115話 帰還:静寂のなかで
白銀の雪に覆われたローゼンベルク城の威容が見えたとき、アリアは小さく安堵の息をついた。
王都の華やかさも素晴らしかったが、今の彼女にとって、この静謐で凍てつくような北の地にも、今年は例年より早く雪解けの音が聞こえ始めていた。その微かな生命の予感こそが、魂の安らぐ唯一の家の響きとなっていた。
旅の疲れで深い眠りに落ちたルーカスとアイリスを侍女たちに預け、カイルはアリアの手を引いて、城の最上階へと続く長い螺旋階段を登った。
地下の執務室が、水脈の奔流を見守るための城の心臓であるならば、この最上階の展望回廊は、領民の安寧を俯瞰する城の瞳であった。
回廊の重い扉を開くと、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。
窓枠のない開放された石造りの回廊からは、王都で見上げたものよりも一層鋭く、清らかな星々が降り注いでいる。眼下に広がる広大な雪原は、月光を浴びて銀色の海のようにどこまでも続いていた。
「……長い旅だったな、アリー」
カイルが、漆黒の髪を夜風になびかせながら、アリアの肩に厚手の毛皮をかけた。そのまま、彼は背後から愛おしげに彼女を抱き寄せる。アリアの白銀の髪が、カイルの胸元でさらさらと音を立てた。
「ええ。夢を見ていたのではないかと、時折不安になるほどです。お父様とお母様が名誉を取り戻し、ゼノ兄様やガイアスと笑い合い……そして、あのお祖母様が心から安らかな顔をされていた。全て、貴方が導いてくださったおかげです、カイル様」
アリアが赤紫からピンクへと移ろう瞳を潤ませて振り返ると、カイルは彼女の頬を大きな手で包み込んだ。彼の黒曜石の瞳には、月光よりも深い情愛が宿っている。
「導いたのは私ではない。君という存在が……君が持つその温かな心が、この地の澱みを払い、奇跡を呼び寄せたのだ。それがたとえ聖女の力と呼ばれようと、アリー、君でなければこの氷は溶けなかった」
カイルは、かつての自分をなぞるように視線を遠くへ向けた。
「両親を亡くし、兄弟も失い、天涯孤独だった私にとって、この北の地を守ることだけが唯一の生き甲斐であり、生きる意味だった当時の私は、この雪原と同じように心を凍らせ、感情を殺し、ただ死に場所を求める亡霊のようなものだった。だが君が現れ、私に人としての温もりを教え、凍てついた魂に光を灯してくれた。君がいなければ、行方不明だったルナやテオが戻ることも、水脈がこれほどまでに穏やかに歌うこともなかったはずだ」
アリアは、カイルの胸にそっと耳を寄せた。
そこから聞こえる力強く、一定の鼓動は、今や穏やかに歌い始めたこの地の水脈と共鳴するように、彼女に確かな幸福を実感させる。
「私も同じです。できそこないの聖女として、光を浴びることを諦めていた私を、貴方はローゼンベルクの女主人として、一人の女性として見出してくださった。ルーカスとアイリスという宝物を授かり、失われたはずの家族まで取り戻せた……。私たちは、お互いの欠けていた破片を持ち寄って、一つの大きな愛を創り上げたのですね」
二人は寄り添い、しばし無言で雪原を見つめた。
かつては拒絶の象徴だった北の雪は、今や二人と家族を守る、優しく清浄な帳となっていた。
「アリー。この先、どのような激動が王国を襲おうとも、私は君の手を離さない。君と子供たちが笑っていられるこの静寂を、私は生涯をかけて守り抜こう」
カイルの誓いの口づけが、アリアへと静かに捧げられた。
それは、過去の全ての苦難を報い、未来への希望を確固たるものにする、静かなる家族としての誓いであった。
北の地の夜は更けていくが、二人の心には、決して消えることのない和合の灯火が、赤々と燃え続けていたのである。
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