艦艇襲撃機
13話
1941年12月31日
年が変わろうかというこの日に海軍が三菱にこれまでにない航空機の開発を命令した。
その名も「十六試艦艇襲撃機」
名前を聞いてもこの航空機がどんなものなのか想像がつかないだろう。
「襲撃機?攻撃機とは違うのか?」
最初、三菱の技術員も名前を聞いたとき首を傾げた。
襲撃機という機種は確かに存在する。
陸軍が採用している物だが、戦場(地上)の歩兵を銃爆撃を用いて支援するための機体だ。
海軍は別に歩兵を支援するための機など必要としないだろう。
しかも、ただの襲撃機ではなく名前の頭に「艦艇」と書き加えられている。
増々意味が解らない。
疑問はともかく海軍からこの機体の基本コンセプトが説明され、初めて三菱の技術員は理解することができた。
機体の目的は要約すると以下の通りであった。
本機は対潜、対小型艦艇用の哨戒機である。
本機は駆逐艦以下の艦艇規模を持つ敵艦と対空兵装のない輸送船を銃撃と小型爆弾を使用し撃退ないし撃破するためのものである。
上記の理由から敵艦の撃沈を目的とするための機ではなく、あくまで敵艦艇の乗組員を殺傷または艦上設備を破壊することが主目的である。
大型爆弾及び魚雷の搭載能力は必要としないが、その分長時間空中に滞空し哨戒活動ができるよう、長い航続距離を必要とする。
輸送船団の対空護衛のため、ある程度の対空能力も要求する。
なるほど、輸送船団や離島の輸送航路を守るための大型の哨戒機の事である。
銃爆撃で敵小型艦艇を攻撃するための機体だから、陸軍の襲撃機と同じ名前にしたのだろう。
この場合戦場は海で歩兵は輸送船の事だったのだ。
そもそも何故こんな機体が要求されたのか?
それは、12月に行われた日本海軍の作戦反省から来るものだった。
まず、その反省点を挙げると、航空機に対する防空能力の低い艦(駆逐艦、輸送船)の被害と、船団護衛能力の不足であった。
まず、前者の反省点はウェーク島とマレー沖海戦の戦訓から来るものである。
ウェーク島は小さな島だが、アメリカにとってはマニラ~グアム~ハワイ~本土を結ぶ海上基地の要所であり、日本にとっても同地を占領することは本州~硫黄島~クエゼリンを結ぶ点において重要な意味を持つ。
この島の攻略は12月8日から始まり、千歳航空隊がまず偵察、爆撃を行った。
数日にわたり行った爆撃に米軍基地は文字通り壊滅。
だが、いざ攻略部隊を乗せた輸送船団と護衛の第二水雷戦隊がウェーク島に近づくと千歳空の射ち漏らしたF-4F戦闘機4機と陸上砲撃部隊が激しい抵抗を開始した。
最初に陸上砲台によって駆逐艦「疾風」が撃沈。
それを受け、日本海軍は撤退する。
しかし、たった4機のF-4Fの追撃によって駆逐艦「如月」が撃破されてしまったのだ。
日本海軍が驚いたのは如月の沈没が大型爆弾や魚雷によって引き起こされたものでなく、12、7mm弾による銃撃と小型爆弾により艦橋が破壊されたためによるものだったという事だ。
装甲の薄い駆逐艦は12,7mm弾に対してすら無力だったのである。
この生き残った敵戦闘機の抵抗は激しかった。
翌日から爆撃を再開した千歳空の九六式陸功は数機の陸攻を撃墜されてしまい、少なくない被害を受ける結果となる。
結局、同地を攻略する為に真珠湾から帰投中の二航戦「飛龍」「蒼龍」の到着を待たなければならず、完全に占領が完了したのは23日であった。
また、開戦初動に行われた陸軍のマレー作戦でも、英領マレーのコタバルに強襲上陸しようとした陸軍輸送船団三隻が英軍の航空機の銃爆撃により火災が発生。
重大な被害を受けてしまう。
輸送船「淡路山丸」に関しては沈没してしまった。
この時も敵航空機は大型爆弾や魚雷は使用していなかった。
以上の戦闘結果から、「装甲が薄く対空兵装の少ない艦はたとえそれが大型船であっても航空機の前には無力」という結論が下された。
だが、逆に言えば「敵の小型艦艇には銃撃が有効である。」という捉え方もできる。
現にマレー沖海戦では偶然の事であったが一式陸攻が駆逐艦ヴァンパイアを撃破している。
駆逐艦ヴァンパイは魚雷管に一式陸攻の20mm機銃の斉射を受け爆発炎上。
総員退艦後、英艦隊によって砲撃処分されていた。
もう一つの理由である船団の護衛能力不足についてはこうである。
マレー作戦に従事していた陸軍の輸送船数隻が英潜水艦に撃沈されるという事件が発生した。
その結果、陸軍側が海軍により強力な対潜護衛を要求したのである。
いくら仲の悪い陸海軍であるが現在は戦争中で、海軍には輸送船団を完璧に護衛しきれなかった負い目もある。
海軍は陸軍の要求にこたえることにしたのであった。
そして、海軍は前述の「小型艦艇に銃撃が有効である。」という考えから、(潜水艦に対しても効果があるのでは?)という考えに至る。
試しに、廃棄予定の潜水艦を使って実験を行った結果、それなりに有効そうだった。
また日本海軍はこの時航空機から投下できる爆雷を持っていなかったが、6番爆弾の信管を上手く調整すれば、潜望鏡深度の潜水艦なら撃破はできないが、撃退はできそうだと判明する。
こうしたことから、海軍は三菱に十六試艦艇襲撃機の開発を要求したのであった。
これを受け三菱は現在ゼロ戦と一式陸攻で生産設備が一杯になっているので工場にこれ以上負担を掛けないようにと、一式陸攻をベースに開発することを決定した。
幸い、一式を機銃マシマシにする計画は防空援護機計画で経験済みであった。
防空援護機は空中を三次元的に移動する航空機への対空性能が芳しくなかったが、海上をゆっくりと動く船に対しては問題がないように思えた。
ある程度の対空戦闘を要求すると書かれているが、「ある程度」という日本海軍特有の曖昧な表現なので、とりあえず機銃を増やしておけば納得するだろう。
こうして、防空援護機を下敷きにしたことで素早く開発が進み、1942年の4月に試作機が開発された。
その試作機は、上部の20mmと胴体左右側面の7,7mmをそれぞれ連装にし、機首には艦艇防空用の25mm機銃を改造したものを搭載した。
また、爆弾層を小型の物に変更し、燃料タンクを増量する。
大幅な航続距離の増加に繋がった。
結果としてこの機体は20mm機銃3挺、25mm1挺、7,7mm5挺、6番爆弾三発搭載可能という石油オオメ機銃マシマシ爆弾スクナメ機体として誕生した。
こうして、十六試艦艇襲撃機は海軍に二式艦艇襲撃機として1942年5月に正式採用され艦艇襲撃機哨戒航空隊も編成された。
後に陸軍も地上支援用として海軍から少数融通してもらうことになる。
しかし、この機が正式採用された時、まだ誰も本機がPTボートや43年から活発になる米潜水艦相手に活躍するとは夢にも思っていなかった。