90話 辺境に訪れた「静かなる枯渇」
しばらく穏やかな時間が流れていたローゼンベルク領に、その異変を知らせに来たのは、一匹の小さな光の妖精だった。
アリアの指先にようやく辿り着いたその妖精は、いつもなら周囲に振りまくはずの輝きを完全に失い、透き通った羽はボロボロに欠けていた。
アリアが驚いてその小さな体を包み込むと、妖精は消え入りそうな声で
「谷が……消えてしまう」
とだけ告げ、アリアの掌の中でパラパラと一握りの無機質な灰色の砂になって崩れ去った。
妖精が死して後に残るはずのない、生命の温もりを一切失った乾いた砂。それを見たアリアは、ただならぬ予感に胸を突き動かされ、カイルと共に最北端の嘆きの谷へと急行した。
そこはかつて、カイルの父ユリウス前辺境伯が、領地を侵さんとする古代の魔物から人々を守るため、独り立ち向かい、その命のすべてを賭して戦った場所であった。ユリウスは魔物を討ち果たしたその時、王家の呪いを増幅させる致命的な負荷をその身に受けてしまう。
だが、彼は最期まで己を失うことなく、自らの命を楔として呪いを封じ込めることで、愛する息子へと家督と平和を繋いだのだ。ここは、ユリウスが遺した深い愛と覚悟が、今も大地の底で息づいているはずの聖域であった。
だが、父が守り抜いたはずのその場所は今、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
「……鳥の声だけじゃない。妖精や精霊たちの気配が、この場所から完全に消えているわ」
アリアは谷の入り口に立ち、思わず息を呑んだ。
視界に広がるのは、聖女の光とは対極にある、生命の痕跡を根こそぎ削ぎ落とされた惨憺たる光景だった。
かつての魔物の瘴気も、父が封じた呪いの気配さえも、今は感じられない。
だが、代わりにそこを支配していたのは、潤いを失い白茶けた灰土と、不毛な灰色の層だった。生命の鼓動が音もなく消え去り、大地から色彩と熱が奪い尽くされたような、空虚な枯渇。
カイルは、父が命を楔として守り抜いた大地の変わり果てた姿に、拳を血が滲むほど固く握りしめた。彼は膝をつき、生気を失った大地に深く手を当てた。
「アリア、ここは瘴気に侵されているのではない。……父上が命を賭して打ち込んだ楔と、この地の命の循環が、限界を超えて停止してしまっているんだ」
魔力を流し込み、地の底の声を聴こうとするが、返ってくるのは冷たく空虚な反響だけだった。
「古代の魔物との死闘、そして父上が封じた呪いとの長きにわたる相克……。それに加え、我々が行ってきた破壊と浄化という激しすぎる力の衝突が、この地の核を削り取ってしまったのかもしれない。父上の想いごと守り抜くために、土地が持っていた生命力そのものを、使い果たしてしまったようだ」
それは、毒に侵されるよりも残酷な無への帰還。
アリアの調和の力は、乱れた流れを整えることはできても、生命の源そのものが消失し、器である大地が砂となって崩れていくのを止める術を、今の彼女は持っていなかった。
「あの子(妖精)は、これを知らせるために命を削って……」
アリアは、足元に転がった灰色の若木の残骸を、震える手で拾い上げた。ショックで強張るアリアの身体を、カイルが横から支える。
ユリウスが命を懸けて繋いだ場所が、今、目に見えない浸食によって根底から消えようとしている。辺境の静かなる枯渇は、カイルの父への想いさえも飲み込もうとする、かつてない絶望となって二人の前に立ちはだかっていた。




