第42話 レオン様、初めての「身引き」
「……あ」
執務室のドアを閉めようとした私は、廊下の影に立つ巨大な人影に気づいて声を上げた。
そこにいたのは、いつもの傲岸不遜な態度をどこかに置き忘れてきたような、酷く肩を落としたレオン様だった。
「……陛下? そんなところで何を……。もしかして、ずっと見ていたのですか?」
「……」
レオン様は答えなかった。ただ、アルフレッド様が綺麗に整理してくれた書類や、私が飲み干したハーブティーのカップを、まるで触れてはいけない呪物でも見るような目で見つめている。
そして、ゆっくりと自分の、節くれだった大きな掌を見つめた。
「……ナオミ。あいつは、良い男だな」
絞り出すような声だった。
「事務仕事も完璧で、民にも優しく、お前と同じ『人間』の言葉で、お前を労わることができる」
「それは……確かに、アルフレッド様は素敵な方ですが……」
「俺は、お前に熱を吸い取ってやると言いながら、ただ抱きしめることしかできなかった」
レオン様が自嘲気味に笑う。その笑顔が、あまりに痛々しくて胸が詰まる。
「お前を熱にあてて、怖がらせて、無理やり貪るような真似しかできん。……俺は、どこまで行っても獣で、化け物だ。俺のこの太い指は、守りたいものすら壊すことにしか使えんのだと思い知らされた」
「陛下、何を言って──」
「ナオミ。お前は、あいつの隣にいた方が幸せになれる」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
レオン様は一歩、私から距離を置いた。その一歩が、底なしの谷間のように遠く感じる。
「あいつなら、お前を動物園の受付に縛り付けたりはしない。もっと清潔で、穏やかで、お前が泥にまみれなくて済む場所へ連れて行ってくれるはずだ」
「ちょっと、待ってください。陛下、勝手に何を……!」
「……もう、俺をなでなくていい」
レオン様は私の言葉を遮り、背を向けた。
その背中は、パツパツに鍛え上げられた筋肉で鎧われているはずなのに、今にも崩れ落ちそうなほど脆く見えた。
「お前のその綺麗な手は、もっと相応しいものをなでるべきだ。……行け。これは王としての命令ではなく、一人の男としての……俺の、最後の手向けだ」
そう言い残して、彼は暗い廊下の奥へと消えていった。
一度も、振り返ることはなかった。
(……なによ、それ)
取り残された執務室で、私は震える拳を握りしめた。
私を狂おしいほど求めた翌日に、勝手に「正解」を見つけて、勝手に身を引いて、聖人君子ぶって私を放り出す。
あの日、崖の下で立ち尽くしていたという子供のまま、この男はまた、自分から光を奪おうとしている。
(……ふざけないでよ、この筋肉だるま!!)
怒りで視界が真っ赤に染まる。
あんなに熱を押し付けてきた男の、あまりに独りよがりで、あまりに不器用な「優しさ」。
それが、今の私には何よりも我慢ならなかった。
(つづく)




