第二章 #4『ただのアリア』
王城内の応接間。
磨き上げられた木の壁には、控えめながらも気品漂う装飾が連なっていた。
白いカーテン越しの陽光が、柔らかく室内を照らしている。
クラトは深いため息をつき、ギプスが外れたばかりの右腕をそっと撫でる。
ソファに体重を預けただけで、鈍い痛みが走った。
「……王城の作戦会議室よりは、だいぶマシだな」
ぼそりと呟くと、アリアが口を開いた。
「正式な会議になると、記録も残るし、人目も多いから。今日の話は、もう少し個人的なお願いに近いの」
隣でリオがソファに腰かけたまま、落ち着きなく脚を揺らしていた。
「で、その“お願い”ってやつは?」
アリアはゆっくりと頷いた。
「……降下作戦の件よ。今の評議会が編成する部隊を、私は心から信用することができない。あの神格種を意図的に呼び寄せた人間が城の内部にいるなら、報告書すら改ざんされかねないもの」
アリアはソファの背に指先を添え、少し視線を落とした。
「だから私は、“確かめた人”の言葉がほしい。誰かの意図が混ざった書類じゃない、本当の景色を。……私が唯一信じられる目を、持って帰ってきてほしいの」
その痛切な声に、クラトは短く息を呑んだ。ただの調査ではない、アリアの目となり耳となるための、極秘の特命。
「リオも一緒にか?」
右腕を撫でていた左手に力が入る。
すると、リオが服の袖をそっと引いた。
「……行くよ、あたしも」
リオの瞳には、一切の迷いがなかった。
クラトはゆっくりと息を吐き、ソファの背に体を預ける。
ほんの一瞬だけ、隣で真っ直ぐ前を見据えるリオに目をやり――すぐに逸らす。
次にアリアと目が合いそうになり、また逸らした。
それは作戦でも、正義でもない。
あの日、泣かせたくなかった顔。
後味の悪い別れ方は、もう御免だ。
「……守りたい奴らが、いるからな」
ぽつりと漏れたその言葉に、アリアは少し目を見開いて、それからふわりと笑った。
自分の背負う重みを、彼らが一緒に背負ってくれたのだと分かったから。
「ありがとう、クラト」
アリアはリオへと視線を移す。
「リオも、頼りにしてるわ。特にクラトが無茶しないように、しっかり監督お願いね」
アリアは軽くウィンクして見せる。
「それが一番、無理難題かも……」
リオは呆れたように言いながらも、頼られたことが嬉しそうに小さく笑った。
クラトは頬を引きつらせながら、照れ隠しのように顔を覆った。
*
夜、王城の私室。
ふかふかの絨毯の上で、細工ランプの灯りが柔らかく揺れていた。
広すぎるベッドの端に腰掛け、クラトは右腕をさすりながらため息を吐いた。
「……疲れた。今日は脳みそが限界だ」
そこへ、湯上がりのリオが部屋に入ってきた。
軽装の部屋着をまとい、髪先が水滴を含んで光っている。
「はいはい、弱音禁止。ほら、端っこ寄ってよ」
「おい、近ぇって」
ギプスが外れてからも毎日、リオは当然のようにクラトの布団をめくり、自分のスペースを確保していた。
「この部屋、広すぎるんだもん」
「だからって距離感ってもんが――」
そんなやり取りの最中――扉がそっと開いた。
月光を浴びるように金の髪が輝き、アリアが現れる。
絹のナイトガウンがさらりと揺れ、ほのかに甘い香りが漂っていた。
「本当に仲が良いのね」
クラトは慌て身を起こし、右腕をかばう。
「無理しないで。治ったとはいえ、本調子じゃないんでしょう?」
「……まあな」
「なら、今日はもう休みなさい。私もここで一緒に寝るから」
「はああっ!?」「えっ!?」
ふたりは顔を見合わせた。
「姫様、なんで……」
「昼間はね、考えることが多すぎて……強がっていられるの」
アリアはそう言うと、少しだけ声のトーンを落とし、自身の華奢な両腕を抱きしめた。
「夜になると、ふと足元がすくわれそうになる日があるのよ。今日の評議会の冷たい顔や、迫り来るタイムリミットが頭から離れなくて……そんな日は、誰かがそばにいてほしいと思ってしまう。ふたりがそばにいると、自分が王女じゃなく一人のアリアだって、思えるから」
