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榊源二郎捕物話

揚り屋の般右衛門

作者: 空木弓
掲載日:2026/06/28

 


   (一) 


 白井般右衛門(しらいはんえもん)は、今日は北の御番所(北町奉行所)の平同心である榊源二郎(さかきげんじろう)がやって来る日だと、その訪問を心待ちにしながら、一人、下級武士向けの牢である(あが)り屋であぐらをかいて座っていた。


 本来なら、無宿者として二間牢に入れられるはずが、源二郎達がどう上役を説得したのか、般右衛門は押し込み先の住人を殺害していた盗賊、由治(よしじ)一味の中でただ一人、武士としての扱いを受けているうえに、東奥の揚り屋に一人で入っていた。


 もっとも、捕縛時に仲間の一人が敵味方関係なく抜き身を振るったため、首領(かしら)の由治と船頭役の男は亡くなり、生き残ったのは雇われ浪人の三人だ。般右衛門以外の二人も捕縛時に怪我を負ったが、(たまり)(重病の囚人の収容先)で暴れられては困ると、様子見を兼ねて傷を縫合した後に大番屋の仮牢に五日間入れられ、そこから二間牢へ入っている。

 仲間をも斬りつけた、狂気をはらんだ男、自称安宅関之助(あたけせきのすけ)は、捕縛されて以降はいたっておとなしいらしい。


 般右衛門の入牢はちょうど東奥の揚り屋に入っていた旗本の元用人と中小姓が遠島部屋に移されたという時ではあったが、般右衛門の後に入牢となった陪臣の二人はどちらも西の揚り屋に入れられた。

 揚り屋にも牢名主がいると聞いていたのに、いざ入ってみたら、誰もおらず、(まいない)を一切用意することなく入牢し、牢名主と一戦交えるつもりでいた般右衛門は、大いに肩透かしをくらったものだ。

 しかも、旗本や高位の僧侶が入る揚げ座敷以外の牢内は、どこもほとんど日の光が入らず、掃除もめったにしないから汚れきっており、虱や蚤の巣窟だと聞いていたのに、般右衛門が割り当てられた東奥の揚り屋に汚れはほとんどなく、虱、蚤の類いも見当たらなかった。

 悪臭は外鞘に入った時には気分が悪くなりそうなくらい強く感じたが、東奥の揚り屋はその点もかなりましな状態で、まもなく般右衛門は臭いに慣れた。

 そうして、入ってすぐに下男(しもおとこ)が薄い布団を持ってきた。

 頼めば借りることのできる布団だが、般右衛門は何もしていない。源二郎が手を回したのだと般右衛門は思った。


 西奥の揚り屋は板壁の向こうが女牢でうるさいというが、東奥の揚り屋は隣が遠島部屋、反対側には通路を挟んでの大牢と、騒音に関してはまだ少ない。

 もちろん大牢から喧嘩している怒声や冷やかしの声に暴力的な物音など、穏やかでない物音がしょっちゅう聞こえてくるが、般右衛門の気持ちを逆撫ですることはない。

 毎日、複数名の囚人が奉行所での詮議や刑罰の宣告と執行のために牢から呼び出されるが、そんな騒ぎにもすぐに馴れた。

 呼び出しは毎朝、辰の刻(午前8時頃)の朝食前に前触れがあり、呼び出された者達は朝食後に牢を出る。

 死罪以上の宣告と受書への爪印は、奉行所ではなく、町方の与力が牢屋西側の外にある改め番所の前にやって来て行う。

 般右衛門が入っている揚り屋は東側なので、罪状と刑罰を読み上げる与力が何を言っているかまでは聞き取れないが、何人かに死罪の宣告が行われ、速やかに刑が執行されたことだけは物々しい雰囲気からわかった。


 獄門の場合、宣告は死罪同様、改め番所の前だが、市中引き回しがあることに加えて首を晒す場所から、処刑は牢屋敷内ではなく小塚原(こづかっぱら)鈴ヶ森(すずがもり)である。般右衛門は江戸よりも東北の生まれだから、おそらく小塚原だ。

 五日ほど前に獄門になった男が二人いて、そのうちの一人が市中引き回しを娑婆(しゃば)の見納めだと喜んでいるような声が聞こえたことに般右衛門は興味を引かれた。果たして、自分もそんな気分になるだろうかと考えた。江戸は般右衛門が生まれ育った町ではないから、牢に入って以降にさほど見たいという気持ちがなかったからだ。江戸に、いや、この世に未練はないと思っていた。

 ――だが、いざとなると、気持ちは変わるかもしれない……


 晴れた日中には外鞘(通路)にある板の隙間から差し込む淡い陽射しが鞘土間に柔らかな陰影を作る。

 そこに般右衛門は、ふとした時に自らが手にかけた人々と、心から愛した人々の幻を見る。

 己の罪の証しである、斬殺した人々の成仏を願いはするが、この時の般右衛門にはその思い出が、覚悟を固める助けになっていた。


 捕縛されてから一月半近く。ようやく吟味(取り調べ/裁判)が終わり、あとは刑罰の宣告を待つばかりである。

 般右衛門達、由次一味の生き残りに下される処罰は、まず間違いなく獄門だ。宣告されれば、おそらく一両日中に市中引き回しから斬首になる。


 もっと早く処罰を言い渡されると思っていたから、吟味に一月以上かかったことに般右衛門は驚いた。

 北の御番所で裁かれた般右衛門の罪は、三件の商家への押し込みとその住人、六人の殺害、及び住人を助けようとした町方同心一人の殺害だ。その同心とは、榊源二郎の兄、榊恭一郎(さかききょういちろう)である。


