第二章 #9『守りたいもの』
クラトは執務室を抜け出して、やっとの思いで自分の部屋にたどり着く。
扉をそっと開けると、当然のように、リオがベッドに座り込んでいた。
「おかえりー。遅かったじゃん。どこ行ってたの?」
リオが眉をひそめ、じとりとした目を向けてくる。
「べ、別に。ちょっと用事してただけだ」
「ふーん」
リオは立ち上がり、ずいっと顔を近づける。そして、くんくんと鼻を鳴らす。
「お、おい! なんだよ!」
クラトは思わず後ずさる。
「……なんか、いつもと違う匂いする」
リオは目を細め、さらに顔を近づける。
「なんもしてねぇっての!」
「へぇ……本当に……?」
リオはゆっくりと、一語ずつ区切るように言った。
「な に も な か っ た の ?」
クラトは顔を真っ赤にし、振り返りざまに言い返した。
「当たり前だろ!!」
リオは一歩踏み込んで、胸を指で軽く突いた。
「本当さー、姫様のとこにいたんでしょ? ふたりっきりで」
リオはぷいっと顔を背けた。
その圧に気圧され、ふいっと目を逸らす。
そして、小さく呟いた。
「……別に俺たち、恋人でもねぇだろ」
その一言に、リオの肩がぴくりと揺れる。
「……そうだね。そうだけど……」
互いの視線がぶつかる。どちらもすぐに目を逸らした。
「姫様とふたりきりで何してたのか、ちゃんと言って」
「な、何もしてねぇって! 本当に!!」
「じゃあ、匂い嗅がせて?」
「絶対いやだ!!」
リオがぐいぐい迫るたび、必死で抵抗し、後ずさる。
それでも、あっという間にベッドの縁まで追い詰められた。
「逃げんなっ」
「わ、わかったって、やめ――おい、ちょ、痛いって!」
リオが腕を引っ張り、軽く胸ぐらを掴むようにして揉み合いになる。
抵抗しようとした拍子に、ふたりのバランスが崩れた。
「うわっ――!」
ドサッという鈍い音と共に、ベッドに背中から倒れ込んだ。
勢いのまま、リオの身体がぴたりと重なる。
互いの鼻先が触れそうなほどの距離。
リオの体温と心臓の鼓動が、布越しに伝わってくる。
「……おま、なに乗っかってんだよ」
真っ赤になって顔を背けると、リオもまた顔をカッと染めた。
「の、乗っかったんじゃなくて……転んだだけ! 不可抗力!」
「……いや、お前、どけよ……」
声が小さく震える。
「……や、やだ。今、動いたら余計変な感じになるし……っ」
「今がいちばん変な感じだろ!」
「うるさいなもう! じゃあ動かなきゃいいでしょ!」
熱を帯びた沈黙が落ちる。
リオの大きな瞳が、まっすぐにクラトを見下ろしていた。
はだけた胸元、押し当てられる太ももの重み。鎖骨に触れる小さな指の熱が、肌に染みる。
動くこともできず、ただ必死に――気づかれないことだけを祈っていた。
「……な、なぁ……リオ?」
「はいはい、言い訳してももう遅いからね。色々と」
リオはにやりと笑う。
「意味わかんねぇって!」
わたわたと顔を赤らめて、もがく。
その拍子に、リオの太ももが腰を締めつけ、下半身がビクッと震えた。
「ふふ……なーに、今の反応」
「ち、違うっつーの!!」
リオはようやく少しだけ腰を浮かせ、いたずらっぽく微笑んだ。
「今の顔、ばっちり覚えとくから」
「……早くどけっての……」
心臓が痛いほどにうるさい。
リオは、どくどころか、どさりと再び胸に体を預けた。
そのまま頬を胸に擦りつけるようにして、ふわっと息を吐く。
「他の子にばっか優しくしないでよ」
「……してねぇって」
「してた」
「……してたかもしんねぇ」
その瞬間、リオの頬がむくれてふくれ上がる。
「やっぱりしたんじゃん」
「いや、今のは言葉のあやっていうか――」
「嘘つき……もういい。ここで寝る……」
「はあ!? ちょ、おい、リオ!?」
リオは胸の上で、目を半分閉じたままぐずぐずと呟いた。
「クラト、あったかい……」
「だから、どけってば!」
「やだ。ここがいいの……」
リオは、腕をしっかりと抱え込んだまま離さない。
やわらかな髪が顎をくすぐり、息がほんのり甘い。
「お、おま……バカか……」
「……ねぇ、クラト」
「なんだよ……」
「ほんとはさ。あたしのこと、ちょっとは女の子って思ってんでしょ……?」
「――は?」
真っ赤になり、言葉を詰まらせる。
リオの油と微かな石鹸の匂いが、彼女の確かな体温と共に伝わり、アリアとは違う「安心できる日常」の匂いとして鼻をくすぐる。
「……やっぱり。顔、赤いもん……」
「っ、ちげーし!」
そのままリオの体から力が抜けていく。
小さな寝息が耳元に届いた。
「……なんで寝れんだよ……」
胸の上で器用に丸まってたリオ。
先ほどのアリアとの時間、そして今腕の中にあるリオの温もり。
どちらの重みも、明日という過酷な運命を前にした自分には、かけがえのないものだ。
「……どーすんだよ、これ……」
離れて眠ろうとする気持ちを、腕の中のかけがえのない重みが、そっと引き止めていた。
外では、遠くで風が唸っている。
明日の降下作戦。地上の化け物たち。裏切りの影。
いくつもの不安が渦巻いているはずなのに、今はただ、二人のぬくもりだけが世界の全てだった。
――これが“嫌じゃない”ってことは、自分でも気づいていた。
ぬくもりに引き止められたまま、浅い眠りの中で夜は過ぎていった。
三人の運命が大きく動く、その朝を迎えるために。




