もうひとつの甲子園
入場行進は続いていた。
甲子園球場の放送席では、藤崎アナウンサーと片桐解説者が、次々とグラウンドへ姿を現す各代表校を紹介していく。
地方大会を圧倒的な強さで勝ち抜いてきた優勝候補。
何十年ぶりに甲子園へ帰ってきた古豪。
そして、創部以来初めて夢舞台への切符をつかんだ学校。
一校、また一校。
それぞれの夏を背負った選手たちが、甲子園の土を踏みしめていく。
大型ビジョンには各地方大会の映像が流れ、勝者だけでなく、最後まで戦った敗者の姿も映し出されていた。
『全国の高校球児たちが目指してきた、この場所です』
藤崎が語る。
『片桐さん、代表校の選手たちの表情を見ていると、本当にそれぞれに物語がありますね』
『ありますね。ここに立っている選手だけではありません。この選手たちに敗れた高校にも、それぞれの夏があった。その思いも一緒に甲子園へ来ているんだと思います』
そしてその頃――。
これから大会第1日、第1試合を戦う島根代表、島根大学付属松江高等学校。
そのアルプススタンドでも、もう一つの開会式が始まっていた。
島大松江の関係者が集まる中、バーンズコーチが一人の男性を見つけた。
「石川監督」
振り返ったのは、島根大会決勝で島大松江と死闘を演じた星承高校の石川監督だった。
バーンズが声をかける。
「石川監督、どうですか。島大松江の様子は」
石川はグラウンドを見つめた。
その視線の先には――娘、こなつがいる。
「今日はね、星承高校の監督として来たんじゃないんです」
「はい」
「一人の親として来ました」
石川は少し照れくさそうに笑った。
「娘のこなつと、この島大松江高校を応援しに来ました」
バーンズは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そのときだった。
石川がバーンズの横に立っている少年に気づく。
「……ん?」
金髪。
そして――。
でかい。
とにかく、でかい。
まだ少年の顔をしているのに、周囲の大人たちより明らかに大きい。
石川が見上げる。
「バーンズコーチ……こちらは?」
バーンズが笑った。
「私の息子です。ジュニアです」
「息子さん?」
「はい。それから今日は、私の妻も来ています」
バーンズの隣にいた日本人女性が、丁寧に頭を下げた。
「妻の京子でございます」
「初めまして。京子です」
そして金髪の少年も、一歩前へ出た。
深々と頭を下げる。
「アルフレッド翔真バーンズジュニアです。来年からよろしくお願いします」
「…………」
石川が目を丸くした。
発音も言葉遣いも、実にきれいな日本語だった。
母親の京子が幼い頃から教えてきたのだろう。
だが石川が引っかかったのは、そこではなかった。
「ちょっと待って」
ジュニアを見る。
「今、“来年から”って言った?」
「はい」
「君……日本の高校生として野球するのか?」
バーンズが答えた。
「この子は来年から、島大松江高校で野球をします」
「島大松江で!?」
その横から松田が楽しそうに口を挟んだ。
「石川監督」
「はい?」
「2メートル、100キロの15歳ですよ」
「…………」
石川はジュニアを下から上まで見た。
そしてもう一度、顔を見上げる。
「15歳?」
「はい」
「2メートル?」
「はい」
「100キロ?」
「はい」
石川はもう笑うしかなかった。
「ははははは!」
ところが美佐子部長が、さらりと付け加えた。
「石川監督」
「まだ何かあるんですか?」
「この子、それだけじゃありませんよ」
「え?」
「アメリカでも知られたピッチャーです」
「…………」
石川の笑いが一瞬止まる。
そして再びジュニアを見る。
「2メートル、100キロ……15歳……アメリカでも知られたピッチャー……」
やがて石川は再び笑った。
「ははは! これは参ったな」
そしてグラウンドの島大松江ナインへ視線を戻す。
「これで来年もまた、面白くなりそうですね」
バーンズも笑った。
「はい」
まだ今年の甲子園は始まってもいない。
だが島大松江の未来は、すでに動き始めていた。
◇
一方、島大松江の応援席。
応援に参加する各団体の代表者が集まっていた。
しかし――。
そこに、島根大会で島大松江応援団を率いた男の姿はなかった。
島崎。
地方大会では応援主将として、アルプスから選手たちを鼓舞し続けた男。
だが今、その島崎は――。
スタンドではない。
グラウンドにいる。
その背中には、