 吟味の中で問われた、由治の仲間に入ったいきさつにも般右衛門はきっちり答えた。

 弟、源次郎の身に起きた、非道で残酷な仕打ちは、できる限り、知る限り、つぶさに語った。般右衛門、本名、黒木半右衛門(くろきはんえもん)の幼馴染みに謀られ、全く身に覚えのない、犯していない罪で捕縛され、激しい拷問を受けて亡くなったことを、怒りを押さえてできる限り淡々と。

 弟の無惨な亡骸の描写に、吟味方の与力は顔をしかめ、それまで無表情でいた見張り役の同心の顔にも歯を食いしばるような動きや涙をこらえるように上を向く仕草の見えたのが、般右衛門には救いだった。


 奉行による吟味、御白州でも般右衛門は下級武士並みの扱いを受け、白州ではなく、濡れ縁に座らされた。

 奉行が行う吟味は、実際のところ吟味方与力の取り調べを確認するだけなのだが、最後に「弟御の身に起きたことは目付方へも繋いだ。そのようなことをここでは決して起こさぬ」という一言があった。

 般右衛門は手鎖と足枷をつけて座らされている状態で、できる限り深く頭を下げた。


 吟味終了のあと、いつ獄門の宣告があるのか。

 死罪以上は町奉行から老中の手を経て将軍の決裁をあおぐため、最短でも翌日だ。数日かかることが多い。将軍家の忌日も避ける。とはいえ、五日以上かかることは稀だという。

 あとは獄門が宣告されるまで、矜持を保って過ごすのみだった。

 般右衛門は自分でも己の落ち着き具合が意外だった。もっと死の恐怖に煽られて無様(ぶざま)な振る舞いをしてしまうのではないかと怖れていた。



 外鞘の端にある扉の開く音がした。源二郎が来たのだ。

 非番にも関わらず、この日も源二郎は黒羽織を着て、いつものように包みを手にしているに違いない。包みは自身が作った握り飯と膾や煮物などの菜だ。牢内の食事の貧しさを知っているからだ。

 牢屋の飯は一日に二度、物相(もっそう)と呼ぶ四角い器に盛られた、いわゆる物相飯(もっそうめし)*とわずかな大根の漬物に味噌汁が賄われるだけである。毎度、不味くて般右衛門は半分も喉を通らない。

  物相飯に比べたら、源二郎が持ってくる手料理は、高級料理屋の品に般右衛門には思えていた。物相飯のせいではなく、間違いなくうまい。


 牢屋敷では、家族や知り合いが囚人に贈る物を「届物(とどけもの)」と呼ぶのだが、届物を牢屋同心に預けず、源二郎自身が揚り屋まで持ってくるのは、もちろん特例である。悪く言えば、職権乱用だ。

 源二郎の気性からして、源二郎の独断専行ではなく、先輩同心の何枚もの後ろ楯があるのだ。そのうちの三人は、捕縛時に目にした先輩同心だろうと般右衛門は思っていた。


 この前、食べたいものを聞かれて般右衛門は無いと答えたから、何を持ってきたか、楽しみである。そう思った般右衛門は苦笑いが浮かんだ。

 ――あと数日後にはもう食べる必要がなくなるのにな……


 来なくていいと言ったのに、般右衛門が入牢して以来、非番の日に来なかったのは、探索で休みのなかった七日連続勤務後の一日だけだ。来なかった日も届物はあり、探索で知り合った親子に手料理を持っていくので、牢屋に行けないという伝言があった。

 般右衛門はその包みを下男から受け取った。


 揚り屋と身分の高い武士、僧侶が入る揚げ座敷には、更生する見込みの高い軽犯罪人が付き人として入れられるというが、般右衛門一人だからか、本来なら二間牢に入るところを特別に揚り屋に入っているからか、付き人は割り当てられず、受けている世話は、朝晩の食事と水を下男が運んでくるだけである。

 般右衛門の食事を持ってくる下男はこれまでのところ二人いるが、そのうちの四十過ぎの小柄な伝吉(でんきち)という男がよく般右衛門に話しかけてくる。どうやら源二郎から気にかけるよう頼まれているらしい。


 般右衛門が伝吉から渡された竹の皮の包みを開けたら、青菜を混ぜた握り飯と初めて見る卵料理が出てきた。

 ちなみに白米だけだと牢で賄っているから不要と、届物にすることはできない。そのため、源二郎が持ってくる飯には必ず何かを混ぜるかまぶしてある。


 初めて口にした、病み上がりの子どもに食べさせるために作ったという、柔らかな舌触りと優しい味つけの饅頭の形をした卵料理に、般右衛門は源二郎の心根を見た気がした。

「わしはお主の兄の仇なのだぞ」

 そう繰り返しても、来るのをやめない源二郎の心根を。


 そして、その卵料理を差し入れた次の非番の日、十日ぶりに顔を見せた源二郎は、般右衛門にはそれまでと少し違って見えた。何がどうと言えないが、何かが変わった気がした。般右衛門に対して複雑な思いがあるのは間違いないが、その複雑さが薄れたように感じた。

