Episode47 絵を描くわたし
ロアはくすんだ灰の空を仰いだ。
倒れたままに拝む虚構の空は壮観だった。
あの空の上で鈍色に染まっていく雲のように、自分の信念はどこかで揺らいでいたのだ。
「そうだ……俺は、ずっと……」
――確かめたかったんだ。
これまで相対することのなかった父親は、自分と同じ答えに一度でも行き着いたのか? 苦悶を抱えた上で、それでも人類すべてを愛する決意をしていたのか?
どうやら……そうだったらしい。
人間は醜いと、理解した上で醜悪さも守ってやると今、そこで宣言した。
平坦な世界はつまらない。
苦しみや悲しみがあるからこそ世界は美しい。
そんな壊れた世界の頂点で汚名を掲げ続ける。
すべてひっくるめて護ってやる。
それが"守護者"という存在――。
「ああ……」
『ロアくんとわたしはいつ遊べるんですか?』
『今度はロアくんが救われる番だよ』
『ロアくん、つまらないんでしょ?』
何故だか、リンピアと過ごした日々が甦った。
リンピアは守護者の本質を見抜いていた。
今になって振り返ると、これまで不思議に思っていた彼女の言動も理解できる。
齢20ほどの生娘に先に見抜かれていたと思うと悔しいが。
だが、守護者として筋は通す。
父親は芯の強い男だったし、母親は大概のことにも動じない強かさがあった。それに倣って、ロアも最後にはケジメをつけなければ、と思った。
「……」
だが、どうにも体は動かない。
それどころか、感覚は麻痺して視界も曖昧。
荒野を駆ける風の音も遠のいていた。
――嗚呼、どうやらここで終わりか。
怪異に溶け込んだロアは亡霊も同然だった。
七つ夜という檻に幽閉されていた、囚われの不死者の心。それが満たされた。
そのときから怪異は役目を終えていた。
術式の崩壊は始まっている。
――せめて、もう少しだけ……。
人類にとって脅威の円舞はこれにて閉演。
多くの犠牲は出したが、とある守護者の闘心の鎮火とともに脅威は去った。
これはこれで、一つの英雄譚として綺麗な終幕にはなろう。
――もう少しだけ。彼女に伝えたいことが。
この消滅を望んだロアが初めて生に固執した。
悔いがある。伝えたい言葉がある。
そうして祈りを込めて伸ばした手のひらに、何か温もりが触れた。
その温もりから雫が伝い落ちてくる。
熱を帯びたその雫は、ロアの手、腕、そしてそれが滴り落ちた頬には感覚が呼び覚まされた。
もう視力はない。だが、視えた。
すぐそこにリンピアがいる。
ロアの手を頬に当て、涙を流してくれる大切な存在が傍に寄り添っている。
「――――! ――!」
何かを言っている。触覚も鈍くなってきて、唇の動きすら読めない。名前を呼んでいるのか。
彼女の頬の傷を手でなぞった。
それももうすぐ消えるから安心してほしい。
契約相手が消滅すれば、『血の盟約』も解消され、頬の傷も綺麗さっぱりなくなるだろう。
そんな契約より大事な約束は守れないが。
今までの非礼も含めて詫びよう。
「……すまない……リ……ピア……」
全身全霊の魔力を声帯に乗せ、発声した。
まだ言いたいことはたくさんある。
うまく言葉にできない。
「それ……と――――」
言いかけて、ロアは限界に至った。
せめて謝ることはできたが、後悔ばかりだ。
この感情も消えてしまうなら、もったいないことだ。
最初から空っぽだったら何も感じなかった。
死も清々しく受け入れられただろう。
だが、最後に心を満たしてもらえてよかった。
◇
「あ……っ」
抱きかかえていたロアが急に蒸発した。
