岐路
「何だって!駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
「エショナは僕等の事を信用して打ち明けてくれたんだよ。何とかしてあげなきゃ。」
カーベルを休憩させるために立ち寄った小川のほとりで、アルジはメキリオを少し離れた場所に引っ張って行き、自分の考えを話した。エショナが隣国セニエスランドに密出国しようとしている事、このままシャルアに連れて行っても彼女にはそれ以上自力で行動する手段が無い事、だったら、自分達2人でセニエスランドまで連れて行ってあげよう、と。
「お前は自分の仕事を忘れたのか。岩塩はどうする。」
「忘れてないよ。だから、シャルアに急いで行って、岩塩を売ったら、その足でエショナをセニエスランドまで連れて行ってあげようよ。」
「駄目だ。セニエスランドまでどのくらいあると思っているんだ。第一、密出国だぞ。もし見つかったら、俺達は豚箱行きだ。そこまでする義理は無い。」
「メキリオだってエショナを助けたいんだろ。そうじゃなきゃ、ここまで連れて来ないよね。大体、最近野宿しないじゃないか。それだって、エショナのためを思ってだろ。」
「そうじゃない。そう…あの村を襲った『同盟』の連中がエショナを助けたと知ったら、俺達を襲って来ないとも限らない。そんな危険を冒す訳に行かないからだ。」
メキリオの言い方は如何にも説明臭い。
「どうやって襲撃犯が僕達の事を知るんだい?あの時、村にはもう誰もいなかったし、エショナはずっと荷台の幌の中に隠れていたじゃないか。」
「そうじゃない。」メキリオは、隣町の警察官が生存者の有無を最初から聞かなかった事や、その警官にメキリオが要らぬ挑発行為をしてしまった事は口に出さない。「もう良い。この話は終いだ。」
メキリオは勝手に話を打ち切ると、先に馬車の元に戻る。馬車から外されて小川の水を飲むカーベルの脇で、エショナがカーベルのたてがみを撫でているのを見つけて、メキリオは足を速める。濡れるのもお構い無しに、水しぶきを上げながら小川の中を歩いてエショナに向かう。近付いて来る派手な水音に、何事かとエショナが振り返る。
「おい、お前、上手くやったつもりか。」
メキリオが、エショナに迫りながら腹から声を絞り出す。エショナは状況が理解できずに呆けた顔をしている。少女の胸倉を掴みそうな勢いで迫るメキリオとエショナの間に、メキリオの後ろから駆けて来たアルジが割って入り、メキリオの肩を両腕で押す。メキリオはアルジを一瞥すると、アルジを払い除けようともせずに、力任せに押し切ろうと前に踏み出す。アルジもそうはさせじと、体を前傾させてメキリオを止める。
「エショナに当たるのは違うだろ!」
アルジは必死で踏ん張る。暫くメキリオはアルジと力比べをしていたが、アルジの意思の強さを確認すると押すのをやめた。アルジも力を抜いてメキリオの両肩から手を放す。代わりに両腕を水平に広げ、メキリオを通せんぼして睨んでいる。
「ふん。」
メキリオは鼻であしらうと、脇に逸れてカーベルの手綱を取る。気を緩めたら、メキリオがエショナに襲い掛かりはしないか心配なアルジは、メキリオの動きに合わせて、エショナとの間に自分の体が入る様に位置を変える。そんなアルジなど無視して、メキリオはカーベルを馬車まで連れて行く。遠ざかるメキリオを見届けて、アルジは広げた両腕を下ろした。
「…ねえ、何があったの?」
恐る恐る、アルジの背後からエショナが声を掛ける。
「別に。ちょっと言い争いになっただけさ。意見が食い違っただけで、良くある事だよ。」
アルジは笑顔でエショナを振り返る。エショナは何だか納得いかない顔でアルジとメキリオを見比べている。
「行くぞ。支度しろ。」
カーベルを馬車に繋ぎながら、振り向きもせずにメキリオが叫ぶ。アルジとエショナは急いで小川を上がり、土手の上の馬車まで走った。
