第2話 ノーシンクシステム起動開始
「もうすぐ受付、始まるんだってな。」
「待ち遠しいな。」
「自分で考えなくて済むとか最高だよな」
クラスのグループチャットもその話で盛り上がっていた。
みんな、楽しみにしてるみたいだけど、レンは興味がなかった。
放課後、レンが私に聞いてきた。
「お前は?」
私は少し黙ってから、ぽつりと答えた。
「わからない。何も考えなくていいって、そんなに簡単に手放していいものなのかな」
「俺も同意見だわ。誰かの答えで生きて行くなんてさ。俺はこれからも自分で選びたい。」
「レンらしい」レイアは小さく笑った。
そんな他愛のない平凡な生活が続いてほしいって思っていた矢先…
その日私はいつものように少し遅く帰宅する。
「ただいまー」
いつも通り、玄関の扉を開けて声をかける。だけど、返ってくるはずの「おかえりなさい」がない。
リビングに入ると、レミアがソファに座ったまま、スマホを見つめていた。その表情は、いつものおおらかな彼女らしくない、硬いものだった。
「レミア? どうしたの」
「レイア……あのね」
レミアは顔を上げた。無理に笑おうとしているのが、レイアにはすぐにわかった。
「お父さん、まだ帰ってきてないの」
「え……?」
「いつもならとっくに帰ってる時間なのに、連絡もなくて。電話しても繋がらなくて……」
私は玄関にカイロスの靴がないことに気づく。
「今朝は、いつも通りだったよね?」
「ええ。行ってきますって、いつもみたいに笑って」
その「いつも通り」という言葉が、急に不気味な響きに思えた。私はスマホを取り出し、カイロスの番号を呼び出した。
呼び出し音すら鳴らない。無機質な音声だけが、繰り返し流れる。
「……レミア。これ、変だよ」
窓の外はまだ明るいのに、心の中には、確かな夜が訪れ始めていた。
カイロスが姿を消して、三日が経っていた。
「本当に、繋がらないの……?」
私はスマホを握りしめたまま、もう何十回目かの発信ボタンを押した。呼び出し音すら鳴らない。ただ無機質な機械音声が「おかけになった電話は電波の届かない場所に――」と繰り返すだけだった。
放課後にレンにこの事を打ち明けた。
「レイア」
隣で腕を組んでいたレンが、静かに声をかける。
「一旦落ち着け。お前がそんな顔してたら、見つかるものも見つからない」
「落ち着いてなんかいられない。カイロスは……お父さんは、あの日いつも通り笑って出て行ったのに」
朝食の席で交わした、なんでもない会話。行ってきます、と手を振ったカイロスの顔。それが最後になるかもしれないという恐怖が、私はの喉の奥を締め付けていた。
家に帰るとレミアは居間のソファに座り、膝の上で手を握りしめていた。その横顔には、いつものおおらかさが影を潜め、代わりに深い憂いが刻まれている。
「レミア……ごめんね、心配かけて」
「ううん。レイアが謝ることじゃないわ。私も、彼がどこにいるのか……」
その瞳の奥に、レイアの知らない何かが揺れているように見えたが、今のレイアにそれを問い詰める余裕はなかった。
警察に連絡しても「捜索中です」の一点張り。手がかりひとつ出てこない。
そんなある日、レンがぽつりと言った。
「……あのさ、俺の知り合いが、ニューホライズン社の近くで、カイロスさんっぽい人が誰かと一緒に建物に入っていくのを見たって」
「本当に!? どうしてもっと早く言ってくれなかったの」
「確証がなかったからだよ。似てるってだけで、断定できる情報じゃなかった」
それでも、藁にもすがる思いだった。私はすぐにニューホライズン社へ向かおうとしたが、レンに肩を掴まれる。
「待て。あそこは今、ピリピリしてる。ノーシンクの受付が始まる直前だ、警備も厳重になってるはずだ」
「関係ない。カイロスがいるかもしれないなら――」
「だからこそ、慎重にいくんだ。お前が単独で突っ込んで、何かあったらどうする」
レンの声には、いつもの頑固さの奥に、私を案じる強さがあった。子供の頃、いじめられていたレイアを庇ってくれたときと同じ目だ。レイアは奥歯を噛んで、頷くしかなかった。
だけど、その矢先。
世界は二人の思惑など置き去りにして動き始める。
「本日より、各自治体にてノーシンクシステムの受付を開始いたします――」
