう返すと、七海の顔がぱっと明るくなる。
その表情を見て、僕はまた思う。
ああ。
今の僕は、少し楽しい。
◇
校門が見えてきたところで、少し離れた場所に立っていた女子と目が合った。
水無月ひよりだった。
同じクラスの女子で、話しやすい方ではある。
距離も近すぎず遠すぎず、今の僕にとってはいちばん自然に接しやすい相手だった。
ひよりは僕と目が合うと、小さく手を上げた。
でもその視線は、僕の横にいる七海や、少し後ろを歩く紗奈たちを一瞬だけ見ている。
「おはよう、凪くん」
「おはよう」
七海が「じゃあ、またね」と去っていく。
その背中を見送ってから、ひよりが言った。
「朝から忙しそうだね」
冗談っぽい口調だった。
けれど、少しだけ棘が混じっていた。
「別に、そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
僕がそう返すと、ひよりは少しだけ首を傾げた。
「…凪くんってさ」
「なに?」
「誰にでも、同じように優しいよね」
その言い方が、妙に耳に残った。
褒めているようにも聞こえる。
でも、それだけじゃない。
「悪いこと?」
半分冗談で返すと、ひよりはすぐには笑わなかった。
「悪いっていうか…」
少し考えて、それから言う。
「勘違いされやすそうだなって」
僕は肩をすくめる。
「勘違いって」
「そのままだよ」
「別に、僕は何も言ってないけど」
つい、少しだけ軽く返してしまう。
ひよりはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を伏せた。
「…そういうとこだよ」
「え?」
「ううん、なんでもない」
そこでチャイムが鳴った。
ひよりは「急ご」とだけ言って、先に歩き出す。
僕はその背中を見ながら、少しだけ眉をひそめた。
なんだろう。
今のは、責められたんだろうか。
でも、僕は嘘をついていない。
誰かと付き合うと言ったこともない。
誰か一人を選んだこともない。
ただ、感じよくしているだけだ。
それの何が悪いんだろう。
そう思いながらも、胸のどこかに小さな引っかかりが残った。
けれど、その違和感はすぐに別の出来事に押し流されることになる。
昇降口の前、人の流れが急に乱れた。
「きゃっ――」
短い悲鳴が聞こえて、僕は反射的にそちらを見た。
女子生徒が、人にぶつかられてよろめいている。
手に持っていたファイルが床に散らばり、本人も転びかけていた。
その瞬間、体が先に動いた。
「危ない」
腕を伸ばして支える。
もう片方の手で、足元に落ちたファイルを拾う。
ほんの一瞬だった。
でも、支えられた女子は、目を大きく見開いたまま固まっていた。
「あ…」
「大丈夫?」
自然に口から出た声だった。
いつもの、少し軽い優しさじゃない。
計算も何もない、本当にただの反射だった。
女子は顔を赤くして、小さくうなずく。
「す、すみません…」
「いや、怪我してないならよかった」
ファイルを手渡す。
指先が少し震えていた。
そのとき、妙に静かになっていることに気づいた。
周囲の女子たちが、こっちを見ている。
視線の質が、さっきまでと違った。
ただ人気があるとか、話しやすいとか、そういうぬるい温度じゃない。
もっとはっきりした、何か。
――選ばれた。
そんな言葉が、空気の中に浮かんだ気がした。
僕は少しだけ息を止める。
助けられた女子は、まだ僕を見上げたままだった。
頬が赤くて、目が揺れていて、もう完全に“ただ助けてもらっただけ”の顔じゃない。
しまった、と思うより先に。
「東條くん」
背後から、落ち着いた女の声がした。
振り返る。
少し離れた場所に、スーツ姿の女の人が立っていた。
髪をきっちりまとめ、無駄のない立ち方をしている。
顔立ちは整っているのに、笑っていないせいか、妙に冷たく見えた。
「少し、お時間をいただけますか」
その声には、断りにくい静かな圧があった。
僕はまだ事情も分からないまま、その人の視線を受け止める。
あとで知ることになる。
この人が、鷹宮ひとえ。
男性保護局の人間で。
そしてこの朝の“ただ助けただけ”が、もう元には戻らない始まりだったのだと。
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