 源二郎が般右衛門と三日に一度、屈託なく釣りをして過ごした二月足らずの時が般右衛門のしでかした悪行すらも赦せていると思えていたのが、そこから何かが変わった気がした。さらに赦す方向に。


 般右衛門も源二郎と釣りをして酒を呑む一時が楽しかった。それまで長い間感じていなかった安らぎを感じた。

 そして、顔立ちは似ていないのに、時折源二郎が見せる笑顔に亡き弟の俤を見ていた。同時に、弟とは気性の全く違う己にも、どこか似ていると感じていた。

 そんな源二郎と刀を交えて捕縛されたとき、般右衛門はまさに運命だと思った。この男に捕らえられるなら本望だと。

 それだけではない。

 般右衛門は源二郎の手で殺されることを望んでいた。源二郎が相当な剣客だとわかっていたからだ。

 だが源二郎が捕縛時に手にしていたのは、決まりどおり、刃引きした刀だった。

 それもまた源二郎らしい。般右衛門はそう思う。


 面会は四半刻ほど(約30分)である。源二郎の訪問が揚り屋に一人いる般右衛門の唯一の楽しみだが、それもおそらく今日が最後だ。




  (二)


 般右衛門の前に姿を見せた源二郎はいつものように会釈し、持ってきた風呂敷包みを入り口前の框に腰掛けて開いた。見張りについている牢屋同心に見せるためだ。おそらく牢屋敷きの番所でも見せただろうが、念には念を入れているのだ。

 中に入っていたのは、大小三つの笹の葉の包みで、大きな包みには胡麻をまぶした俵状の握り飯が五つ、あとの小ぶりな二つの包みには小芋の煮物と小松菜の浸しが入っていた。

 まず源二郎は握り飯の入った笹の葉を包み直し、入り口の格子の間に差し入れた。

「握り飯は酢飯で(さわら)田麩(でんぶ)を入れています」

 少し照れを見せながら、源二郎は言った。

 笹の葉の包みを受け取りながら、般右衛門は微笑まずにいられなかった。

「わざわざそんな手の込んだものを……」

「それがしも食べたいと思ったので……」

 優しい嘘である。

 田麩はまず魚を焼いてから、その身をほぐして骨を取り除き、醤油と味醂で味付けするという、かなり手間のかかる料理だ。そんな手間のかかる田麩を面会できる最後であろうこの日に源二郎が作ってきたのは、少し前に般右衛門が昔食べた田麩のことを話したからだ。幼い頃の好物だった。もう長いこと食べていない。そう言ったからだ。


 般右衛門はさっそく握り飯を口に入れた。大人の男が一口で食べられる大きさだ。

「うまい」

 思わず言って二つ目を手に取った。

 今度は半分食べて中を確かめた。

 中に茶色の田麩が見える。酢飯との割合は二対一くらいか。

 ほどよい酢飯の酸味といくぶん甘味を押さえた田麩の組み合わせが実に美味だった。

「世辞ではなく、本当にうまい。これは売れるぞ」

 般右衛門の言葉に、源二郎は少年のようなあどけなさを感じる笑顔を見せた。

「お主は本当に器用だな」

 源二郎が次に格子の間から差し出してきた煮物の包みと箸を受け取りながら、般右衛門は言った。

「いや、器用というほどでは……」

 手元に煮物を引き寄せ、使いづらい太く短い木箸で般右衛門は小芋を挟んだ。こちらも一口で食べられる大きさだ。

 口に入れてゆっくりと噛む。

 思っていたよりも薄味だったが、小芋のうまみが感じられると般右衛門は思った。

 また握り飯を口に入れた。

 ――そうか、田麸の入った酢飯に合う味付けだ。


「どうやったら、こんな美味い組み合わせを思いつくのだ?」

 般右衛門は握り飯の次にまた小芋を口に入れた後で訊ねた。

「自分が食べてみて、こんな味付けが良いのではないかと試してみたのです」

「そうした工夫が楽しいか」

 問いではない。確認だ。

「はい」

 またもあどけなさを感じるような照れた笑みを源二郎は見せた。

 その笑顔に、般右衛門は、昔、元服前の弟にしたように、源二郎の頭をくしゃりと手で押さえたくなった。

「兄上、髷が崩れますぅ」

 幼かった弟が口を尖らせて髷を整えようとするのがまたかわいくて、当時、まだ源太と名乗っていた十代の悪戯好きだった般右衛門は、余計に弟の頭を撫でて髷を崩したりしたものだ。

 ――自分と似ていると思ったのは俺の勘違いだったか?