ニュース速報が街中の大型モニターに映し出された朝、レイアは信じられない光景を目にすることになる。
各自治体に設けられたブースの前に、長蛇の列ができていた。老いも若きも、まるで救いを求めるように並んでいる。
ニューロスタンプという名の注射器が腕に押し当てられ、チップは数時間かけて脳神経と結びつく。パチンという乾いた音とともに、人々の顔に安堵の笑みが浮かぶ。
「思考することに、もう疲れたの」
「これで、家族ともう喧嘩しなくて済む」
「何も考えなくていいなんて、天国みたい」
インタビューに答える人々の声が、レイアの耳に虚しく響いた。
「……こんなに、簡単に」
クラスメイトたちも次々と列に並んだ。あんなに悩んでいた恋の話も、あんなに熱く語っていた将来の夢も、まるで最初からなかったことのように、彼らはブースへと吸い込まれていく。
「レイア、大丈夫か」
「うん……ただ、怖いだけ」
私は答えた。でも本当に怖かったのは、受付に並ぶ人々の数ではなかった。誰も彼もが、迷いなく、当然のようにその選択をしていることだった。
それから数日後。
衛星から、目に見えない信号が世界中に放たれた。
『ノーシンクシステム起動開始』
ノーシンク化した人の脳裏に、直接その声が響きわたった。
教室では、机に座っていた同級生たちが一斉に顔を上げた。誰も声を発さない。ただ、示し合わせたように同じ角度で首を傾げ、それから何事もなかったかのように授業を再開する。
「……レン。今の見た?」
「ああ。全員、同じタイミングだった」
二人はニューロスタンプを受けていなかった。レンは持ち前の自信から「俺には必要ない」と言って拒み、レイアは――理由はうまく言葉にできなかったが、どうしても腕を差し出す気になれなかった。過去の記憶にない何かが、本能的に警鐘を鳴らしているようだった。
教室の中で、私とレンだけが、以前と変わらぬ表情でいた。それがどれほど心細いことか、このときの私はまだ知らなかった。
平穏は、長くは続かなかった。
「本日未明、都内各所で精神に異常をきたしたとみられる人物が相次いで発見されました――」
ニュースキャスターの声が硬い。画面には、表情のない人々が、同じ言葉だけを繰り返す映像が流れていた。
「……たすけて……たすけて……」
「もう、かんがえたくない……もう、かんがえたくない……」
笑わない。泣かない。ただ壊れたラジオのように、同じフレーズを吐き出し続ける人々。
レイアはテレビの前で立ち尽くした。
「これって……」
「ノーシンクのせいだ、間違いない」
レンが吐き捨てるように言った。
街では、不安を抱いた人々がニューホライズン社の本社前に集まり始めた。
「うちの子がおかしくなった! どうしてくれるんだ!」
「責任者を出せ! 説明しろ!」
だがその声も、長くは続かなかった。
突如、これまでよりも強い信号が放たれる。空気が震えるような、低い唸り。デモに参加していた人々の目から、みるみる怒りの色が消えていった。
「……あれ、私、何を怒ってたんだっけ」
「まあ、いいか。そんなに大した問題じゃないよね」
群衆は潮が引くように静まり返り、やがて三々五々、何事もなかったかのように解散していった。
その一部始終を、レイアは物陰から見ていた。手が震える。
「シグナルの周波数を上げただけで、人の感情ごと……消せるっていうの」
「レイア」
レンが背後から肩に手を置いた。
「これは、俺たちだけじゃどうにもならない規模の話だ。だが――だからこそ、俺たちがやらなきゃいけないことがあるはずだ」
レイアは頷いた。カイロスの行方も、ノーシンクの真実も、まだ何もわかっていない。それでも、この目で見た光景を、なかったことにはできない。
それから、一年の月日が流れた。
表向き、世界は落ち着きを取り戻したかに見えた。人々は感情の起伏を失いながらも、争いのない毎日を「幸福」と呼んで受け入れていた。
だが水面下では、ノーシンクを拒み続ける少数の人間――レイアやレンのような存在――を、ニューホライズン社は決して野放しにはしなかった。
密かに開発が進められていた、自律型排除兵器。思考と感情を持つ者を「エラー」と認識し、機械的に狩り出すその兵器に、彼らはこう名付けていた。
「シンクエンド」
その存在が、静かに、しかし確実に、私たちの前へと解き放たれようとしていた。




