思い出
「うるさい! 俺のことなんかどうだっていいだろう!」
この期に及んで、一体何の心配をしているのか。
「どうでもよくなんかないよ。……キミが幸せになれなかったら、舞鼓が悲しむ」
それを耳にした瞬間、記憶の片隅で彼女が微笑んだ。
——あなたもよ、龍臣。あなたも幸せにならなくちゃ。
わかっている。
彼女はそういう人だ。
「祓川。キミが不幸になったら……何も意味がない。舞鼓を幸せにしたいのなら、キミも幸せにならなきゃ」
「黙れ! もとはといえば君がいたからじゃないか!」
荒ぶる感情に任せて、祓川はついに刀を抜いた。
そしてその鋭い切っ先を、狭野の喉元へと突きつける。
これで全てを終わらせる。
狭野の呪縛から、高原を解き放つ。
今ここで彼を殺せば、彼女は自由になれる——そう、わかっているはずなのに。
なぜか、手の震えが止まらない。
「君は後悔していないのか、狭野。俺と関わらなければ、俺のことなんか放っておけば、こうして俺に殺されることもなかったんだぞ」
「それだと……キミの気が晴れないでしょ」
「なぜ情けをかける。こんな醜い人間に。俺は、君を殺そうとしているんだぞ! なのに、どうして」
手汗で滑りそうになる柄を、固く握り直す。
狭野は割れた面の隙間から、わずかに和らいだ目をこちらに向けながら答えた。
「……友達だから」
トモダチ。
およそ祓川とは無縁の言葉だった。
けれど、無縁であるはずのその言葉を、子どもの頃にどこかで耳にしたことがある。
——祓川って、友達思いなんだね。
あの日だ。
三人がまだ小学生だった時分。祓川は父に黙って、狭野と高原を宝物殿へと招き入れた。
あのとき狭野は、あろうことか祓川のことを『友達思い』などと評したのだ。
幼い頃から神に仕え、友達など作れなかった自分に対して。
——とっ……友達じゃ、ない!
自分には友達などいない。そう反論しようとしたものの、二人は聞かなかった。
——えー、友達でしょ? ねえ、笙悟。
——うん。僕は祓川のこと、友達だと思ってるけど。
淀みのない声でそんなことを言われて、あのときの祓川は二の句が継げなかった。
胸が高鳴った。
あんな風に誰かと談笑するのは初めてだった。
楽しかった。
あの時間が永遠に続けばいいのにと思った。
いつのまにか忘れてしまっていた思い出。
それが今、鮮明な色を持って蘇る。
あの日の二人は祓川のことを、『友達』だと、確かに言ったのだ。
「なんで……どうして。だって、何の利益もないじゃないか。君たちは俺に対して、特別な感情を抱いているわけじゃない。俺に愛想を振りまく必要なんてないし、それで俺に嫌われたって、君たちには何の関係もないだろう」
「……そんなに深く考えるようなことでもないよ。キミが辛そうにしているときは僕も心配になるし、笑っていてくれたらそれでいいって思う。友達って、そういうものじゃないの?」
「違う。違う、違う! 俺には友達なんていない。今までも、これからも!」
勢いのまま、祓川は再び刀を掲げた。
「俺はずっと独りだったんだ。だから君とだって、絶対に友達なんかじゃない!」
そうして一息に、渾身の力で腕を振り下ろした。
研ぎ澄まされた刃が、狭野の眼前へと迫る。
その様子を、狭野は何もかもを受け入れたような瞳で静かに見つめていた。
ドッ、と重い音が辺りに響いた。
刀の切っ先は、狭野の首の、すぐ隣の床へと深く突き刺さっていた。
「……祓川?」
狭野に呼ばれて、祓川は返事もできなかった。床に刺さったままの刀から手を離し、狭野の隣へ、崩れ落ちるようにして膝をつく。
最初からわかっていた。
高原はこんなことを望んでいない。
彼女はただ、ありのままで生きようとする人だった。
この狭野のように。
「……笑えばいいさ、狭野。俺は今まで、独りで一体何をしていたんだろうな? 子どもの頃からずっと、何年も何年も鬼の面を被り続けて。いつのまにか、俺自身が鬼になってしまったらしい」
「……キミは鬼なんかじゃないよ。僕のことも、こうして許してくれたじゃないか」
すぐ目の前にある刀を見つめながら、狭野は言った。
その声で、祓川は自らがギリギリのところで踏みとどまったことを知る。
——お前は、私のようにはなるな。
父の最期の言葉が思い出されて、情けなさでどうにかなりそうだった。
あれだけ忠告されていたのに、あともう少しで、『友達』を殺すところだった。
たまらず、目頭の奥が熱くなる。
やがて何度目かになる笛の高音が雑木林に反響して。
神楽囃子の音が、止んだ。




