第一章 警報
本作はフィクションであり、災害対応、海難救助、そして救急医療の最前線で尽力されるすべての方々へ敬意を捧げるものです。すべての救助活動が、一人でも多くの人を無事に家へと帰せるよう、心より願っております。
第一章 警報
午前五時四十分。
中京港は、まだ夜明け前の静けさに包まれていた。
海から吹く風は冷たい。
埠頭に並ぶコンテナクレーンは霧の向こうにぼんやりと浮かび、停泊中の貨物船だけが低く汽笛を鳴らしている。
その港を見下ろすように、NRS海上救難部・中京基地は建っていた。
基地の一角。
第一分隊訓練棟。
ロープが張られる音だけが、静かな朝に響く。
朝田大輔は訓練塔の上から最後の降下を終え、地面へ降り立った。
着地と同時にロープを緩め、カラビナを外す。
その動作に無駄はない。
「四分三十八秒。」
教官がストップウォッチを止めた。
「昨日より三秒早い。」
「……はい。」
朝田は短く返事をしただけだった。
喜ぶ様子もない。
達成感を見せることもない。
彼はロープを丁寧に巻き直し、一本ずつ目を近づけて摩耗を確認し始める。
今日三回目の点検だった。
「またやってる。」
若い隊員が苦笑する。
「あの人、毎日ああなんですか?」
「毎日だよ。」
先輩隊員は肩をすくめた。
「俺たちが来る頃には、もう訓練してる。」
「帰る頃も、たいてい残ってる。」
「趣味が訓練なんじゃないか?」
小さな笑いが起こる。
朝田は振り向かなかった。
聞こえていないわけではない。
それでも何も言わず、安全帯をきれいに並べ直していく。
装備は、命を預ける相棒だ。
乱雑に扱う理由など、一つもなかった。
◇
午前八時。
第一分隊の朝礼。
分隊長・佐倉修一がホワイトボードの前に立つ。
「本日の港内風速、六から七メートル。」
「午後より前線接近。」
「大型貨物船の入港予定、多数。」
「各艇、第一警戒待機。」
「了解。」
返事は短い。
救難士に長い言葉はいらない。
必要なのは、いつ警報が鳴っても動ける準備だけだった。
◇
夜。
中京港は眠らない。
大型コンテナ船がゆっくりと港を離れ、新しい貨物船が次々と入港してくる。
基地食堂では、束の間の休息が流れていた。
「昨日の試合、見たか?」
「いや、夜勤だった。」
「新しい潜水ライト、結構いいらしいぞ。」
そんな会話が聞こえる中、朝田だけは窓際の席で一冊のファイルを開いていた。
船舶構造図。
客船、貨物船、タンカー。
艦内区画の配置を静かに目で追っている。
「勉強熱心だな。」
同じ分隊の隊員が笑う。
「疲れないのか?」
朝田は顔を上げた。
「まだ覚えることがありますから。」
それだけ言って、また図面へ視線を戻した。
その瞬間だった。
――ビーッ!
基地中に非常警報が鳴り響く。
食堂の空気が、一瞬で張り詰めた。
全員が立ち上がる。
館内放送が続く。
『緊急出動。』
『中京港沖三十五海里。』
『大型客貨船よりメーデー受信。』
『機関室火災の可能性あり。』
『第一分隊、直ちに出動せよ。』
椅子が音を立てる。
食器がそのまま残される。
誰一人、余計な言葉を口にしない。
朝田はヘルメットを手に取った。
その瞳だけが、静かに変わる。
まるで、何かを思い出したように。
サイレンが夜空へ響き続ける。
第一分隊の救難車両は、赤色灯を点滅させながら基地を飛び出した。
この夜が、中京基地史上最大級の海難の始まりになることを――
まだ、誰も知らなかった。




