第5章 『褐色の幽霊』 20
褐色の幽霊に追いすがる黒衣の暗殺者は白銀の煌めきを最後の視界に納めると崩れ落ちた。
スタイアの剣がするりと滑り、暗殺者の瞳を貫いた。
積み上げた屍は累々と横たわり、荒く息を繰り返すスタイアは額の汗を拭うと剣を鞘に納めた。
静かに息を吐くと、満天の星空を見上げ、そこに浮かぶ月を憎らしげに見つめる。
その月にかかった尖塔を見ると、意を決して歩み始める。
「……おっかない顔してるぜ?お前さん」
気がつかれることなく、シャモンがスタイアの背後に立っていた。
スタイアは振り返ることとなく、荒い息を整えた。
「やあ、シャモさん。迷惑をお掛けしますね」
「……フィダーイーは天秤の行く末を見届けることにした。死に損なったな?」
「まるで、僕が死んだ方がいいような言い方じゃないですか。兄ぃ」
シャモンは顔を歪め、唾棄するように吐き捨てた。
「死ぬべき人間じゃねえか。お前さんが生きてる限り、何人も死ぬ。生きるか死ぬかで聞かれれば間違いなく死ぬべき人間だよ」
「でしょうね……」
「知っててやってンだお前さんは。生きてる限り、いつまでもてめえを無くしたまま、殺し続けるんだ。てめえの為ではなく、他人の為に。死んでしまえよ。そうすりゃ誰もてめえにそこまで求めやしねえよ」
スタイアは少しだけ背中を振るわせると、小さく息を吐いた。
シャモンは小さく溜息をついた。
「……誰もお前の跡は継げない。死んでしまえば終わりだよ。死んで、楽になれ。今なら俺がお前に引導を渡してやる。お前を楽にしてやれる」
スタイアは自分でも驚いた。
剣を手に、抜き放ち、くるりと回し鞘に戻す。
人を殺すだけの道具を初めて弄んだのだ。
「僕は……そうか、愛されてるんです……ねえ」
シャモンは額を抑え、大きく息を吐くと首を左右に振った。
「そうかよ」
歩み出すスタイアの曲がった背中に自分もまた重しを載せていたのを知るとシャモンはくつくつと笑った。
「くふ……」
「けっけっけ……」
苦笑が、次第に、高くなる。
「あはははははははははっ!」
「ハッハぁぁぁぁあああぁぁっ?」
二人は高々と笑い合った。
グロウリィドーンの夜空に、二人の笑い声が寒々と響き渡る。
そして、シャモンは片膝を地につけ拳を合わせて掲げた。
それは拝拳と言われる、異国の、それでいて、最高の礼であった。
スタイアは足を止め、シャモンを振り返る。
「江湖宗主シャモンは先代の約定と、鉄鎖の契約を果たす。フィダーイーの古き盟約より果たすべきは鉄の宿命。鉄鎖の絆とは運命に立ち向かえぬ末底の生き様にあらず。天下万民が捕らわれし宿命の縛鎖に共に生きる覚悟を示す」
膝をついたシャモンの背後から襤褸を纏った人がのろのろと現れた。
一人、二人と静かに増えて行く物貰い達はシャモンに習って膝をついた。
大通りに襤褸が並び、まるでスタイアを崇めるように膝をついた。
スタイアは自らの纏う褐色の襤褸と変わらないローブを翻し、膝をついた。
「……鉄鎖の縛に捕らわれるのは自らの意思のみ。知るがいい。人は己を決める程度には自由であることを」
白刃を抜きはなったスタイアは静かに王城へとその歩を進めた。
◆◇◆◇◆◇
夜明けはまだ遠く、安穏が支配する夜が続く。
かげる満天の空に広がる星空の下、王城の正門に立つ警衛兵は欠伸を噛み殺した。
平和な時代ではある。
だが、ヨッドヴァフの王を戴く城を守る者が自分であるという自負があった。
王に何かあってはならない、ではない。
王に刃向かう者があってはならない、だ。
ヨッドヴァフ首都グロウリィドーンの中心にそびえ立つ王城の荘厳さは、実利だけで言えば全く意味を成さない。
高く豪奢な城壁も、重く堅牢な門も、幻想的に美しい庭園も、巨大で荘厳な宮殿も。
それらがどれほどの財と血で賄われたものかは理解している。
だが、それが存在することには意味がある。
彼等はそれをよく知っていた。
それらは、ただただ、王の為のみにある。
だから、王城なのだ。
その王とは何か?