元から魔力の集まりで、その形態の魔法が解けたかのように霧散してしまった。
「いや……いやぁあ!」
リンピアはその場の砂を掻き集めるように、消え果た赤黒い魔力を手繰り寄せた。だが無情にも何も手元には残らない。
ずっと一緒にいると約束したのに。
その約束も守れず、最後に彼は謝って消えていった。
虚構の世界も崩壊が始まった。
鈍色の空は吸い上げられるように遠くへ流されて白い世界に変わっていく。
荒野にも地割れが起き、足場も不確かだ。
怪異の中枢であるロアの消滅とともに【七つ夜の怪異】も終わりを告げている。
「あ……ああ……あああああっ」
最後まで勝手すぎる。
彼のことは救うと決めた。それは同時にロアを斃すことだとわかっていた。
でも、こんな結末は許さない。
ロアの心が満たされたのだとしても、そんなものはこれからあるたくさんの幸せに比べたら、ほんの些細なことだ。
その幸福を、ロアにお腹いっぱいだと言わせるまで与え続けるつもりだった。
だからこんな結末は認めない。
大地が揺れ、荒野に裂け目が出来た。
リンピアはその段差に足を取られて転げた。
「痛っ……!」
転んだ拍子に背負い鞄の中身が吐き出される。
スケッチブックや筆などの画材もあった。
「……絵……そうだ。絵だ……」
リンピアの特別な力、『無の存在証明』。
実在や生死の有無に関わらず、対象を喚び出す究極の具現化魔法。それさえあれば、ロアを復活させることができるはず。
すぐに手を翳して魔力粒子の凝集と固定、そしてロアを構成する材質を練りつけ、宙へと彼を描き出した。だが、
「……なんで……な、なんで……っ」
魔力粒子が出てこない。材質がない。
工程すらもわからない。
あれだけ使い慣れた絵描きの魔法が使えない。
涙を浮かべながら必死に魔法を重ねた。
しかし、すべて空振りに終わる。
「なんでよ……っ!」
突然の不調という理不尽に怒りが込み上げる。
頬に違和感が走る。
「うそ……」
彼がつけた頬の傷が光を帯び、忽然と消えた。
元の綺麗な肌に戻ってしまった。
『……既に伝えたと思うが、その頬の傷が消えない限り、契約は生きている。俺が消滅したらそれごと消えるだろう』
ロアが消滅したら頬の傷は消える。
それは"契約切れ"を意味していた。
リンピアはロアとの契約の恩恵で特異な魔力を手に入れ、『無の存在証明』を可能とした。
つまりロアが消滅したら使えない。
冷静に考えれば理解できることだった。
「そんな……」
絶望的だった。
リンピアはその場で膝をつき、うな垂れるように四つん這いになった。ロアが夢見た望郷の虚構世界は、既に綺麗さっぱり消え果て、空白の世界へ変わり果てた。
世界が救われたことを意味している。
一人の男を犠牲にして――。
「う……うう……」
打つ手なし。――諦めていいのか?
どうしようもない。――これでいいのか?
リンピアの心は葛藤していた。
こんなとき、かつて世界を救った英雄はどうやって乗り切ったのか。
相談したくてもその英雄も消失した。
もうこの世界に守護者はいない。
事件はリンピアだけが知る世界の秘密だ。
『大丈夫さ』
ふと頭の中に、その声が甦った。
それはロアの過去へと憑依したときに励まされた言葉だった。
『俺はこれまでも酷い戦いを渡り歩いてきたし、どうしようもない絶望だって味わってきた』
かの英雄も絶望を味わった。
それをどうやって乗り越えたんだろう。
酷い戦いを渡り歩いて、どうしようもない絶望も味わって、思い悩んで、悩んで……?
