第一章 勝手に決まった運動会
# 第一章 勝手に決まった運動会
「いち、に、さん、し――」
宵待保育園の池の縁で、悠斗は水面を見つめていた。
水の中には、緑色の丸い頭が沈んでいる。
その後ろへ小さな甲羅が続き、両手は池の縁をしっかりつかんでいた。
「ご、ろく、しち――」
悠斗はしゃがんだまま、腕を伸ばした。
指先が届くところに、甲羅がある。
「はち、きゅう、じゅう」
ざば、と水が跳ねた。
「十秒!」
きゅうが顔を上げた。
頭の皿から水が流れ、頬を伝って池へ落ちる。口を大きく開けて息を吸うと、きゅうは悠斗を振り返った。
「十秒、できた!」
「聞こえた。息を整えろ」
「もう一回する!」
「休んでからだ」
「次は二十秒!」
「倍にするな。まず十秒をもう一回できるようにしろ」
きゅうは不満そうに頬を膨らませた。
けれど、池から出ようとはしなかった。
水の中へ腰まで入り、自分の足で立っている。
以前は、この池へ近づくこともできなかった。
縁に座る。
足先を入れる。
両足を入れる。
何度も戻り、何度も同じところからやり直した。
今は、水へ顔をつけて十秒いられる。
「先生、書いた?」
「今から書く」
「十秒だよ」
「分かってる」
「百秒って書かないでね」
「そこまで間違えない」
悠斗はノートを開いた。
久太郎。池の縁をつかみ、十秒間顔を水につけた。
その横へ丸をつける。
きゅうは濡れた顔を近づけ、文字を覗き込んだ。
「キュウリは?」
「記録に何の関係があるんだ」
「十秒できたから」
「一秒ごとにキュウリがもらえる仕組みではない」
「じゃあ十秒で一本」
「制度を作るな」
きゅうは頭の皿を撫でながら、少し考えた。
「二十秒なら二本?」
「水から出ろ。話が進まない」
◇
園舎が直ってから、宵待保育園にはいつもの夜が戻っていた。
日が沈むと門が開く。
親たちは子どもを預け、夜の仕事へ向かう。
園児たちは遊び、ご飯を食べ、眠り、また遊ぶ。
悠斗も、日が沈む前に自転車でやって来る。
もう深雪が分電盤へ手を伸ばす必要はなかった。
代わりに、出かける前に声をかけられる。
「お弁当、持った?」
「持った」
「ノートは?」
「持った」
「食費は?」
「今、出勤の確認をしてるんだろ!」
そのやり取りまで含めて、いつもの夜だった。
きゅうを池から出し、タオルで拭いて保育室へ戻ると、めめが積み木の箱の前に座っていた。
顔には、赤い縁の丸眼鏡。
その隣で、小吉が積み木の家を作っている。
「めめちゃん、赤いの取って」
「これ?」
めめは腕を伸ばし、箱の中から一つ選んだ。
顔へくっつけるほど近づけなくても、今日は分かったらしい。
「うん。それ」
小吉が受け取り、柱の上へ置く。
「先生」
めめが悠斗を見た。
「今、ここから分かった」
「見てた」
「近づかなくても」
「ああ。今日は少し離れてても分かったな」
めめは眼鏡の縁へ触れた。
それから、箱の奥にある積み木を見つめる。
「あれも赤?」
「どれだ」
「奥の」
「今の場所から分からないなら、近づいて確かめろ」
めめは立ち上がり、箱の反対側へ回った。
しゃがんで覗く。
「オレンジだった」
「じゃあ、それは置いておけ」
「うん」
見えるものは増えた。
それでも、見えないものはある。
めめはもう、何でも見えると言い張らなくなっていた。
部屋の端から、小さな声がする。
「きゅうちゃん。タオル落ちた」
大河だった。
きゅうは足元を見て、濡れたタオルを拾った。
「ありがとう」
大河がうなずく。
声は今も小さい。
けれど、相手に届いていた。
悠斗は何も言わず、ノートへ一行書いた。
「悠斗先生」
今度は、自分の声がした。
振り返ると、黒いジャージを着たこはくがいる。
寝癖までよく似ていた。
「見て」
「何を」
「尻尾」
腰の後ろには、何もなかった。
悠斗が覗き込もうとすると、こはくは得意そうにその場で一周した。
「今日は出てない」
「本当だな」
「耳は見ないで」
頭の上では、狐の耳が二つ、ぴんと立っている。
「先に言われると見るだろ」
「次は耳をしまう」
こはくが目を閉じた。
耳が少し小さくなる。
同時に、腰の後ろから二本の尻尾が出てきた。
「出たぞ」
「どっち?」
「尻尾」
「耳は?」
「まだある」
こはくは本物の悠斗と同じ顔で、深いため息をついた。
「忙しい」
「一度に全部気にするからだ」
「先生は耳も尻尾もないから楽だね」
「なくても、気にすることは山ほどあるんだよ」
こはくはもう一度目を閉じた。
失敗したからといって、練習をやめることはなかった。
◇
いわおが立っている場所には、赤い印がなかった。
玩具棚と机の間。
少し考えてから、いわおは窓の横へ移動する。
「ここなら通れる?」
悠斗は出入口までの道を見た。
「通れる」
「じゃあ、ここ」
いわおの身体が、ゆっくりと横へ広がる。
大きな壁になっても、通り道は残っていた。
その手前では、小吉が積み木の屋根を載せている。
玄関の方を一度見たが、立ち上がらなかった。
母親はもう仕事へ行っている。
「今日はどこで寝る?」
悠斗が尋ねると、小吉は部屋の奥を指した。
「ぼくの布団」
「俺の足元じゃないんだな」
「昨日も布団だった」
「知ってる」
「今日も、たぶん」