神により国を治めることを許されたのではなく、任された存在。
許すのではない、任せるのだ。
それは、対等の立場にあるものに使われる言葉だ。
王とは、全知全能の神に並ぶ力をこの地上で行使できる者なのだ。
生きる術を持たない民にその術を授け、より豊かな営みへの知恵を授ける。
実体の無い偶像である神より、現実に自らを救う神。
だからこそ、彼らは平和であるヨッドヴァフにおいてもその職務に怠惰を覚える自分を許しはしない。
自らが生きる術と場を与える王を自らの心が裏切れば、それは王の尊厳ではなく自らの尊厳を捨て去ることと同義であるからだ。
王の臣下として王の威厳を知らない無辜の民にその威厳を知らしめなくてはならない。
だからこそ、遠くに見えたそれにいち早く気がついた。
夜霧に紛れ、破れた褐色のローブを身に纏い、不吉なまでに白く輝く白刃を携えた男の存在を。
「何奴かっ!」
鍛錬に鍛錬を重ねた彼等は賊の侵入など許しはしない。
例え、手練れであろうとも一人の賊であれば二人の衛兵は片方が死んでももう片方が賊を確実に討ち取る。
そうまでいかなくとも、異変に気がつく他の衛兵の到着を待てば良い。
誰何された賊は名を答える代わりにその白刃の切っ先を向けてきた。
繰り出した槍に巻き付くように滑り込んだ幽霊を見た。
伸びた白刃の一閃が自分の胸甲を断ち割り、胴を二つに断つ頃になって衛兵は恐れ多いこの悪魔の噂を思い出す。
「褐色の……幽霊」
崩れ落ちた相方に逡巡の驚きも見せずに繰り出された槍を褐色の幽霊は避けるまでもなく、白刃で切り払った。
まるで元から振り抜いていたかのように見えた剣のあとを追うように槍が柄の半ばから零れ落ちた。
「ぞ……」
何かを叫ぼうとした衛兵の喉がゆるやかに振るわれた剣に抉られ、びしゃりと鮮血を迸らせる。
倒れるように堀に落ちた衛兵は激しく水柱をあげ、水路に自らの血を吐き出していた。
その水音は城内にいる衛兵に異変と気がつかせるには十分だった。
だが、それすら意に介さずスタイアは歩を進めた。
重く堅い扉を押し開け、庭園を歩み、宮殿へと歩を進める。
石柱の並ぶ廊下を長い影を従えて歩み、静かに集まる衛兵達の影を目の端に捕らえていた。
王の安眠を妨げぬように静かに、音も無くスタイアを包囲した衛兵達は槍を構えた。
そこでようやくスタイアは歩みを止めると、剣をゆっくりと構えて応じた。
「何奴だ?」
「賊にございます……褐色の幽霊の方がわかりやすいでしょう」
「何用で来られた。恐れ多くも王の宮殿。ここがどのような場所か知らぬ訳はあるまい」
手練れの戦士である衛兵はその威風を憚ることなく、スタイアに問い詰めた。
「王を、斬りに来た」
そう言い切ったスタイアに衛兵達はほんの僅かに、愕然とした。
「できるものか」
だが、すぐさまに鼻で笑い、槍の穂先をスタイアの心の臓に定める。
スタイアの背後に立つ衛兵の一人がその場に崩れ落ちる。
呆気にとられた衛兵が、また、一人事切れて倒れた。
よく目を凝らして見れば、襤褸を纏った物貰い達が衛兵の周囲を取り囲んでいた。
言葉も無く、獲物もなく、人の命を奪うその術は王の衛兵達といえど見覚えは無かった。
それ故に、恐怖した。
「できる」
そう言い切り、悪魔の業を持つ襤褸達を従えたスタイアが古の魔王に見えた。
だが、挫けそうになる心を奮い立たせる術はいくらでもあった。
包囲する形が一転して包囲される形となった衛兵達は周囲に間断なく気を払い、この悪魔達を駆逐する決意を固めた。
スタイアが動いた。
圧倒的な暴力が巻き起こる。
神速の域で振るわれた銀閃は叩きつけられた衛兵の上半身を吹き飛ばしていた。
ただの一歩、そして、ただの一振りがここまで強烈なものかと思う。
それがただ一本の剣で引き起こされた暴力かと思えば、その場に居た誰もが信じられなかった。
音すら後に引き、閃いた白刃が人の体を爆ぜさせ血煙に替えたのだ。
誰しもが呆気にとられた。
木っ端微塵に吹き飛ばされた人体でかろうじて原型を止めていた足だけがばらばらの方向にそれぞれ転がった。
「来い。立ち塞がるなれば、斬る」
逃げられるはずもない。
なれば、戦って死ぬのが王の兵たる尊厳だ。
死を覚悟して、槍を突き込む兵達の体が虞風の如く暴れる銀閃に赤い血風とされていく。
悲鳴すら残さないその圧倒的な暴力に襤褸達は手を出せずにすら居た。