『――また絵を描けばいいんじゃない?』
『悩み。描いて描いて描き続けて、そうすれば道が開けるかもしれないわよ』
親友のイルマの言葉だ。
最後の戦いに臨む前、助言をくれた。
描いて描いて描き続けて、そうすれば……。
考えろ。考えろ。諦めるな。
諦めの悪い魔術師をリンピアは自負している。
必ずどこかにヒントがある。
七つ夜の怪異は魔術の次元を超えた奇跡だ。
なら、ロアを呼び戻す奇跡も必ず起こせる。
『――滅却の手段だが、七つ夜の怪異は20年周期で必ず起きなければならないという条件がある。それそのものが前提なら、周期性を乱してしまえば自壊するものだと俺は考えた』
『つまり、大事なのは記録すること』
七つ夜の怪異は、世に知られないように、関わったモノをすべて神隠しにさせるという荒業で周期性を確保していた。
その神隠しの対抗策が"記録"だ。
『記録対象が怪異そのものだ。なるべく魔力を使わず、手描きが望ましいだろう』
ロアはそう仮説立てていた……。
記録には、手描きが望ましい。
彼が確かに存在したという証拠さえあれば、怪異が滅却されても彼は残るかもしれない。
その仮説が検証されることはなかった。
スケッチブックの中身も中途半端だ。
確証はない。でも今は藁にも縋る思い。
「っ……諦めない……諦めないわ」
リンピアは涙は拭い、スケッチを取った。
白い地面に使い慣れたスケッチブックを広げ、そこに急いで手描きの描画を開始した。
自慢の速筆だ。
怪異がもう滅却されるか否かの瀬戸際だが、この僅差でロアの存在証明を、リンピアの想いをこの原始的な方法で描き残せることができたなら、もしかしたら奇跡は起こせるかもしれない。
「……あ……れ……?」
なぜだろう。筆が止まる。
彼の輪郭を、あの綺麗で物静かな青年を描くことは簡単なはずなのに。
どうしても思い出せない。
彼の顔がどんなだったか、どんな背丈だったのか、それどころか、あの声も、名前も、あらゆることが記憶から零れ落ちていく。
七つ夜の怪異による神隠しだ。
世界はこうまでして彼を消滅させるのか。
その怒涛の攻撃に、因果の力すら感じさせた。
「やめて……もう、わたしから奪わないで」
ぼろぼろに涙を流し、視界も悪くなった。
リンピアはそれでも必死に、こうじゃないこれも違うとスケッチブックのページをびりびりに破き、新しい"彼"を描こうとした。
「お願いだから……!」
あの日々はリンピアにとって大切な宝物。
それを描けないなんて絵描きとして失格だ。
思い出せ。これは自分の記憶との戦いだ。
記憶の欠落さえも補ってみせろ。
描けなくても描いてみせろ。
それがリンピアの得意とする原始の魔法。唯一の取り柄である"絵を描く"ということ――。
「――――うっ……うっ……」
ぼたぼたと涙がスケッチブックを濡らした。
その紙に描かれた見知らぬ男が誰なのか、リンピアにももう分からなかった。
記憶の再認さえできないのに、誰がそれを"彼"と認められるのか。
「うぁあああぁ………ああああ……!」
在りもしない架空の誰かの似顔絵を破り捨て、宙に放り投げた。そのままスケッチブックに覆いかぶさるように泣き崩れた。
心にぽっかり空いてしまった穴。
その喪失感に押し潰されそうになる。
――奇跡は起きなかった。
リンピアは救世主じゃない。
魔術相談所で働いていた普通の魔術師だ。
そんな女に誰かを救うなんてできない。
せめてスケッチブックに絵を描いたり、相談に来た街の女の子の愚痴を聞いてやることくらいしかできないのだ。
「…………」
だが、無価値でもいい。
あの不愛想な誰かさんが笑顔になれれば。
そう思って、少しでも力になりたかった。
体を起こしてスケッチブックを見返す。
せめてこんな笑顔を見れたら――。
「あ……この似顔絵……」
スケッチを破り過ぎて、残ったのは最後の頁。
そこにひっそりと似顔絵が描かれていた。
これは――。
次第に記憶が戻っていく。
怪異の合間、遺跡調査から離れてバスに乗り、トヤオ町からアールグリッジ市街へ帰る最中に何かを思って描いたものだ。
人とは思えない――実際は【不死魔族】らしいが、均整の取れた顔立ち。