「たぶんか」
小吉は長い積み木を選び、屋根の下へ差し込んだ。
「夜中に起きたら、いる?」
「いるよ」
「じゃあ、布団」
悠斗はうなずいた。
足元へ毛布が運ばれてこない夜が、少しずつ増えている。
今夜も必ずそうなるとは限らない。
それでも、小吉が自分の布団を選んだことを、悠斗は書いておいた。
「せんせぇ」
ことが鼻先で、丸い積み木を押してきた。
「さんすう、するぅ?」
「する。まず三つ並べろ」
ことは一つ転がした。
もう一つ。
その隣へ、三つ目。
「いち、にぃ、さん」
「合ってる」
「いっぱいじゃない?」
「今日は三つだ」
ことは満足そうに目を細めた。
牛の尻尾が、ゆっくりと揺れる。
悠斗は三つの積み木を指さした。
「ここへ一つ足したら?」
ことは真剣な顔で考えた。
「……いっぱい」
「早い。諦めるのが早い」
隣で小吉が笑った。
こはくの耳が動き、大河も口元を緩める。
いつもの保育室だった。
◇
玄関の呼び鈴が鳴った。
迎えの時間には、まだ早い。
「私が出ます」
夜久園長が職員室から出てきた。
悠斗は、ことの前へ四つ目の積み木を置く。
「最初から数えてみろ」
「いち、にぃ――」
玄関から、よく通る声が聞こえた。
「こんばんは。ご案内をお持ちしました」
丁寧な声だった。
しかし、夜久園長の返事が少し遅れた。
「……この件は、まだお返事をしていませんが」
「園長から、直接お渡しするようにと」
悠斗が顔を上げる。
夜久園長は分厚い封筒を受け取っていた。
戸口の向こうに、きちんとした上着を着た人物が見える。背中では、狐の尻尾が何本も揺れていた。
「開催日は、こちらです。準備のお時間も必要でしょうから」
「その日は通常の保育があります」
「もちろん、園児の皆さんでお越しください。保護者への案内も同封しております」
「参加をお約束したわけでは――」
「皆さんにお会いできるのを楽しみにしております」
最後まで丁寧だった。
そして、最後まで夜久園長の返事を待たなかった。
玄関の戸が閉まる。
園長は封筒を持ったまま、しばらく立っていた。
「何ですか?」
悠斗が尋ねる。
「隣町の保育園からです」
「苦情?」
「心当たりがあるのですか?」
「きゅうが川をキュウリの保管庫にしようとしてたので」
「まだしてない!」
保育室の奥から声が飛んだ。
「まだって言うな」
夜久園長が封筒を開く。
中から出てきたのは、金色の縁取りがある案内状だった。
悠斗は肩越しに覗き込んだ。
――保育園対抗大運動会。
「運動会?」
きゅうがすぐに立ち上がった。
「何するの?」
「走ったり、玉を運んだりするんじゃないか」
「キュウリは?」
「運動会の説明で、最初に聞くことか?」
こはくが悠斗の姿を解き、案内状のそばへ来た。
「隣町に行くの?」
「行くとはまだ――」
「めめちゃんも?」
「全員でお越しください、と書いてあります」
夜久園長が言うと、小吉も家づくりの手を止めた。
「みんな?」
「そう書いてある」
悠斗が答える。
「悠斗先生も?」
「お前らだけで行かせられないだろ」
「じゃあ、行く」
「決めるのが早い」
めめが案内状へ顔を近づける。
「金色」
「そうだな」
「立派な保育園?」
「……設備は、とても整っていますよ」
夜久園長は答えた。
妙な間があった。
悠斗は園長を見たが、きゅうがジャージの裾を引っ張った。
「お弁当、持っていく?」
「時間による」
「キュウリ入れる」
「好きにしろ」
「先生のお弁当にも入れる」
「俺の分まで決めるな」
「こはくも持っていく!」
「油揚げ?」
「当たり!」
いわおが元の大きさへ戻ってきた。
「ぼくも走る?」
「競技によるだろ」
「道、塞がないようにする」
「運動会で壁になるかどうかも、まだ分からないぞ」
大河が、小さな声で尋ねた。
「ほかの子も、いる?」
「保育園対抗だからな」
大河は少し考え、案内状の絵を見た。
子どもたちが旗の下を走っている。
「見てみたい」
悠斗には聞こえた。
夜久園長にも、聞こえていたらしい。
園長は七人の顔を順番に見て、案内状を机へ置いた。
「まずは、保護者の皆さんに相談しましょう」
保育室が一気に賑やかになった。
走る速さより、お弁当と、知らない遊具と、みんなで出かける話ばかりだった。
悠斗は案内状を手に取った。
開催時間は、日没後から。
閉会予定は、午前三時。
「本当に真夜中にやるんだな」
「この子たちの運動会ですから」
夜久園長が言う。
「園長、あまり嬉しそうじゃないですね」
「そう見えますか?」
「見えます」
園長は銀縁の眼鏡へ触れた。
「少し、方針の違う園ですので」
「方針?」
「詳しいことは、また後で」
夜久園長の視線が、悠斗の後ろへ向いた。
ことが遠い目をしている。
「あしたはぁ――」
悠斗は案内状を置き、すぐに口を塞いだ。
「んむぅ」
「運動会の前に、今夜を無事に終わらせろ」
きゅうが笑った。
こはくも、小吉も笑う。
ことの尻尾は、いつも通りのんびり揺れていた。
机の上には、金色の案内状。
その隣には、悠斗が開いたままにしたノートがある。
久太郎。十秒。
めめ。少し離れて赤を判別。
大河。きゅうへ声が届いた。
書き足すことは、今夜もまだありそうだった。