シャモンはその襤褸達の中で静かに、リョウンが残した剣の真の姿を見て戦慄していた。
「……鬼か、貴様は」
流麗にありながら凄絶に踏み込み、清澄で豪放な剣撃。
無形の先にある、剣という枠を越えた暴力。
ただの人間がここまでの暴力を振るえるものかと、驚愕したシャモンは自らの兄弟がどれほどの苦悩を負ってこの域に達したかに思いを馳せる。
せめてもの露払いくらいはしてくれようと覚悟していただけにである。
だが、同時にもう一つ、畏怖したものがある。
これほどの暴力を前に、一向に怯むことが無い衛兵達の士気だ。
圧倒的な暴力を前に、怯むどころか無謀に、いや、スタイアを斃すべく死をもって果敢に攻め続ける。
それだけの拠り所をどこにおいているのか。
シャモンは改めて、痛感させられる。
「宵も深い。茶番はそれまでにせよ」
圧倒的な暴力、そして、悲惨なまでの覚悟。
それらを総じて茶番と言い切る器量。
アルテッツァ・ヨッドヴァフは凄惨な廊下に寝具を纏いながらも凜とした声を響かせ、場を納めた。
王の器量。
齢ならばリバティベルの給仕奴隷のタマと同じ頃だろう。
だが、壮絶な覚悟で振るわれる暴力、そして、それに立ち向かう勇猛さを茶番と言い切り納める器量を既に備えている。
「先日は我が無礼な訪問をしたからとて、このような来訪はいささか目に余るな?」
目の前に広がる惨状に眉を潜めることもせず、愉快に鼻で笑い飛ばせる気概は最早、人のそれとは言えない。
シャモンの率いる物貰い達が平伏し、僅かに遅れて衛兵達が膝をついた。
ただ、膝を折らずに立っていられるのはスタイアと、他に唯一、王の威容を知るシャモンだけであった。
改めて、痛感させられる。
これが、王の器量なのだと。
アルテッツァは気だるげに死散した兵達に一瞥をくれると、その中心に立つスタイアを見上げ、妖艶に笑った。
「差配が滞っておったわ。貴様に余計な労をかけた」
シャモンにはアルテッツァが何を言っているのかはわからなかった。
「コルカタス遠征の折、貴様に事後の始末を頼まれたが多忙の身でな?そこもとまで手が回らなかった」
スタイアは軽く会釈をしてみせると剣を納めた。
アルテッツァは鼻を鳴らすと、生き残っている兵を見渡し告げる。
「よい。下がれ」
兵の一人が異議を唱える。
「畏れながらっ!」
「下がれ」
王に二度、同じ発言をさせた恐縮に身を強ばらせ、兵は続ける。
「この者は不埒にも城門を破り、陛下の寝所に侵入しその配下に手をかけた賊にございますっ!御身の安泰を思うに……」
「我が客人だ。くどいぞ」
アルテッツァは怒りを孕んでそう告げた。
「しかしながら……」
「客人は剣を納めた。そして我に些末なれど礼を尽くした。貴様は我に客人に対して非礼を行えと申すか?」
「お戯れをっ!」
そう告げる兵の言うことが最もであるのはその場にいる誰もが理解している。
「繰り返した。下がれ」
それを超越した存在。
それが、王だ。
兵達がしずしずと後ずさる。
誰一人となく、気配すら残さずに立ち去った。
王が去れと命じたのであれば、それは即ち、王に自らが居ることを覚えさせてはならない。
また、王が話す内容を聞いてはならない。
それが、自らを、そして、国を、全ての民を苦しめることとなるのを彼等は王の側で勤めるうえで理解しているからだ。
シャモンは考えあぐねた結果自らが率いた物貰い達を退けさせると静かに物陰から様子を見ることにした。
物貰い達が静かに立ち去るのを見届けて、アルテッツァはシャモンの潜む宮殿の天井を見上げる。
「噂に聞くコウコの主か。立つ力無き無数の者を従える最も無力なる者。コーレイセンから手ほどきを受けたそうだな?フィダーイーとしても優秀と聞く。いささか、放浪癖があるようだが、この者のもとにおったとはな」
シャモンは最早忘れていた心臓の動悸を思い出した。
「数は力だ。卑屈になることはない」
王の前に立つとは、全能を前にするのと同じことだった。
だからこそ、シャモンは前に出ることをしなかった。
その全能を前に常然としているスタイアだけが、王女の視界に存在した。
「どうやら貴様の兄は我の事が嫌いなようじゃな?」
「苦しめられて来たんです。当たり前でしょうに」
そう返すことがどれほどのものかをシャモンは良く理解していた。
「貴様は存外、口さがないのう」