「姫様……」
「だから、お願い。リオの隣で寝させて」
アリアはそっと、リオの左側に腰を下ろした。
リオはシーツをぎゅっと握ったが、すぐに「しょうがないなぁ」と小さく笑って、自分の横の布団をポンポンと叩いた。
「おいおい、マジかよ……」
クラトは左手で額を覆った。
「まぁ、姫様が一緒に寝たいって言うなら、仕方ないでしょ」
リオは親指を立てる。
アリアはいたずらっぽく笑って、クラトを見た。
「大丈夫よ。ちゃんとリオが間にいるから」
「そーいう問題じゃねぇだろ……!」
言い終わり、額から手を離した時にはもう、アリアはシーツに潜り込んでいた。
そっと寄り添い、リオの肩に額を預ける。
リオは一瞬固まったが、やがて目を細めて、妹を寝かしつけるように力を抜いた。
アリアは安心したように、深く甘い息をつく。
クラトは呆れたようにため息をつきながらも、これ以上は何も言わず、ベッドの端に身を沈めた。
次期統治者と整備士、そして叩き屋という奇妙な組み合わせのまま――
月が空を満たし、窓際のミモザが夜風にそっと揺れていた。
*
朝。
窓から差し込む柔らかな光に、クラトはゆっくりと目を開けた。
最初に視界に入ったのは、長いまつ毛と、透き通るような白い首筋――。
「……は?」
すぐ目の前で、アリアがじっとクラトを見つめながら横たわっていた。
黄金の髪が枕元にふわりと広がり、ほのかに甘い香りが漂っている。
その背中越し、少し離れたところでリオの髪がちらりと見えていた。
(おい、昨日はアリアがリオの向こう側にいたはずだろ!? なんで俺とリオの間に潜り込んでんだよ!?)
状況を理解し、顔が固まる。
そんなクラトを見て、アリアはふさのまつ毛を揺らして微笑み、さらりと言い放った。
「寝顔、案外可愛いのね」
慌てて身を起こしかけ――
アリアの襟元がわずかにずれて、柔らかな曲線がちらりと覗いた。
寝起きの無防備な姿に、悪気のない無自覚な色気が滲んでいる。
(っ……!)
クラトは慌てて目を逸らし、毛布をガバッと首元まで引き寄せた。
「お、お前、ずっと見てたのか!?」
アリアはくすりと笑い、声を潜めて囁いた。
「護衛の寝顔を眺めるのも、姫の特権よ」
クラトは顔が熱くなり、俯く。
「……お、俺はまだ、騎士じゃねぇしっ」
アリアは目を細めて、いたずらっぽく笑う。
「そう……“まだ”よね?」
クラトは息を吐きながら視線を泳がせる。
そして、たまらずポツリとこぼした。
「……お前、本当に俺なんかでいいのかよ……。口は悪いし、ガサツだし」
アリアは少し黙ったあと、ふっと柔らかく笑った。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「うん。あなたと話しているとね、肩書きも立場も全部忘れて、ただのアリアでいられるの。だって、クラトって変にかしこまったりしないでしょう? ……そばに置くなら、あなたがいい」
その声は少しだけ震え、ひどく真摯な響きを帯びていた。
クラトは、ついその茜色の瞳を見つめ返してしまった。
言葉が浮かばず、甘い沈黙が流れた。
そのとき、ごろん、と背後で寝返りを打ったリオが、眠たげな声で寝言を呟いた。
「……ん……クラト……どこいくの……おいてかないでぇ……」
その無防備な声に、クラトはハッと我に返り、息を呑む。
「……置いてくわけねぇだろ」
小さく返すと、リオは夢の中で安心したのか、眠そうにふにゃりと笑った。
「じゃあ、いいや……」
リオはそのままアリアの背中に額を押しつけるようにして、再び深い眠りについた。
その寝ぼけた甘えに、アリアはふっと微笑み、目を細めてふたりを見ていた。
「本当に仲が良いわね」
「仲良くねぇっての」
毛布の端をぐいと自分の側に引き寄せる。
照れ隠しのつもりが、動きがぎこちなくて逆に目立つ。
窓から差し込む朝の光が、三人をそっと撫でる。
重圧から解放された柔らかな光の中で、それぞれの心が少しずつほどけていった。