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島大松江野球部の背番号があった。
甲子園では、もう応援団長ではない。
正式な登録選手の一人として、仲間たちとともにグラウンドに立っているのだ。
だから甲子園で応援団を率いるのは、別の男だった。
一人の男子生徒が前へ出る。
「皆さん!」
大きな声がアルプスに響いた。
「この甲子園では、島崎に代わりまして、応援部部長の長谷川が応援主将を務めさせていただきます!」
そして勢いよく頭を下げる。
「うっす! 皆さん、よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします!」
大きな返事。
長谷川は続ける。
「そして本日は、友情応援に来てくれている皆さんがいます!」
拍手が起こる。
「星承高校応援団の皆さんです!」
さらに大きな拍手。
島根大会決勝。
最後の最後まで島大松江と戦った星承高校。
その応援団が今、島大松江のアルプススタンドにいた。
「それでは、星承高校応援団長の鬼塚さんを紹介します!」
鬼塚が前へ出た。
「星承高校応援団長の鬼塚です!」
一礼。
「本日は皆さんと一緒に応援させていただく許可をいただき、本当に感謝しております」
もう一度、深々と頭を下げる。
「どうぞよろしくお願いいたします!」
「よろしくお願いします!」
大きな拍手が起こった。
昨日までの敵が、今日の仲間になる。
それもまた、高校野球だった。
やがて――。
長く続いていた入場行進曲が終わった。
全国の代表校が、甲子園のグラウンドに整列する。
場内アナウンスが響いた。
『国旗、大会旗を掲揚します』
球場全体の空気が変わる。
『選手の皆さんは回れ右をして、掲揚台の方を向いてください』
選手たちが一斉に向きを変えた。
『役員、選手の皆さんは脱帽してください』
そして――。
『スタンドの皆さんも、ご協力ください』
アルプススタンドでも、一斉に帽子が取られていく。
その光景を放送席から見ていた藤崎が、あることに気づいた。
『片桐さん』
『はい』
『先ほどご紹介しました島大松江高校ですが、応援席に注目してください』
テレビカメラが島大松江のアルプススタンドを映し出した。
『島大松江高校の応援団には、島根大会決勝を戦った相手校、星承高校の応援団が友情応援に駆けつけているそうです』
『そうなんですか』
片桐の声が少し熱を帯びる。
藤崎が続けた。
『これも素晴らしい、もう一つの甲子園ですね』
『本当にそうですね』
片桐は画面を見つめていた。
『決勝で負けた学校ですよね。本当なら自分たちがここに来たかった。その悔しさは絶対に消えないと思うんです』
少し間を置く。
『それでも、今度は島根県代表を応援するために甲子園へ来た。高校野球というのは、勝った学校だけで作られているものじゃないんですよね』
藤崎がさらに続ける。
『そして片桐さん、もう一つご覧ください』
『はい?』
『島大松江高校の応援団の皆さん――全員、島大松江高校野球部の帽子を着用しています』
カメラが応援席を映す。
脱帽している生徒たちの手には、同じ野球帽。
そして――。
『なんと、友情応援に来ている星承高校の応援団の皆さんも、同じ島大松江高校野球部の帽子を着用しています』
片桐はしばらく言葉を失った。
県大会決勝で戦った相手の帽子。
それを星承高校の応援団員たちが、甲子園で手にしている。
そして静かに言った。
『……高校野球って、素晴らしいですね』
やがて場内アナウンスが響く。
『国歌を演奏します』
甲子園が静寂に包まれた。
選手たちは脱帽したまま、掲揚台を見つめる。
島大松江の選手たち。
星承高校の応援団。
石川監督。
バーンズ一家。
何万人もの観客。
そのすべてが同じ空を見上げる。
国歌の演奏とともに、国旗が夏の甲子園の空へゆっくりと昇っていった。
大会旗も、その隣を昇っていく。
やがて演奏が終わる。
――拍手。
大きな拍手が甲子園を包んだ。
『選手の皆さんは回れ右をして、正面を向いてください』
選手たちが一斉に向きを変える。
『役員、選手の皆さんは着帽してください』
島崎も帽子をかぶる。
竹内さおりも。
石川こなつも。
全国の球児たちが再び帽子をかぶった。
『スタンドの皆さま、ご協力ありがとうございました』
そして――。
開会式は次の式次第へ進む。
場内アナウンスが甲子園に響いた。
『続きまして――』
甲子園が再び静かになった。