 入牢して以降、源二郎の姿に思い起こされるのはいつも幼い頃の弟なのだ。残酷な運命が待ち構えていることを知らずにいた、無垢な弟……

 そんな弟に死んで会えるとは思っていない。

 そもそも死後の世界を信じていない般右衛門だったが、死後の世界があるとしても、弟は涅槃で、自分は地獄行きだからだ。


「町方の同心として優秀だから、こんなことを言っては御奉行様から御叱りを受けるだろうが、飯屋を開いたら、間違いなく流行るぞ」

「流行っても、採算がとれるとは限りませんが……」

 源二郎は持ってきた最後の包み、小松菜の浸しを格子の間から差し出しながら答えた。

「わしは商いのことはわからぬが、借金をこしらえなければ、儲けるまでいかずとも良いのではないか?」

 小松菜の浸しは前に食べたものよりいくぶん甘めの味付けだった。これまた田麸入りの酢飯に合わせた味付けなのだ。


 ゆっくり食べれば良いのに、美味しさのあまり、般右衛門はあっという間に平らげてしまった。

 そんな般右衛門を嬉しそうに見ていた源二郎が突然俯いた。

 涙を堪えているのだ。般右衛門にはわかった。これが最後になると思ったからだ。

 般右衛門にも源二郎へ最後に言っておきたいことがあった。


「源二郎、おまえは人との関わりを畏れているな。特に女御(おなご)との関わりを……」

 源二郎はビクリと肩を動かしただけで、顔を上げなかった。

「気持ちはわからないではないし、わしのような者が言うのは間違っているかもしれないが……そなたの兄君は、今のそなたを見て歯痒い思いをしているのではないかな」

 源二郎は俯いたままだ。

「好きな女御がいるなら、思いきって口説(くど)いてみろ。縁談を持ち込まれたら、ともかくも会ってみろ。わしは嫁を見合いで娶ったが、会った時になんというか、この娘が生涯の伴侶になるのだと、しっくりくるものがあった。しっくりくるかどうか、まずは会わないとわからん」

 源二郎が顔を上げた。

「好きな女性(にょしょう)はおりますが、口説けませぬ。人妻です」

 最後を早口で言った源二郎はまた俯いた。

「そうか……それは口説けぬな……諦めきれる相手か?」

 源二郎が顔をあげた。驚いている顔だ。

「諦めるしかないでしょう。今の旦那は、それがしも好感を持っている人物です。別れろとは言えない。決して言えない……今の旦那より幸せにできるとは思えない……」

 苦しそうな顔だった。

 般右衛門は源二郎が抱いているその女への気持ちは本物なのだと思った。手先は器用でも、気持ちの方は素朴で不器用だ。

 ――若さ故、でもある……


「若いと、何かとことを急ぎたくなる。だが若いからこそ、焦ることはない」

 源二郎はじっと般右衛門の顔を見つめてきた。訝しげな目だ。

「その女御が本気で好きなら、諦めるのは簡単ではないし、今はその気持ちを大切にしていれば良い。お主は無茶はせぬからな。ただし、常に臨機応変に動けるようにしておけ。いつどんな道が見えてくるかわからん」

 般右衛門はふっと鞘土間の薄い陰影に目を遣った。

「わしは時として大きな何かに動かされている気のしたことが何度かあるが、そんな時は流れに逆らえない。だが、得てして逆らえない中で見えてきた中に大事なものがあった……それを見逃さんようにな」

 源二郎は一瞬間を置いてから答えた。

「はい。肝に命じておきます」

 その直後に源二郎の目に迷いが出た。

「どうした?」


「そろそろ終わりに……」

 それまで少し離れた場所から会話を見守っていた牢屋同心が近づいてきて知らせた。

 牢屋同心の終わりを告げる声に、源二郎は心が決まったらしい。

「本当にお望みのことはないのですか?例えば、その……お髪を故郷へ……」

 言っている間に源二郎の目が潤んできた。

 般右衛門はかぶりを振った。

「何もしなくてよい。こんな罪人は誰にも省みれらることなく小塚原で朽ちるべきなのだ」

「ですが、弟君は黒木家の菩提寺に埋葬なさったのでしょう?弟君が自分のために罪を犯した兄が見知らぬ地で朽ちるのを喜ぶとは思えません。例えほんの一部であっても同じように……同じ場所で……」

 源二郎は途中からは格子を両手で握って訴えてきた。

「そもそも弟が陥れられたのはわしのせいなのだ。弟に会わせる顔はない。お主のその気持ちだけでよい。何もするな。してはならぬ」

「ですが……」

「わしの体は試し斬りに使いたければ使ってもらいたい」

 今度は源二郎が激しくかぶりを振った。

「そんなことはさせません。絶対に」

「獄門になるのだぞ」

 般右衛門は笑った。


「獄門が決まったとしても、それは刑罰です。法度により定められ、上様がご決裁なされること。試し斬りとは違います」

 そう言った、源二郎の顔はつらそうだった。獄門についても、必ずしも賛同はしていないようだ。

「わしのような者に気を遣うことはない。何より、死んでしまえば、何もわからぬ。わしのことより、お主のことだ」

 般右衛門は思わず格子を握る源二郎の手に己の手を被せた。本当なら、ポンと軽く背中を叩きたいところだ。

「お主は頭が良いから、わしのような過ちは犯さぬだろうが、頭が良いがゆえに考えすぎるきらいがある。もっと素直に生きろ。わしが言うのはふさわしくないが、兄君の分まで人生を楽しんで生きろ。それが兄君へ一番の供養だ」

