終章 #1『光を背負い』
翌朝、早くに目覚めたとき、リオの姿はもう消えていた。
ベッドに残る微かな温もりと、油と石鹸の淡い香りだけが、昨夜の出来事を物語っている。
ぼんやりと天井を見上げたまま、クラトは長い息を吐き出した。
(……ったく、何やってんだ、俺は)
結局、二人に翻弄されてほとんど眠れぬまま、装備を整えて王城の長い廊下を歩いていた。
早朝の城内はまだ静まり返っている。
廊下ですれ違う侍女たちも、小声で挨拶するばかりだ。
鉄製の扉を開くたび、金属が軋む音がやけに耳についた。
頭の奥には、昨夜のアリアの切なげな微笑みと、胸元に触れた確かな熱が鮮烈に残っている。
同時に、胸の上で小さく丸まっていたリオの真剣な瞳もまた、はっきりと思い出せた。
ふたつの熱を胸に宿したまま、ひとり階段を下りる。
城門を抜けると、まだ仄暗い朝の冷たい空気が一気に頬を打った。
深呼吸をひとつしても、どこか息苦しさは消えない。
それでも、足を止めるわけにはいかない。
やがて目の前に広がったのは、空挺部隊専用の巨大デッキ。
いくつもの飛行艇が並び、エンジンが低い轟音を上げて空気を震わせている。
空中都市の街並みにはうっすらと白い霧が漂っていた。
「おーい、クラト!」
甲高い声が響き、クラトは顔を上げた。
リオが防具の調整器具と、小型の携帯端末を抱えて小走りに駆け寄ってきた。
「親石の周波数を逆探知するレーダー、最終チェック終わったよ! ライルが通信をジャミングしてきても、これなら絶対に罠の座標を割り出せる。……あんたが変なところで死んだら、あたしの最高の整備が形無しになるんだからね!」
「……死ぬ前提で話すなよ」
呆れたように言いかけたが、ふと昨夜の「密着」の記憶が脳裏をよぎる。
はだけた胸元や、腰に回った太ももの重み。
無意識に顔を真っ赤にして視線を逸らすと、リオがジト目を向け、ずいっと顔を近づけてくる。
「なに〜?……妙に後ろめたいことでもあんの? 目が泳いでるけど」
「ね、ねえよ!」
即答するが、その声が思いきり裏返った。
リオはその反応を見て、不敵ににやりと笑う。
そこへ軍服姿の将校たちが続々と集まり始めた。
その一人が深く頷く。
「クラト・ガルダ殿。全員、揃いました。準備完了です」
「……わかった」
息を大きく吸い込み、新型ハンマーの柄を握る。
「クラト」
鋭くも凛とした声が背後から飛んだ。
振り向いた目の前に、アリアの姿があった。
東の空から登りはじめた太陽が、彼女の背後で広がっている。
穏やかで美しい光が、金の飾緒と白い外套を包み込んでいた。
まるで、ルミゼルディアの光そのものを背負って立っているかのような姿だ。
「アリア……」
アリアの斜め後ろには、無表情のまま控える侍女、セリカの姿もあった。
彼女は周囲の軍人たちを油断なく牽制するように、静かに視線を配っている。
アリアは一歩、軍人たちの視線も構わずにクラトへ近づき、声を潜めた。
「ライルの動向には気をつけて。……無事じゃなくてもいい。必ず生きて戻りなさい」
その低く柔らかい声が、絶対の呪文のように胸に刻まれる。
クラトは息を呑み、口角を上げた。
「……あぁ。奴の罠ごと、全部ブッ叩いてやる」
アリアは小さく満足そうに頷く。
そして、周囲の兵士たちが作業に集中し始めた一瞬の隙をついて、すっと顔を近づけた。
東の空からの強い朝日の反射が、鋭く煌めいたその瞬間、アリアの柔らかな唇が、クラトの頬にそっと触れた。
「なっ……!?」
頭が真っ白になった。
金属の匂いを帯びた風が止まった気がした。
頬が火を吹いたように熱くなり、心臓が激しく跳ねる。
アリアはそっと一歩だけ下がって、勝利を確信したようないたずらっぽさで、妖艶に微笑んだ。
「これで帰ってこないなんて、許さないんだからね、私の騎士様」
彼女はくるりと背を向ける。風を受けて翻る白い外套が、朝日に映えてやけに眩しい。
「……ちょっと、今の、なに?」
横から、リオの声が届く。
いつもより少しだけ低かった。
逆光なんかじゃない。
朝日を真正面から浴びて、二人の輪郭ははっきり見えていた。
アリアの唇が触れた瞬間まで、リオはちゃんと見ていたのだ。
「い、いいから乗るぞ!!」
クラトは顔から火を出しながら、半ば逃げるように飛行艇の搭乗口へ向かった。
鋼鉄のハッチがギギギと音を立てて閉まり、内部からは燃料と金属の混じった匂いが立ち上がる。
前方の通信盤から管制の声が響いた。
『全員搭乗確認。離陸シーケンスに入る。降下開始は高度一万二千から』
やがて、飛行艇の腹がゆっくりと開き、鋼鉄のスロープがせり出していく。
外から猛烈に吹き込んでくる風は、光あふれる空の世界とは真逆の、地上から巻き上がる砂と冷たい湿気を運んできた。
空挺部隊の兵たちが一人また一人と、決意を胸に飛び降りていく。
クラトとリオはスロープの端に立ち、眼下に広がる灰色の大地を見下ろした。
雲の切れ間から光の筋が差し込み、ひび割れた地表と崩れた廃墟――
かつてリオの父が消えた、死と瓦礫の迷路をぼんやりと照らし出している。
「あれー。英雄さん、もしかして緊張して足すくんでる?」
リオがわざと明るい声を出して肩を小突き、そっと拳でクラトの胸元を軽く叩いてきた。
「う、うるさいっ。……まぁ、三ヶ月ぶりだしな。地上の空気を吸うと、流石にな」
声の奥に滲む照れを隠すように、クラトは腰の新型ハンマー『ホープハンマー』を握り直す。
リオはそれを見て、慈しむような、けれど最高に力強い笑みを浮かべた。
先ほどの嫉妬を微塵も感じさせない、相棒としての顔でヘルメットの顎紐をきゅっと締める。
「知ってるってば。行くんでしょ。そういう人でしょ、あたしのクラトは。どんな罠が待ってようが、全部ぶっ壊して一緒に帰るって約束したもんね。――さあ、行こ! 約束通り、あんたの背中はあたしが絶対に守ってあげるから!」
『クラト・ガルダ、リオ・カナリス。降下準備。残り五秒――』
足元の信号灯が青に変る。
ふたりは一瞬だけ、全てを通じ合わせた視線を交わし、同時に灰色の空へと飛び出した。
――その背を、アリアは王城のテラスから、祈るように見つめていた。
風にそよぐ金の髪の向こうで、朝日がゆっくりと高く昇っていく。
誰にも見せないその横顔には、ただ一つの願いだけが宿っていた。
「……ちゃんと、私のところに帰ってきてね」
その切実な声が風に消えた直後、背後に音もなく現れたセリカが、淡々と報告を告げた。
「アリア様。ライルが予定通り、降下部隊の通信網に細工を始めたようです。孤立させる気でしょう」
「……そう」
アリアの茜色の瞳から、祈るような儚さが消え、次期統治者としての鋭い光が宿る。
「なら、私がただ祈るだけの『お飾り』でいるのはここまでね。セリカ、小型艇の準備を」
「御意に」
地獄へ向かった猟犬たちを追うため、ルミゼルディアの姫は自らの意志で、鳥籠の扉を開け放った。




