第一話
決して、剣をとってはいけない。
レーツには分かっていたことだ。分かっていてなお、彼は腰に手を伸ばす。
向かってくる黒い男たちに、彼はふっと笑う。
「地獄行き、上等」
目を細めた彼は、ゆっくりと剣を抜いた。
それが世界の終わりだと、そう信じて。
※
「母上、俺は元気です」
まるで太陽が沈む海みたいに、一面に花が咲き乱れていた。そこにぽつんと立ち竦んでいるような石が、彼を蝕んでいた。
「俺、こんなに背が伸びたんですよ!魔法も上手くなって、料理も褒められるようになりました」
石碑に刻まれた文字は形を変えないし、彼に語りかけることもない。
それを知っていながら、青年は手を広げたり頭を掻いたりしていた。そうやって話すのは、夏になって衣替えをしたとか、虫に刺されることが増えたとか、どうでもいいことばかりだった。
「あとは、なんでしたっけ」
思いつかなくなった彼は、空色の前髪を弄った。
「屋敷に……、あ」
青年――レーツは口を噤む。
彼女にその話をするのは、彼の中での禁止事項だった。
「レーツ!」
揺らめく黄で埋め尽くされた視界の中、真っ赤な制服姿が駆け寄ってくる。それを目にした瞬間、レーツは背筋を伸ばした。
「失礼いたしました、ナルエド様」
「……お母さん?」
そう聞いた少年は、少し長い黒髪を右耳にかけた。そうしないと、吹き出してくる汗に耐えられないのかもしれなかった。
「はい。今日が誕生日で」
「……ごめん。邪魔したかな」
レーツの返しに一歩だけ下がったナルエドは、少し首を傾げる。
「ちゃんと話せた?」
「ええ。それは勿論」
屋敷への道を一歩ずつ歩く。
いつもははしゃぎながらだったけれど、今日は鳥の囀りくらいしか聞こえなかった。
「ナルエド様は剣の練習でしたか」
口を開いたのはレーツの方だった。
「そうだよ!偉そうな年上を懲らしめるくらいには強くなったね」
「ふふ、そうですか」
「レーツも強かったんでしょう?僕も一度――」
ナルエドは口を閉じた。
彼を見たレーツは、ふっと目を細める。
「一度手合わせしたかったです、俺も」
選暦千五百三年。
革命によって倒された貴族たちは、幼い者を除いて殺された。
遺された者たちに課された掟は、たった一つ。
「剣を抜いてはいけない。……そうだよね」
「ええ。俺がナルエド様よりずっと強かったら大変ですので」
うわ偉そう、と睨みをきかせてくる主人に、レーツは口元を緩めた。
そのままふと話を逸らす。
「本日は俺たちで留守番ですよね。俺の作るじゃがいもスープは絶品ですよ」
「さすがレーツ、楽しみ!」
その屋敷は、決して大きいとは言えないものだった。
庭もこじんまりとしているし、門だってかなりがたが来ている。
それでもレーツが改装しようと口にしないのは、それを叩いた日のことが懐かしいからだ。
三年前。
レーツがクーレンジット家に拾われたのは、大雨の日だった。
「帰ってたら君が倒れてたんだもん。死んでるかと思った」
「洒落になりませんね」
スープとパンを平らげたナルエドは、窓の外に顔を向けた。
「でも出会えてよかったよ。こんな美味しい料理を作れる使用人なんて、伯爵家にもいないからね!」
「あはは、光栄です」
レーツは食器を片付け、ナルエドの隣の椅子に腰かける。小さくきしむ音がしたが、彼にはそれも気にならなかった。
「……救われましたよ」
「雪でも降る?レーツがそんなこと言うとか怖いんだけど」
「ナルエド様は早く寝てください。俺の背丈に負けたままでいいんですか」
顔を背けたレーツは指を鳴らす。
一瞬にして暗闇に包まれた屋敷に、ナルエドの声が響いた。
「分かった分かった!寝るから!」
※
「レーツ……」
燃え盛る炎の中だった。
肌を焼き続ける熱と、耳を焦がす殺意の群れ。
しゃがみこむ彼の前には、女性が倒れ伏していた。
「お母様!」
彼女はレーツに向かって、弱々しく手を伸ばす。その口から言葉が吐き出されることはなく、伸ばされた手も力なく地面に落ちた。
「お母様、置いて行かないで、お母様!」
突如、彼の頭に警鐘が鳴り響いた。
聞いたことがあるようで、覚えがないようなもの。
――お前は、ここにいるべきじゃない。
「また……お前は……!」
――世界が憎いか、レーツ・アルファレード!
「……やめろ!」
汗が背筋を伝い落ちる。跳ね起きたレーツは、浅い呼吸を繰り返した。
……また、あの夢。
屋敷が焼かれた記憶だ。帰ってこなかった父と、彼を追うように炎の中へと飛び込んだ母。
奇妙な声がするようになったのは、最近の話だ。
「……くそ、俺は」
開けた口が発するのは空白だけで、彼はそれが不甲斐なかった。
「……憎い、か」
かろうじて出たその文字も、暗闇の中に溶けていくだけ。
ベッドから出て、レーツは灯りをつける。蒸し暑い屋敷は、何故だかいつもより広く見えた。
「ナルエド様、起こしてしまったかもな……」
――刹那。
下の階からだろうか、彼の耳には叫び声が飛び込んできた。
「ナルエド様!」
咄嗟に、部屋に置かれた剣を左手で掴む。それを意識することもなく、階段を駆け下りる。
「……っ、どこだ!」
ナルエドの部屋にも、彼の姿は見当たらない。
音が聞こえた。隣の広間からだった。
「誰だ!」
勢いよく開けた部屋にいたのは、影――いや、真っ黒な男たちが十人程度。
彼らの中央に、誰かが倒れていた。
「――っお前ら!」
全身の血液が冷えるような、でも体は熱いような心地がする。
血だまりとともに倒れているのは、レーツの主人だった。
「殺して、やる」
その言葉にも、黒い男たちは微動だにしない。
――どうして、こうも奪われてしまうのだろうか。
彼らを順番に殴り倒しているのに、頭の半分だけはどこか冷えていた。
どうして、幸せが続かないのか。幸せであるべきひとが、帰ってこないのか。
鈍い音が響く。
黒い影たちが繰り出す連撃を避けながら、一つずつ拳を喰らわせていく。
「……くそ」
暗くてレーツには判別がつかないが、彼らが使っているのは何らかの刃物だ。
彼の体は、だんだんと傷ついていく。血が吹き出し、足が震える。
レーツ・アルファレードは剣に手を伸ばした。
――これしかない。
彼ら敗北者がそれを抜いたらどうなるのか。そんなもの、知っている人はいなかった。
死ぬのか、それとも殺されるのか。
「俺はもう、どうなってもいい」
ナルエドの動かない体が、あの日屋敷に放たれた火が。
――世界が憎いか。レーツ・アルファレード。
「ああ、憎いね」
使ったのは三年前が最後だったのに、その剣はやはり彼の手に馴染んだ。
彼はゆっくりとそれを引き抜く。
剣が鞘から完全に姿を現した瞬間、体がずんと重くなった。
それは真っ黒な靄になって、レーツの視界を包み込む。心臓が小刻みに震え、腕が締め付けられる。
「地獄行き、上等」
彼は剣を一度振るった。