 源二郎の格子を握る手に力が入った。

「わしに腹を立てたか?」

 般右衛門は心のどこかでそれを望んでいた。兄の仇である、獄門になる男のことなど、忘れた方がよいのだ。

 源二郎ははっきり「いいえ」と声をだしてかぶりを振った。


「では、それがしの方は弟君の気持ちを申しあげます。陥れられたきっかけはあなたのせいであっても、見抜けず防げなかったのは自分の力不足だと思っていることでしょう。そして、あなたは弟君の仇を打つことで、それまでの暮らしを捨て、御内儀も亡くした。弟君はそんなあなたに申し訳ないと思っています。きっと。優しい心を持つならば、きっと」

 そういう源二郎に不思議な自信を般右衛門は感じた。

 ――やはり何かあったな……


「心根の優しい者は、どこまでも優しいのです。それがしのような者には眩しくてやるせないくらい……」

 源二郎は哀しいような、いとおしむような、なんともいえない表情を見せてそう言った。そして、まっすぐ般右衛門の目を見つめてきた。

「あなた自身、弟君が今のあなたを見てなんと言うか、わかっているはずです」


 何かわからないが、この若者の中で何かが起きている。般右衛門はそれが何か知りたいと思った。その先には、般右衛門が到達できなかった心持ちがあるのではないか。無明の闇に落ちた身だからこそ、知りたかった。


「お主が思うようにしてくれ。お主が弟が望むと思うことをな」

 しばらく源二郎の顔を見つめ返した後に口にした般右衛門の答えに、源二郎は「委細、承知いたしました」と返し、大きく頷いた。

 その表情にも、般右衛門はそれまでと違うものを感じた。




  (三)


 源二郎が揚り屋の前から去った直後、般右衛門は牢に入って初めて獄門に、処刑されることに恐怖を感じた。そしてその恐怖と苦しみがどんどん大きくなってきた。この期に及んで初めて、もっと生きていたいと思った。

 ――あともう少し、あと半年……いや、せめてあと一月……あの若者の変わりゆく姿を見たい。どう変わっていくのか知りたい……

 獄門になることを受け入れていたほんの数刻前から、己でも信じられない変わりようだった。いざとなると、気持ちが変わるかもしれないと思いはしたが、ここまでの焦燥は自分で予期していなかった。

 ――今まで死を実感していなかっただけだろうか?いや、そんなはずはない。両親、弟に二人の我が子も弔ったのだ。さらには人を十二人も斬った。死ぬということがわかっていないわけがない。己の罪は獄門に値する。覚悟できていたのではないのか?

 般右衛門は己の心持ちの変わりように戸惑った。まさか、源二郎の最後の訪問でそんなことが起ころうとは、思いもしなかった。


 般右衛門は源二郎の行く末を心配しているわけではない。心に枷はつけているものの、心身のしっかりした若者なのだから。

 だが今、心の枷が変わりつつあるのを目撃し、般右衛門に芽生えたのは、好奇心だ。般右衛門はそう結論した。


 生きることへの欲望が思わぬ形で現れ、死の恐怖が眼前に迫る。

 外とさほど変わらないくらい寒い牢なのに、般右衛門の背中に汗が出てきた。

 ――己の罪の深さをこそ、知れ!

 般右衛門は目を瞑った。

 これまでに斬ってきた者たちをひとりひとり、記憶に残る光景をひとつひとつ思い浮かべていった。

 ――楽には死なせぬという、彼らの呪いか?


 斬首そのものは一瞬で終わる。問題は市中引き回しの間だ。人々の好奇と嫌悪の目に晒されながら、迫り来る死の恐怖に耐えねばならない。

 その光景を思い浮かべたら、夜の物相飯に全く手をつけることができなかった。


 般右衛門は揚り屋に入って初めて孤独を辛いと思った。一人でいることをこの時ほど辛いこと思ったことはない。

 ――誰かいれば、例え苛立ちであったとしても、気が紛れただろうに……


 大牢の物音に耳を傾けた。気が紛れることを願って。しかし、気が紛れるどころか、却って腹立たしさと何もできない苛立ちで、心が一段とささくれ立ってしまった。

 横になってもなかなか眠れない。

 大牢から鼾が聞こえてくるのも不快だった。

 昨日までは大牢の喧騒にも鼾にも、死罪の呼び出しにさえ、心を乱されていなかったのだから、何もかも気になり、些細なことに腹立たしさを感じることに、般右衛門自身が信じられない気持ちでいた。