筋の通った目と鼻。美形だった。
それを描いたときにも、不愛想な仕上がりを嫌がり、笑顔補正を加えたことを覚えている。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
「……!」
リンピアはその落ち着いた声に驚いた。
振り返ると、そこに細身の男が立っていた。
人とは思えない均整の取れた顔立ち。
スケッチブックの最後に描かれた人物と同じだった。
「ロ……ア……くん……」
思い出した。いや、覚えている。
名前も顔も性格も、そのすべてリンピアが思いを寄せていた男のものだ。
「ロア……くん……! ロアくん……!」
リンピアは立ち上がり、駆け寄った。
なぜ戻れたのか。魔術師失格だが、理屈はどうでもいいとリンピアは思った。
それが奇跡というものだ。
「どうやら君の勝ちだな」
感動の再会だというのに、相変わらず可愛げのない声音でロアは告げた。
リンピアは泣きっ面で鼻を一啜りだけした。
勝ち負けとは? 何の話なのか理解できない。
「最初の約束だ。俺が望み通りに負けたら、君のもとからいなくならない。これが果たされた」
「ぐすっ……それも破りそうだったじゃない」
ロアは気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「すまなかったな。七つ夜の怪異は俺と君の『血の盟約』を通して、その口約束を俺の願いと汲み取ったようだ」
「えっ……それじゃあ……」
「勝負は俺の完敗……。意表を突かれたが、満足のいく戦いだった。だからこうして戻された」
では、必死に手描きのスケッチで喚び戻そうとした行為は無意味だったのか。
スケッチブックを抱えながら愕然とした。
「あぁいや、それも関係している」
「スケッチブックが?」
「俺は一度、怪異の滅却とともに消滅した。世間で云う神隠しのように存在そのものがな。その時点でエラーが発生して、最初の約束は果たせなくなっていた」
ロアが言うには、リンピアとの口約束は【七つ夜の怪異】で成立していたものの、対象が存在ごと抹消されたことで不成立状態だった。
それが過去の手描きの似顔絵をリンピアが認識したことで、ロアの存在が世界に証明された。
その結果、最初の口約束も果たされた。
つまり、口約束だけでも、スケッチだけでも、さらにはリンピアがびりびりにスケッチブックを破いて最後の頁に辿り着かなかった場合でも、ロアが復活することはなかったということだ。
「そ、そうだったの……」
どれも確証を持ってやったわけではない。
すべて綱渡りの状態でロアを蘇らせたのだ。
奇跡とは末怖ろしい。
「約束は守る。俺は負けた。もう君のもとからいなくならない。だから――」
リンピアは苛々してその減らず口に蓋をした。
むぐ、と口に手を覆われたロアは黙った。
「……ロアくん、わざわざ明言しなくていいの。言わなくても分かることもあるし。それより先に言うことがあるんじゃないの?」
期待していたわけじゃない。
でも、これはリンピアの最後の意地悪だ。
今回のことが彼にとってどれだけの経験だったのか、長い人生を生きるロアだから、リンピアには計り知れない。
それを推し量るのにちょうどいいと思った。
今後の付き合い方も考えなければならない。
「そうだったな……。リンピア、ありがとう」
ロアは優しく微笑んだ。
その一言だけでも十分だったが、彼がおよそ初めて微笑んだことに、リンピアはドキっと心が跳ね上がるほど動揺した。
それと、あまりの美貌に恍惚とした。
紅潮した顔を隠すように、リンピアはロアの胸
に飛び込むことに決めた。
「なんだ?」
「いいから。余計なことは言わないで……」
リンピアは背を伸ばし、その顔に唇を寄せた。
二人は幸せなキスをして終了。
そんな様式美で終幕を迎えても、ここでは祟られることはない気がした。
投げ出されたスケッチブックには、ロアの笑顔と同じ、微笑む美男子の似顔絵が描かれていた。
次回はEpilogueです。
他の連中がどうなったのか、後日談と絡めて綴りたいと思います。