首都シャルアに近付くにつれ、道を行き交う人や馬車の数は徐々に多くなっていく。山脈を南から北に越えた時は、丸一日、すれ違う人影を見なかった。虐殺が起きた村を目の当たりにした衝撃と重たい天気も作用して、世界の果てに放り出された気分になった。山を下り、平野に出ると、点在する1つ1つの町の規模は大きくなり、農夫や職人、老人から子供まで、様々な人とすれ違う。辻馬車と行き会いもする。他のトルドーの馬車とすれ違う事もある。晴天にも恵まれ、エショナと会話する時間もできて、自然とアルジの気持ちは明るくなった。
小川を出てから、メキリオは不機嫌な顔で押し黙り、手綱を操っている。
「ねえ、あの黄色い花はなんていうの?山では見かけなかったよね?」
アルジは意識して荷台に座るエショナに話し掛ける。メキリオの不機嫌を気にさせないためには、それが1番だ。
「さあ…。私の住んでいた村は山の中だったから、あの花は咲いていなかった。でも、綺麗な花ね。」
エショナも気にせず話してくれるが、2人が会話する程、押し黙るメキリオが浮き上がってしまう。その雰囲気に飲まれて、途中でアルジも話すのをやめてしまった。
山間では町にかたまっていた家々も、平野部になると町でなくても街道沿いに家を目にする。メキリオはそんな道沿いの大きな家の前で馬車を停めた。
「昼飯にするぞ。」
馬車のブレーキを引きながら、メキリオはアルジ達を見て言う。声のトーンでメキリオがそんなに怒っていないと分かり、アルジは内心ほっとする。
アルジとエショナがどうして良いのか迷っている中、メキリオはさっさと馬車を降りて、目の前の大きな家の戸口に向かって歩いていく。戸口には、木の板が置いてあり、何やら料理の名と思しきものが書かれている。
「メキリオ、飯屋で昼飯を食べるのか?」
アルジは馬車を飛び降りる。
「ああ。」
メキリオは家の扉を引き開けながら答える。
やったぁ!いつも同じ、硬い干し肉と色の悪い粉っぽいパンの組み合わせに飽き飽きしていたところだ。
アルジは飛び上がらんばかりに嬉しかったが、声や態度には出さない。当たり前の様な顔をして、店に向かって歩いて行く。
「路銀は大丈夫?」
小走りにメキリオの後ろに近付いて、小声でそんな事を言う。自分が喜んでいるのをメキリオに知られるのは死ぬほど嫌だ。絶対何か揶揄うのに決まっている。
料理屋は空いていた。さして広い空間ではない。一目で見渡せる店内に客の姿は無い。午にはまだ少し早い時間帯だとは言え、商売になっているのだろうか。メキリオ達は、一番奥の席に腰を下ろした。奥の壁際にフードを被ったままのエショナ、並んでアルジ、アルジの向かいにメキリオ。
「いらっしゃい。」
奥から小太りの男が出て来る。風体からここの主人だろう。首に薄汚れたバンダナを巻いているところから、サニキス人だ。
「何にしましょう?」
「今日は何がお勧めだい?」
近寄って来た店主にメキリオは訊く。
「そうさね。ジャガイモと子牛のシチュー。」
店主の前歯が1本抜けていて、喋ると息が漏れる。干し肉ばかりだったアルジにしてみたら、何だか途轍もないご馳走に聞こえる。
「じゃあ、それを。…お前達は?」
メキリオがエショナとアルジを見る。
「僕も。」
育ち盛りは即答する。料理の名前を聞いただけで腹の虫が反応している。エショナはメキリオを見て、黙って頷く。
「じゃあ、3つ貰おうか。」
メキリオが店主を見上げて答える。
「へい。…あんた等、トルドーかい?」
店主の問いに、メキリオは彼を見上げたまま黙っていたが、代わりにアルジが返事する。
「そうだよ。」
「そうかい。身なりからオーベル人じゃないと思ったよ。」
「オーベル人だったらどうするんだ?」
メキリオがすぐに訊き返す。
「いいや、別に。誰でも、お客はお客だ。」
店主は答えながら、奥へと消えていく。
「ちょっと、トレイに行って来る。」
冷たい目つきで店主の後ろ姿を見送った後、メキリオはそう言って立ち上がると、店の外に消えた。
「店で食事をするなんて初めてだよ。」
アルジは何だか黙っていられない。