 死後の世界を信じることができたら、少しは気持ちがましになるのだろうか。この時代の人間としては信心深くない般右衛門はそう考えてみた。

 しかし、今さら信じても死後に行くのが地獄となるのだから、救いにはならない。

 ある宗派は悪人も救われると説いている。その宗派を信じれば、少しは落ち着くのか。それもまた時既に遅しだと般右衛門は思った。

 急に信条は変わらない。心から信じることができない。


 自分という存在がこの世から消えてしまうことにこんなにも怯えている。般右衛門は自分で自分に驚き呆れた。

 様々な思い出か頭に甦る。辛かったことよりも、数少ない楽しかったことが中心だ。

 どうにも眠れない。



 ほとんど眠れないまま迎えた翌朝、いつ呼ばれるかと心の臓が口から飛び出そうなほどに大きく打ったが、般右衛門の名前は呼ばれなかった。


 少なくとも一日は命が延びたが、獄門が消えたわけではない。ただ執行が延びただけだ。

 不味い物相飯を食べる気にならない。


 朝食の食器を片付けにきた伝吉が、昨夕に続いて物相飯に全く手をつけていないことに心配して声をかけてきた。

「でぇじょうぶでございやすか」

 般右衛門は自虐の笑みが浮かぶのを押さえられなかった。

「恐れていたことが起こっただけだ。もうすぐ獄門になるということでな」

 伝吉はかぶりを振って答えた。

「旦那様は強いお方でございますよ。皆、もっと早くから首を斬られることを怖がっておかしくなってやす。食べられねぇどころか、食べてもいねぇのに吐いたりしてやすよ。気がふれちまうのも多いでやす。人ならば、あたりめぇのことでやす」

 般右衛門は伝吉の言葉にほんの少し気持ちが軽くなった気がした。今の気持ちを聞いてもらいたいと思った。

「あの若い同心の行く末をもう少し見たいという気持ちが起こっているのだ。今さらどうしようもないのに、この世に未練を感じてしまった」

「榊様のことですな。良いお町の旦那です。立て続けに大きな手柄を二つたてなさったとか。これからでぇじな御用をどんどん勤めなさいますでやしょう。榊様もあなた様にはひとかどならねぇ思いがおありなようで、昨日もお帰りの時に目を真っ赤にしておられやした」


「顔立ちは似ていないのに、榊殿を見るといつも弟を思い出してな……それ故か、あの若者の行く末が気になって仕方ないのだ。気のせいかもしれないが、あの若者が変わりつつあると思えて余計にな……野次馬根性だな」

 伝吉はまたかぶりを振った。

「それまた、あたりめぇのことでやすよ。そんなお人がいるってのは、ホントは良いことだと思いやすが……」

 伝吉はそこで言葉を切り、うつむいた。何をどう言えば良いのか、わからないのだろう。

「そうだな。本当は良いこと、だな」


 明日の朝には獄門を宣告され、その日のうちに市中引き回しから斬首になるかもしれない。そう思うと、その日も眠れず、食べれず、般右衛門は夜を迎えた。

 その夜も、ほんの少し浅い眠りが一、二度訪れただけで、小鳥の囀りが聞こえ始めた。

 二日間食べることもろくに眠ることもできていないと、頭がぼんやりしてくる。頭痛もおきてきた。

 こうなると、更に食べる気にならない。

 ――今日一日の命かもしれないのだ。

 そう思ったら、更に胸苦しくなった。

 だがこの日の朝も般右衛門の名は呼ばれなかった。

 また一日命が延びた。しかし、一日が長いようで短い。

 不思議な感覚だった。眠っていないつもりが、目を開けたまま、座ったまま眠っているのかもしれないと、般右衛門は思った。


 ところがどうしたことか、昼過ぎに牢屋同心に続いて町方の与力が東奥の揚り屋の前へやって来た。そして、揚り屋前の框に座らされた般右衛門に向かって書状を読み上げた。罪状から始まり、最後に刑罰が言い渡された。予想通りの獄門。

「明朝、辰の刻から市中引き回しのうえ、小塚原にて斬首」

 短い宣告から、与力は書状を般右衛門に見せた。薄暗い中でも大きめの字で書かれた獄門の文字はよく見えた。

 般右衛門は獄門の宣告を聞いたら開き直れるのではないかと思っていた。だが、息がつまるほどの苦しさが般右衛門を襲った。頭を下げた後、与力が去るまでそのままだったのは、動揺を気づかせないためだ。武士としての矜持を保たねばという意識になんとかすがりついていた。書状に爪印を押すときにも手が震えていた。


 しばらく動機がおさまらず、冷や汗も出てきた。同時に、大牢から聞こえてくる喧騒も明日には聞くことができなくなると思うと、耳を傾けることができた。ほんの少し気が紛れた。勝手なものである。

 獄門の宣告を受けたのが、なぜ牢屋の外、改め番所前ではなく揚り屋の入り口にある框の上だったのかに考えが及ばないほど、般右衛門は動揺していた。

 水だけは少し飲んだが、この日も飯は一粒も喉を通らなかった。

 ――無理して食べることはない。

 源二郎が作ってくれた三品が口にした最後の食べ物になるのは良い気がした。

 ――源二郎の届物はどれも美味かった……


 源二郎はいずれ町方の同心をやめたら武士の身分を捨て、飯屋を開くつもりでいる。一緒に釣りをしている頃に般右衛門に打ち明けていた。

 それには跡継ぎをつくらないといけないぞと般右衛門が返したら、姉の次男か三男を養子にするつもりだと迷いなく答えた。

 その様子に般右衛門は源二郎の屈託を強く感じたのだが、「それも選択肢のひとつだな」とだけ言ってそのときは話を変えた。

 それ以上話したくない風が源二郎にあったからだが、般右衛門自身にも屈託があり、人を諭せるような立場ではないと思ったからだ。




  (四)


