88話 秩序の王妃、涙を隠す
王妃リリアの私室は、王城の他の部屋とは一線を画していた。豪華ながらも過剰な装飾は削ぎ落とされ、空間全体が彼女の放つ秩序の器の波動によって、わずかに銀色に凍てついているかのようだった。
その夜、リリアは辺境伯領から秘密裏に届けられた一通の手紙を読み終えた。精霊王の加護によって浮かび上がったのは、祖母マリアからの、祈りにも似た愛と威厳に満ちた言葉だった。
「秩序というものは、愛から生まれ、愛を目的としなければならないのです……」
リリアは読み進めるほど、指先の震えを止められなかった。王妃として即位して以来、彼女の心は王国の法という氷の鎧に覆われ、感情を殺し続けてきた。
愛する姉アリアの調和が完成したこと。
兄ゼノが今も背負う苦悩。
そして何より、貴女自身の心を大切にしてほしいという、祖母の慈しみ。
それらが鎧の亀裂から滑り込み、彼女の閉ざされた心を激しく揺さぶっていた。
不正を許さない絶対的な法則こそが自分の使命であり、その力は孤独と不可分であると信じていた。だが、マリアの手紙は、その孤独こそが、自身の力が冷徹な専制へと堕ちる最大の危険だと警告していたのだ。
リリアはそっと、自身のプラチナブロンドの髪に触れた。その色は月光のように純粋で、どこか無機質だ。シルバーの瞳に映る文字の温かさを、彼女の理性は捉えながらも、心が追いつかずにいた。
(この冷たい光を、どうすればお姉様の温かな調和と結びつけることができるというの……?)
彼女の瞳から、静かに一筋の涙がこぼれ落ちた。リリアはそれを素早く拭う。この涙は、玉座を預かる身である限り、誰にも見せてはならない弱さのはずだった。
その夜遅く、国王アーサーがリリアの私室を訪れた。
リリアは手紙を胸に抱いたまま、振り返った。プラチナブロンドの髪の下、シルバーの瞳に宿る切実な揺らぎを、アーサーは即座に察知した。
「アーサー様。私の秩序は、真に王国を救う光なのでしょうか。それとも、単に恐怖によって人々を律する、冷たい専制に過ぎないのでしょうか」
アーサーは静かに彼女の傍らに歩み寄った。
「リリア。貴女の力が、最初、私の政治的基盤として不可欠だったことは否定しない。当時の王都が求めていたのは、曖昧な慈愛ではなく、揺るぎない公正さだったから」
アーサーはそう認めながらも、ゆっくりと顔を近づけ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「だけど、私は知っている。貴女の秩序が、家族への深い思いや、民への静かな献身から生まれていることを。貴女の力は、法という形をとった最も純粋な愛だ。貴女が辺境の姉君を想うように、貴女の秩序は、愛と信頼を守るための防壁なんだよ」
アーサーは、リリアが愛と秩序の矛盾に苦悩していることを理解し、自らがその基盤となると誓うように言葉を継いだ。
「私の温和な統治は、貴女の容赦のない公正さがなければ、欲深い貴族たちにすぐに食い破られてしまうだろう。そして、貴女の厳格な法は、私の人間としての情愛がなければ、いつか血の通わぬ専制となってしまう。……貴女の秩序が愛として成立するために、私が貴女の心を信じ、その背中を温め続けよう」
アーサーはリリアの髪を優しく撫で、そのまま彼女を包み込むように抱きしめた。銀色に凍てついていた部屋に、確かな体温が灯った瞬間だった。




