81話 侯爵家の残滓と兄ゼノの苦悩
辺境でアリアが聖女として真の調和を完成させた頃、王都のリーゼンバーグ侯爵邸は、沈みゆく泥舟のような重苦しい沈黙に支配されていた。
父エルヴァンと母ロザリアが幽閉された後、崩壊寸前の家門を継いだのは、嫡男ゼノだった。
ゼノはもともと、父の強欲な野心を嫌う、静かで良心的な青年だった。
侯爵家の血筋に相応しい魔力を備えてはいたが、彼はその力を誰かを屈服させるためではなく、守るために使いたいと願う性質だった。
しかし、当主不在となった侯爵家を「落ちた巨像」と見なす旧王党派や他貴族たちは、ハイエナのように群がり、若きゼノに凄まじい政治的圧力をかけてきた。
「リリアを王妃に据え、王家との繋がりを誇示せねば、我が家は数ヶ月と持たない……」
執務室の机で、ゼノは震える手で幾通もの督促状や脅迫に近い書状を握りしめていた。
リリアを王妃に――。それはゼノにとって、断腸の思いだった。
彼は、魔力がないというだけで道具として辺境へ追放されたアリアの悲劇を、誰よりも心を痛めて見ていた人間だ。
今度は、もう一人の妹であるリリアまでも、没落を回避するための政略に利用しようとしている自分――。
(私は結局、父上と同じ道を選ぼうとしているのか……)
彼には父のような冷酷な割り切りもなければ、祖母マリアのような全てを撥ね退ける強固な意志もなかった。
だが、侯爵家という看板を守らねば、仕える使用人や分家の人々、残された一族が路頭に迷う。その逃れられない責任感が、ゼノを雁字搦めにしていた。
リリアが王妃になること。
それこそが、瓦解しかけた侯爵家を繋ぎ止める、唯一の残酷な手段だった。
そうして彼が独りで葛藤し、良心との間で立ち止まっている間に、事態は非情にも進んだ。アーサー次期国王とリリアの婚姻が正式に決定したのである。
「私は……また、妹を救えなかった」
ゼノにとって、それは救えなかったという決定的な敗北だった。
彼が知る妹リリアは、親の言いなりになり、侯爵家のために政略結婚も辞さないという覚悟で生きてきた令嬢だ。
だからこそ、ゼノはそんな妹を「もう道具にさせたくない」と願いながら、結局は家門を守るという役割に負け、その婚姻を黙認するしかなかったのだ。
同じ頃、王宮のバルコニーから遠く侯爵邸を眺めていたリリアは、目覚めたばかりの秩序の器の力で、兄の魂が放つ魔力の乱れを微かに察知していた。
(お兄様……。貴方は、家門を守るという大義名分の影に隠れて、結局はお父様と同じ道をなぞろうとした。その優柔不断な『弱さ』が、どれほど残酷な結果を招くかを知りながら……)
今のリリアにとって、兄の振る舞いは、一族を想う情愛ゆえであると同時に、許しがたい裏切りでもあった。
けれど、同時に理解もしていた。彼もまた、歪なリーゼンバーグの伝統と重圧にその身体と魂を蝕まれた、哀れな被害者の一人であることを。
侯爵家の残滓に囚われ、泥濘の中で足掻き続けるゼノの姿は、王国の再生を願うリリアにとって、あまりにも虚しく、悲しい光景であった。