 生きることへの未練を断ち切り、死の恐怖に打ち勝つには、これまでに看取った人、己の手で斬殺した人々のことを考えることだ。般右衛門はそう考えて、静かで長い、最後となる夜に、これまでに看取った人々の最期を思い返した。揚り屋に入ってから何度か思い返してはいたが、この時には一番長く細かなことまで思い出すよう心がけた。


 父親は般右衛門が家督を継いでまもなく、ある日突然倒れ、そのまま意識が戻ることなく亡くなった。

 母親は父親が急死する前から患っていて、父親の三回忌目前に亡くなった。

 父親は倒れるまで近々死ぬとは考えていなかったろうし、そのまま気がつかないまま亡くなったのだから、全く死ぬことを考えないまま亡くなったような気がした。

 母親の方は死に向かっていることはわかっていたろうが、いつ終わりがくるかはわかっていなかった。そもそも母親は信心深く、死後には仏となり涅槃へ行くと思っていたから、あまり死の恐怖を感じていなかった気がする。

 ――他人に死ぬ日時を決められるのが、一番死の恐怖が強くなるのか?


 子は二人とも幼いうちに流行り病で亡くなった。あっけなかった。死ぬことがどういうことかもわかっていなかったのではないか。

 幼子(おさなご)の苦しそうな様子に変わってやれるものなら変わりたいと思ったが、できるはずのないこととわかっていての思いだ。今から振り返ると、妻ほどには子供の死を悲しんでいなかったと般右衛門は思う。


 妻、邦枝(くにえ)の自害は見知らぬ人物が話しているのを耳にして知った。弟の仇討ちを前に離縁したが、離縁を告げたときの妻の顔つきを思い返すと、とうに覚悟を決めていたのだ。改めて自分ごときにはもったいない良妻だったと思う。

 ――獄門を目前にしてのこの狼狽えと憔悴を邦枝が知ったら、呆れて笑い出すに違いない。

 最後に見た妻の顔と伝え聞いた潔い死を思い浮かべていたら、いつの間にか般右衛門の頬を涙が流れていた。


 そして、拷問によって殺された弟、源次郎。

 思い返す度に般右衛門の心に怒りの炎が灯る。陥れた連中は己の手で命を奪ったが、どうにも収まらない怒りだ。自分で持て余したその怒りが由治の仲間に入った大きな理由である。

 今もその怒りの火は燻っている。いったいどうしたら、この怒りの炎が消えるのか。この怒りの炎を鎮めるのは死しかないのか。この、文字通りの土壇場での死ぬことへの恐怖は、どうにも鎮まらない怒りのせいなのか。

 怒りが弟を陥れた連中だけでなく、般右衛門自身にも向いていることはとうに自覚している。

 ――死ぬまで自分を許せぬということか。


 そして、己の手で斬り殺した十二人の人々を思い返した。

 弟を陥れた幼馴染みと商人、拷問で弟を死に至らしめた目付方の役人二人を残酷に殺害したことには全く後悔がなかった。申請すれば敵討ちが認められていたこの時代の武士ならではの考え方である。

 しかし、中屋の若旦那と榊恭一郎を斬ったことは、般右衛門の数少ない後悔だ。

 中屋を襲ったのは由次に騙されたと言えるが、とっさに急所をはずすことをしなかったのは、般右衛門に責がある。

 榊恭一郎との対決は、武士として、剣士として、般右衛門には力を抜くことができなかった。全力で戦った結果の斬殺だ。

 思い出す度に後悔の念とやむを得なかったと思う気持ちが混ざり合う。

 これだけ多くの罪を犯しているのだ。獄門は当然だ。

 しかし、そんな理性的な考えと死に対する感覚的、感情的な恐怖とは別物なのだ。



 どうせ眠れまいと、鼾が聞こえてくる中、般右衛門は薄い布団に横にならず、壁にもたれて外鞘に差し込む月明かりを見ていた。

 そこに幻を見ることがあるからだ。正確には、わずかな月明かりと格子の作り出す陰影が、時に人の姿を連想させるのだ。

 そんな陰影を見ることができるのも明日の朝までである。

 息苦しさを感じながら、背中に悪寒を感じながら、頭痛と吐き気を感じながら、そうした不快感にひたすら耐えながら、外鞘の陰影を眺める。少しは気が紛れることを願っていた。あるいは幻を見て、正気を失うことができることを。

