魔王の名前
「面白い、契約成立だ。……ルーカス! まずはこの命知らずな客人に最高の部屋と着替え、そして暖かい湯と食事を用意してやれ。我がもてなしを済ませてから、じっくりと話を始めよう」
俺の一声に幹部たちが一斉に頭を下げ、ボロボロのエレノアを恭しく案内していく。
数時間後、綺麗に身体を洗い流し、黒地に銀糸の刺繍が施された贅沢なドレスに身を包んだエレノアが、再び俺の部屋へとやってきた。乱れていた金髪は美しく整えられ、その姿はまさに一国の公爵令嬢そのもの。だが、その瞳に宿る鋭い意志の光だけは失われていなかった。
備え付けの豪奢なソファに腰掛けさせ、温かい紅茶を一口飲ませたところで、俺は前々から気になっていた疑問を口にした。
「……ところで、エレノア。一つ解せないことがある。貴様が城にやってくる前、我が手に入れた人族の最新の新聞には『公爵令嬢、国家叛逆の罪で地下牢へ投獄』と書かれていた。だが、お前は舞踏会の会場からベランダダイブで逃げ延びてきたと言ったな。これは一体どういうことだ?」
俺の問いに、エレノアは冷めた紅茶のカップをソーサーに戻し、心底底意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
「舞踏会で婚約破棄を突きつけた直後、当の令嬢にベランダから飛び降りて逃げられたなどと発表してみなさいな。皇太子の威厳も王家の面目も丸つぶれですわ。『重大な罪を犯した公爵令嬢を投獄したが、脱獄された』と国民に偽る方が、あいつらにとっては都合が良かったのでしょうね」
「なるほどな……己の失態を隠すために、国家の公式な報道すら平然と捏造するか。どこまでも姑息で腐りきった奴らだ」
呆れ果てる俺に、エレノアは小さく息を吐きながら言葉を続けた。
「ええ。そして、おそらく二度目の今回も……未来と同じように、皇帝陛下の毒殺は私のせいにされているでしょうね。あいつらは自分の手を汚さず、都合の悪い存在に全ての罪をなすりつけることだけに長けていますから」
「……つくづく胸糞悪いシナリオだな。だが安心しろ、その筋書きは俺たちが叩き潰す」
俺が不敵に頷くと、エレノアはふと表情を和らげ、どこか探るような視線を俺に向けてきた。
「ときに……魔王陛下。一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ? 遠慮せず申してみよ」
「これから共に復讐を果たす同盟を結ぶというのに、いつまでも『魔王陛下』とお呼びするのも少々距離を感じます。私に仇なす世界を壊してくれる貴方様のお名前を……お聞かせ願えませんか?」
(……は?)
エレノアの予期せぬ質問に、俺は一瞬思考がフリーズした。
名前? 魔王の名前だって……!?
待て待て待て! 焦るな俺! 堂々としろ! 鏡に映る俺は漆黒の角を生やした威厳たっぷりの魔王なんだ! ここで「実は俺も自分の名前知りません」なんて言ったら一瞬で威厳が崩壊する!
俺は肘掛けに肘をつき、ゆっくりと組み替えた脚の上で深く身体を預けた。そして、低く重厚な声を大広間……ならぬ、部屋全体に響かせる。
「……ほう。我が名を、知りたいと?」
完璧だ。我ながら最高に深みのある悪役ムーブが決まった。
よし、ここはお前たち(幹部)に振る! 幹部が俺の名を呼ぶのを聞いて「あ、俺ってそういう名前なんだ」って納得する作戦で行こう!
俺は視線を部屋の隅に控えていた側近のルーカスに向けた。
……さあルーカス、俺の名前を恭しく呼ぶが良い!
しかし、次の瞬間。ルーカスをはじめとする幹部たちが、ガタガタと震えながらザワつき始めたのだ。
「……ま、魔王様のお名前……!?」
「聞いたことがない……! 我らは生まれてこの方『魔王様』としかお呼びしたことがないぞ……!」
「もしや、魔王様の本名を知る者はこの世に誰もいないのでは……!?」
ざわつく幹部たちの中で、最古参である側近のルーカスが、汗を滝のように流しながら前に進み出て、深く膝を折った。
「も、申し訳ございません主君! 私は貴方様に忠誠を誓ってより数百年間、ただ『主君』あるいは『魔王様』とお呼びしてまいりました……! 魔王様のお名前そのものが、我ら魔族にとっても最高級の国家機密情報であると……勝手に思い込んでおりました……!」
(……おいおいおいおいマジかよ!? お前らも俺の名前知らねえのかよ!?)
心の中で叫び倒す俺。数百年間名前呼ばれてないってどういう状況だよ! 名札でもつけて生活しとけよ!
幹部たちのポンコツぶりに絶望しながらも、俺は表面上、すべてを織り込済みの絶対者であるかのようにフッと鼻で笑ってみせた。
「……フッ、相変わらず無知な奴らだ。良い、ルーカス。お前たちが我が名を気安く口にしなかったのは、忠誠の証として免じてやろう」
(何がフッ、忠誠の証として免じてやろうだ。バカバカ俺のバカ何言ってるんだ。)
「ははっ! ありがたき幸せ……!」
威厳を保ったまま、俺の脳内は大パニックを起こしていた。
(やばい! やばいぞ助けて妹! 魔王らしい名前ってなんだよ!? そもそも設定資料の一行目に『強大な力を持つ魔王が魔族領を治めている』としか書かれてなかったから、名前なんて元から設定されてねえんだろこれ!)冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は必死に前世の記憶を掘り起こした。
妹が新刊を読むたびに、語っていたあのオタク特有の知識と情熱。
『ねえお兄ちゃん! 乙女ゲームとか乙女小説に出てくる魔王ってさ、だいたい名前が響きだけでメチャクチャかっこいいじゃん! 中二病心をくすぐる感じのさ! “ディアボロス”とか“ルシファー”とか“ゼノヴィア”みたいな重厚なラテン語っぽい響きが最高なんだよね!』
(妹……! お前のその無駄に詳しい中二病知識が、今まさに兄の命を救う……!)
俺は脳内で妹の言葉を高速で組み合わせ、魔王として最も威厳があり、かつ乙女小説の世界観にふさわしい「響きが最高にかっこいい名前」を瞬時に構築した。
よし……これだ!
俺は玉座の背もたれからゆっくりと身を起こし、赤い瞳でエレノアを真っ直ぐに見据えた。深く、地鳴りのような声で刻み込むように口を開く。
「……我が名は、ゼノヴィア・ヴァルフレア。この魔族領を統べる者であり、理不尽なる運命を壊す者だ」
「ゼノヴィア・ヴァルフレア様……」
エレノアはその名を噛み締めるように呟くと、うっとりとした、そして獰猛な笑みを浮かべて美しく一礼した。
「素晴らしいお名前です、ゼノヴィア様。……では改めまして、我が主君。あの大バカ皇太子とサイコパス女を地獄へ叩き落とすための、最初の作戦会議を始めましょうか」
周囲の幹部たちが「ゼノヴィア様……! なんと重厚で恐ろしい御名だ……!」と勝手に感動して震える中、俺は心の中で「よっしゃあぁぁ! 乗り切ったぞ俺!!」とガッツポーズを決めていた。