「全能を求められ、全ての民に安寧を与えなければならない王の責務は理解しています。至らぬことを誰が責められますか。ですが、それでも苦しんだ怨嗟までは消せようにありません」
「そして引き起こされたのが鉄鎖解放戦線だな。我が生まれる前のことだ」
アルテッツァは小さく溜息をつくと真正面からスタイアを捕らえた。
「斬りに来たのだろう?」
「はい」
アルテッツァはじっとスタイアを計り、そして、結論した。
「斬れ」
スタイアは鼻を鳴らす。
「承知の上で申し上げましょう。斬れとせがむ子供を斬る程、僕も野暮じゃありません」
「戯れるな」
アルテッツァはローブの中からのぞくスタイアの瞳を真正面に捕らえ、揺れる瞳で続けた。
「貴様は知っているのだろう?古の盟約、聖剣の出自、そして、おそらく鳴り響く鐘の音を……いや、この国の全てを、だ」
スタイアは淀みなく応えた。
「あい」
アルテッツァは大きく息を吐いた。
そして、うなだれて弱々しく頭を振る。
シャモンはそれが王族の姿であることが信じられなかった。
アルテッツァはスタイアに膝を折った。
「……リバティベルという店がある。金貨五枚で人殺しを請け負ってくれるという。私は、私の持てる全ての財貨を投げ打ってでも殺して貰いたい者が居る」
アルテッツァの声は震えていた。
「誰に、ございましょうか?」
アルテッツァがとうとう地に手をつき、頭を垂れ、吐き出すように呟いた。
それは慟哭だった。
どれほどの悲壮と、哀惜と、覚悟をもってしてこの王は吐き出したのだろうか。
「我が……父上を……ヨッドヴァフ・ザ・サードを……殺して……欲しい」
よもや、自らの父親を殺せと。
アルテッツァの見せた弱さはそれまでだった。
「貴様に、全てくれてやる。富も、名誉も……望めば我が生涯の伴侶として王の地位もっ!私のために……奴を……殺せ。褐色の幽霊スタイア・イグイット」
スタイアはその二つ名に恥じぬ冷酷さをもって告げた。
「断る」
「何故だッ!金貨五枚で人殺しを理由無く受ける貴様が何故っ!今更になって!何が欲しいっ!金千枚かっ!救国の英雄としての名誉かっ!王の位すらくれてやるっ!」
最早、哀願だった。
「銭金にあらず。飯を食えりゃ、僕は満足ですから」
王の器量を持った希代の少女は涙を浮かべ、褐色の幽霊にすがった。
「我が得た物から代価を与えねばならぬなら、どれほどのことをすればよい?なんなりとも従う。だから……頼む。王を……父上を……斬ってはくれまいか?」
気丈に振る舞っていたアルテッツァが震えながら訴えていた。
「お願いだ……私には耐えられぬ。あのような父上をもう見とう無い……だからどうか、斬り捨ててくれ。頼む……頼み、ます……」
それはシャモンが少なからず、スタイアに抱いていた思いと同じものだった。
どんな言葉を重ねるより、深く、深く、理解した。
凄惨な覚悟はは見ている者には酷く、痛いのだ。
そして、自らを滅ぼしてまで進む覚悟の縛鎖から、死をもってして救いたいと思う。
それが、何故スタイアなのか。
「……重ぇよ」
シャモンは思わず、涙を呑み込み呟いた。
同等の覚悟をもってして人を殺すスタイアだからこそ。
王の覚悟と、同等の覚悟を有し、情を持って殺せる者は、最早、スタイアをのぞいて存在しないからこそ。
アルテッツァはスタイア・イグイットに頭を垂れたのだ。
だが、シャモンはそれを酷だと思った。
それは同時に、スタイア・イグイットに王の責務を背負えと言ってるのと同義だ。
これは殺した相手の全てを背負う。
そうなれば、最早、スタイアはこの国を背負う王となるしか無い。
スタイアがもし、王となればヨッドヴァフは平穏となるのだろう。
夢想すればするほど、シャモンにすら願わずにいられなくなる。
だが、それはスタイアをどこまでも苦悩の中に叩き込む選択だ。
だからこそ、重すぎるのだ。
そんなシャモンの思いに構わずスタイアは悠然と歩み寄り、アルテッツァの頬を張った。
そして、どこまでも人の条理をかざして諫めたのだ。
「子供が親を殺してくれなんざ間違っても言うもんでね!この世に産んでくれたおとどでねがこのバラガキが!」
アルテッツァは張られた頬を抑え、涙を流した。
そんなアルテッツァの頭を優しく撫でてスタイアは告げたのだ。
「僕が、僕の意思で、王を殺します。しかるべき、時に」
王の業を背負い、人と神との間で苦悩した少女は物心を覚えてから初めて、声を上げて泣いた。