 おとなしくはしているが、まともに会話できなくなっているという安宅関之助が羨ましかった。


 この夜は皮肉にも聞こえてくる鼾が少なく、いつもより静かな夜だった。

 外は風が強いらしい。月が頻繁に雲を出入りするから、外鞘の陰影は浮かんだり闇に溶けたりを激しく繰り返している。


「旦那様……旦那様……」

 突然、女の声が聞こえた。邦枝の声だと般右衛門は思った。最期に思い起こすのは妻なのか。

「いよいよ正気を失ってきたか……」

 その呟きには喜びが混ざっていた。

「もうすぐそちらへ行くと言いたいが、そちや源次郎のいる所へは行けまい。そち達を巻き添えにした罪は獄門でも消えぬ」


「何を申されます。わたくしも源次郎殿も旦那様をお待ちしております。お一人でよく源次郎殿の仇をお伐ちになりました。見事なお手際」

「その後が問題だ。あの時、目付方の二人を斬殺した直後に何故自害しなかったのか……何故、盗賊の仲間に入り、何人も町人を斬って罪を重ねてしまったのか……その挙げ句にこのざまだ。愚か者、臆病者と笑ってくれ」

「旦那様は愚か者でも臆病者でもございません。どうして笑うことができましょう」

「臆病者でなければ、この有り様は何なのだ?」

「この世に思いを残す人がいらっしゃるからです。わたくしは良いことだと思います」

 今朝、伝吉が言ったセリフではないか。果たして邦枝がそんなことを言うだろうか。内心では首を傾げながら般右衛門は妻の声に答えていった。


「榊源二郎の変わりゆく姿を見たいと思ったのが、死への恐怖を感じるきっかけだったが……そう思ったが……今ではわしの臆病風が言い訳を見つけただけの気がしている」

「相変わらずご自身にお厳しいこと」

 ふふふと邦枝の笑う声が聞こえた。

「そちに死んでほしくはなかった……生きていて欲しかった……」

 それは本音だ。生きていて欲しかったからこそ、離縁したのだ。

「旦那様のお考えに逆らいましたか?ですが、わたくしは旦那様ほど強くありませぬ」

 確かにあのまま故郷で暮らし続けるのは難しかっただろう。しかし、邦枝には近隣の御領分に親戚がいるのだ。般右衛門は、すぐに故郷の御領分を出てその親戚を頼るよう告げていた。しかし、邦枝は実家に居続け、そこで自害した。


 月命日には必ず妻のことを思い浮かべていたが、由治の仲間に入って以降は月命日以外に思い起こすことはほとんどなく、夢に見ることもなかった。

 妻より弟の源次郎を思い出す方が圧倒的に多かった。弟と一字違いの榊源二郎と出会ったことと、女人との関わりを避けてきたからかもしれない。


「明日は獄門という時にそちの声を聞くとはな……勝手な言い種だが、わしを支えてくれ。市中引き回しの間に無様なことをしでかさぬよう……斬首直前に狼狽える様を見せることのないよう……」

「あなた様を支えるのは、そのために思い浮かべると良いのは、わたくしや弟の源次郎殿ではなく榊殿ですよ。これからも生き続ける榊殿に、どのようなあなたを覚えていてもらいたいのでしょう?」

 般右衛門は妻の言葉に愕然とした。

「思いを残す人のために残したいものは何でしょう?何をしてあげたいのでしょう?」


 この世から消え去る恐怖は消えない。しかし、盗賊の上に兄の仇であるにも関わらず般右衛門を慕ってくれる源二郎に、自分はどんな姿を見せたいのか。源二郎にとって何が良いのか。

 妻が投げてきた問いへの答えを考えているうちに、般右衛門が感じていた動機と息苦しさが少しずつおさまっていった。



 気がつくと、小鳥の囀りが聞こえていた。そして、暗い視界に微かに見えたのは、揚り屋の板壁だ。少しの間眠っていたらしい。

 ――邦枝の声が聞こえたのは夢か……


 般右衛門は夜明けを迎えた外鞘の土間を見た。なぜか揚り屋以上の闇に見えた。

 しかし、もうすぐ淡い光が差し込み始める。この世の見収めの光だ。

 光が差し込むのを般右衛門は待った。それまでの一刻、一刻がいとおしい。


 ――源二郎に何も後悔させてはならない。町方の同心としてだけでなく、人として正しいことをしたのだから。


 今度こそ、間違いなく腹が据わったと般右衛門は思った。

 夢に出てきた妻に感謝した。

 源二郎との出逢いにも感謝した。

 これからの源二郎の成長を見れない悲しさ、心残りはある。この世から消える辛さ、怖さも消えてはいない。

 目は落ち込んでいるような感じがしているし、天井を見上げただけで目眩がした。顔色は悪く、おそらく目の周りには隈ができているだろう。

 それらの負の感情を抱え、体調に異変を感じながらも、源二郎に見せなければならない最期がある。

 白井般右衛門、本名、黒木半右衛門の全てを懸けて、死への恐れを抱いたまま、心を残す者のためにやり遂げるのだ。



 扉が開く音が聞こえた。

 いよいよ市中引き回しである。

 般右衛門の顔に笑みが浮かんだ。









  ―― 完 ――









 * 元々は、型抜きした飯のこと。江戸時代に牢屋で「物相」という四角い器で山盛りの粗悪な飯が賄われたことから、物相飯=臭い飯=牢獄の飯をさすようになったらしい。(個人的には江戸時代の牢屋の不衛生な環境が、特に悪臭が、普通の白米でも不味いと感じさせただろうと思います)



主な参考文献: 江戸町奉行所辞典



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