第40話(最終話):「何でもない日と、ベランダの誓い」
世界から、JESUSや教団といった、物騒な組織が消えて、もうすぐ一年が経とうとしていた。
あれだけ世界を揺るがした大事件は、今ではもう、遠い昔の出来事のようだ。
そして、俺たちの日常は、驚くほど、何も変わらなかった。
「カイトー!大変です!今月の家賃、あと三千円足りません!」
「なっ!?マジかよ!クソッ、今月は、レイジの探偵事務所の仕事を手伝ったから、余裕だと思ってたのに!」
「それが、アカネさんに『経費の計算がポンコツすぎる』と言われて、バイト代、少し減らされてしまいました……」
ルナが、涙目で家計簿を指さす。そこには、「もやし代:50円」とか、「食パン代:100円」とか、悲しい項目が並んでいた。
「あの女ぁ!」
六畳一間のボロアパートで、俺とルナは、いつものように、家計簿を前に頭を抱えていた。世界の危機は去ったが、家計の危機は、毎月、律儀にやってくる。
「……仕方ない。今日の晩飯は、もやし祭りだ。スーパーのタイムセール、行くぞ!」
「はい!」
俺たちは、手を取り合って、アパートを飛び出した。古びた木造の階段が、ギシギシと音を立てる。夕暮れの商店街を、二人で走る。
「カイト!あそこの八百屋さん、おじさんがいつも安くしてくれるんです!」
「よし、ダッシュだ、ルナ!」
八百屋のおじさんが「兄ちゃんたち、今日も元気だね!」と笑い、魚屋のおばちゃんが「ほら、これ、おまけだよ」と、アジを二匹くれた。
みんな、俺たちが、かつて世界を救った(ことになっている)なんて、知りもしない。ただの、近所に住む、貧乏カップルだと思っている。それが、なんだか、無性に、心地よかった。
なんとか、半額シールが貼られた豚肉ともやしをゲットし、アパートに帰り着く頃には、空は、綺麗な茜色に染まっていた。
「ふう、今日も、なんとか生き延びたな」
俺は、玄関のドアに背中を預けて、大きく息を吐いた。
「はい!カイトのおかげです!」
ルナは、袋いっぱいの食材を、嬉しそうに眺めている。その笑顔を見るだけで、俺も、疲れが吹き飛ぶようだった。
俺が、買ってきた食材で、簡単な夕食の準備をしていると、ルナが、アパートの小さなベランダに出て、空を眺めていた。
俺も、台所で飲みかけだった缶ビールを片手に、彼女の隣に立つ。冷たい缶が、火照った手に心地いい。
「綺麗だね、空」
「はい。すごく、綺麗です」
二人で、並んで、夕焼けを眺める。特別な会話はない。ただ、隣にいる、それだけ。でも、この、何でもない時間が、俺にとっては、何よりも、宝物だった。
「……ねえ、カイト」
しばらくして、ルナが、ぽつり、と呟いた。
「私が、カイトと出会わなかったら、世界は、どうなっていたんでしょうか」
「さあな。今頃、高城さんのポエムが、国歌になってたかもしれねえし、クロウさんが、猫カフェの店長になってたかもしれねえ」
「ふふ、それも、平和な世界ですね」
ルナは、くすくすと笑う。そして、俺の顔を、まっすぐに見つめて、言った。
「私、今、すごく、幸せです。カイトと一緒に、家賃の心配をして、スーパーに走って、こうして、綺麗な夕日を見て……。こんな毎日が、ずっと、続けばいいなって、思います」
彼女の、その笑顔。その、何気ない一言。それこそが、この世界の平和を、支えている。俺は、改めて、その事実の重さと、愛しさを、噛み締めた。
俺は、飲みかけの缶ビールを置くと、ルナの肩を、優しく、抱き寄せた。彼女の小さな肩が、俺の腕の中で、すっぽりと収まる。
「……なあ、ルナ」
「はい?」
「俺さ、お前に、まだ、ちゃんと言ってなかったよな」
俺は、少し照れくさかったが、意を決して、言葉を続けた。
「お前が、幸せでいる限り、この世界は、大丈夫なんだろ?」
「……はい。たぶん」
「だったら、心配すんな。俺が、一生、お前を幸せにしてやるよ。だから、お前は、俺のそばで、ずっと、笑ってろ」
それは、プロポーズのような、大げさなものじゃない。ただの、俺なりの、不器用な、誓いの言葉だった。
俺の言葉を聞いて、ルナは、一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに、花が咲くように、ふわり、と笑った。
「……はい。約束、です」
そして、俺の胸に、こてん、と頭を預けて、呟いた。
その瞬間。まるで、俺たちの誓いを祝福するかのように、夕焼けの空に、一番星が、キラリ、と輝いた。
その光は、やがて、いくつもの星の川となり、世界中の夜空に、壮大なオーロラを描き出していく。
世界中の人々が、その奇跡のような光景に、空を見上げる。でも、その奇跡を、俺たち自身は、見ていなかった。
俺たちは、ただ、この小さなベランダで、互いの温もりを感じながら、静かに、寄り添っていた。
世界の平和なんて、壮大なものは、よくわからない。
でも、この腕の中にある、温かくて、かけがえのない幸せ。それだけは、何があっても、絶対に、守り抜いてみせる。
俺たちの、世界の命運を賭けた、壮大な恋物語は、こうして、幕を閉じた。そして、ここから始まるのは、どこにでもある、ありふれた、二人の恋人たちの、ささやかで、どこまでも続いていく、日常の物語だ。
世界の滅亡は、貧乏な俺とポンコツ彼女の幸せにかかっている。
――うん、悪くない。全然、悪くない結末だ。




