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Dingon・Dingon~『誰が為に鐘は鳴る』~  作者: 井口亮
第一章 『ヨッドヴァフの魔王』編
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第5章 『褐色の幽霊』 21

 誰が囁いたのかは、もう、わからない。

 タマは掃除が手につかなくなっているのを知っていながらも、外を気にすることを止められなかった。

 今朝から幾人もの客が店を訪れたが、珍しく、そう、本当に珍しくリバティベルは休業の札を掲げていた。

 その噂を聞きつけたフィルローラは正気を無くしそうになっている自分に驚きながら、そうして、自分がまさか、生娘のように駆けだしていることに愕然とする。

 シルヴィアは癒えぬ傷を抱えたまま、寝室の窓からグロウリィドーンのその方角を眺め、次の吉報を心待ちにしていた。

 ユーロは大分前に掘った墓穴に、入れる予定が無くなったために埋め戻しを淡々と、それでもどこか嬉しそうに行う。

 アーリッシュ・カーマインは己の預かる兵の鍛錬に余念が無く、ダッツ・ストレイルはその任を熾烈に全うしていた。

 フィルローラは息を弾ませてサウスグロウリーストリートの人混みの中を駆け、普段なら入っていくようなことの無いうらぶれた路地に足を踏み入れる。

 途中、杖をついて散歩するミラがフィルローラを訝しげに見たが、フィルローラは気がつかず、心中はそれどころでは無かった。

 その店は大きくは無いが、小さくも無い。

 どこか、くたびれては居るが喧噪が絶えず、生きる活気の溢れる場所であった。

 その店の中心には貧弱で、どこか頼りなく、自堕落で、投げやりな態度でだらしなくカウンターに立つ男が居るはずだった。

 フィルローラはどこか、胸の奥が弾む気持ちを必死に抑え、その店のドアを開ける。

 大きく吸い込んだ息が、その名前を呼べることに歓喜を覚えているだけで誇らしげになれた。


 「スタイアさんっ!」


 店内にはタマと、ラナしか居なかった。

 店内を見渡しても店主の姿は、無い。


 「あの……スタイアさんが戻られるというお話を……」

 「本日は、休業になります」


 ラナはいつも通り、不機嫌に答えた。

 抑揚も無く、淡々と、それが、いつもと変わらない。

 タマが思い出したかのようにテーブルを拭くことを再開し、続ける。


 「スタさんなら、まだ、帰ってないですよ。多分、疲れてるだろうから、今日はお休みです。あ、フィルさんなら何か軽い食事でよければ用意するよ?私、もう少ししたら買い物に行って来ますのでそれまで少々、お時間を下さいな」


 それだけで、フィルローラは全部、理解してしまった。

 フィルローラはたじろぎ、口元を手で覆い、零れそうになる言葉を呑み込んだ。

 ラナはよく絞ったモップを店内の床にまんべんなく掛け、それが終わると厨房に戻って行った。

 タマはテーブルの上を拭き終えるとランタンの油を足して回り、傘の上に溜まった埃を拭いて歩いた。

 どこまでも日常であろうとする彼女らの姿勢の奥にある強さを知ってしまった。

 フィルローラはふいに自らの瞳に浮かぶ涙に気がついた。

 そういえば、自分は誰かに恋をしたことは未だ無かったことに気がついた。

 また、それが破れた時の切なさも知らなかった。

 この齢に至るまで、修道女として在り続け、人の当然の営みを知らずにいた自分がとても恥ずかしく、お粗末で。


 「申し訳ありません……取り乱してしまいました」

 「ご足労、おかけ致しました」


 ラナがどこか遠くを見たまま、フィルローラに頭を下げた。

 その所作がどこか、奥ゆかしくて。

 フィルローラはせめて一礼をすると、店を後にしようとした。


 「おっと」


 そこで、誰かとぶつかりよろめき、目が合ってしまった。

 息を飲むフィルローラを見て、彼は苦笑をするとそれでも店の中に先へ入った。


 「ただいま戻りました」


 丸まった背中はどこか頼りげなく、細めて笑う目は弱々しく。

 ぱっとしない風采はどこにでも居る男のようにも見える。

 その男を見つめるや、ラナがどこか不器用に笑って頭を下げた。

 その男が本当に、屈託無く笑った。

 そこにある言葉にならない、壮絶な苦労など語るまでもなく。

 フィルローラは逃げるようにその場を走って去った。

 そして、泣きながら微笑んでいる自分に気づいて、おかしくなった。

 母親であろう。

 そう決めた時、それがどれほどのものかわからず、だが、それでもどこまでも清々しく思えた。


   ◆◇◆◇◆◇


 戻ってきたスタイアは休業閉店の札を掲げたままの店で大きく息を吐いた。

 長く不在にしていた気もするし、それが存外短かったようにも思える。

 そんなものかと、とりとめもなく思考を巡らしている中、視界の中、黙々と食事を拵えるラナの姿を見て僅かに視線を交わす。

 ラナは何事も無かったように給仕に取りかかると、出来上がった食事を黙ってスタイアの座るカウンターに配膳する。

 簡素な食事である。

 だが、いつもならば出ることのない銀の杯に黄金に濁った蒸留酒が注がれ、添えられていた。

 タマはいずこかへ出掛け、そのまま姿を見せない。

 その気遣いが面はゆくてスタイアは苦笑してしまう。


 「……ラナさんには、苦労をかけてしまいました」


 どこか、言いづらそうに告げたスタイアに答えることなく、ラナは自分の杯を持ってくると蒸留酒を注いだ。

 そして、何も言わずにスタイアの隣に腰掛けた。

 大きく、長く、どこか疲れたように息を吐き出したスタイアはもう、ラナを見ていなかった。

 ラナの瞳が僅かにそのスタイアの顔を伺う。

 スタイアはどこか冷めた、それでいて疲れた顔をしていた。

 ラナはぼそぼそとか細い声で言う。


 「……グィン・ダフの魂は救われました」

 「おっ死んだあとに救われたも何もないでしょうに」


 言い返して、スタイアは苦い顔をする。

 額を抑え、蒸留酒を煽ると熱くなった息を静かに吐いた。


 「……すみません。甘えてしまいました」


 ラナは手元に寄せた杯を弄ぶと溜息をついた。


 「……私も、少し、疲れました」


 スタイアは怪訝に思いラナを振り返るが、ラナは不自然に笑おうとした。


 「甘える方法を、知りません」


 そう言ってスタイアを困ったような顔で見上げたラナが、どこまでもおかしかった。

 苦笑してみせるとスタイアはラナの肩をそっと抱き寄せる。


 「髪が……」

 「え?」


 ラナはどこか、含めるように囁いた。

 尋ね返すスタイアの瞳を間近で見つめ返すと、長い睫を伏せて囁いた。


 「髪が……砂まみれになりました」


 人ではない者の証である銀色の髪の先をつまんで、ラナはスタイアを見上げる。

 気だるげな、そして、どこかいたずらめいた笑みを浮かべラナは囁いた。


 「……洗って下さいまし」


 スタイアはそこまで言われないと気がつけない自分に辟易しながらも溜息をついた。

 不器用にラナの髪に指を絡めると、そっと唇を重ねた。

 唇を重ねるラナの顔はどこにでもいる少女のそれと、変わらない。


 第5章、読了ありがとうございます。

 閑話を挟み、これより最終章を掲載してゆく次第となります。

 もうしばし、彼等の物語にお付き合い下さい。


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