「夕飯はトルディア商会の建物で頂いているじゃない?」
「ギルドは別。自分でメニューが選べる訳じゃない。」
「そうだけど、テーブルで待っていれば食事が出て来るなんて、それだけで凄い事だよ。」
「そうかも知れないけど、雰囲気だよ、雰囲気。こうやって、注文聞いてくれるってなんか良いじゃん。いつも昼飯は道端でパンをかじってばかりじゃないか。」
「アルジは随分不満だったのね。」
エショナがクスリと笑う。
「そうだよ。」両手の親指と人差し指で自分の前に丸い円を作って見せる。「これくらいのパンだけじゃ、満腹にならないよ。」
「だから、夕飯が待ち切れないのね。」
エショナが口元を押さえて声を上げて笑う。
「エショナ、ここはサニキス人の店だから、フードを取って良いよ。」
アルジはエショナのフードに手を伸ばし、フードを外そうとする。エショナも両手を出してフードを外す。フードの中に押し込められていた栗色の髪が姿を現す。頭の後ろで窮屈に折り重なっていた髪が、波打つ奔流となって彼女の背中に流れ下る。エショナは青い瞳で微笑む。
もっと、この笑顔を見ていたい。
アルジは言葉を失ってテーブルに目を落とす。
「おい、何をしている。」
声に気付けば、メキリオがトイレから戻って席に着くところだ。メキリオはエショナがフードを取っている事を咎めている。
「ここは、サニキス人の店だから大丈夫だよ。他にお客もいないし。」
アルジは、メキリオの詰問に戸惑いながら言い訳する。
「はい、お待ち遠様。」
店主が料理を運んで来る。2、3度往復して3人分の料理を運び終わると、フードを外したエショナに目が留まる。
「おや?あんた…そう言う事かい。」エショナを見て店主は勝手に納得すると、メキリオに矛先を変える。「どんな口説き文句を使ったか知らないけれど、分をわきまえてもらいたいもんだ。住む世界が違う。」
「ご主人、何か勘違いしている。この子は目的地まで連れて行く途中だ。私とは関係が無い。」
メキリオは、椅子に座ったまま体ごと店主に正対して、精一杯穏やかに話す。
「だったら、最初からフードなど被せておかなくても良い。第一、何故連れて行かなきゃならないんだ。」
「あの…、本当です。私はこの人達に助けてもらいました。」
エショナが声を上げる。店主が今度はエショナを見据える。
「あんた、どういう理由かは知らないが、仲間を貶める様な事が無いよう、気を付けるんだな。」
自分の言いたい事を言いきると、店主は厨房へ消えていく。メキリオはテーブルを見つめて黙り込む。頬の筋肉が動き、歯を食いしばっているのが分かる。エショナも下を向いて押し黙る。
一体何が悪いのか。サニキスの少女を連れているのがトルドーの僕達だからか。店主が言っていた『分』ってなんだ。アルジには分からない事ばかりだ。
午後には荷馬車が悲鳴を上げた。馬車が揺れる度に大きな音をたて、カーベルが重そうにしているのを見て、メキリオが異変に気付く。アルジが手綱を握っていたが、メキリオが道端の空き地に停めさせる。馬車の下に潜ってみると、後車輪の軸受けにヒビが入り、もう少しで割れてしまいそうだ。
「うーん。これは敵わん。どうするか。」
馬車の下を出てその場にしゃがみ込むと、メキリオは頭を抱えた。
「町まで行ければ、鍛冶屋が無いかな。ギルドがあれば、修理できる筈なんだけど。」
そう言うアルジも、メキリオならそんな事、とうに承知していると分かっている。
「町まで10キロはある。それまでこの軸受けが持てば良いが、途中で壊れたらどうにもならないぞ。それにたとえ何とか持ったとしても、カーベルがへばっちまう。…何で、今日はこんなついてないんだ。」
メキリオは小石を拾って、叢に向かって放り投げる。ついてない。今日、ずっとメキリオは不機嫌だった。アルジがエショナをセニエスランドまで連れて行く話をしたところからだ。飯屋で店主と口論になったのも、アルジがエショナのフードを外さなければ起きなかった。軸受けが壊れるのはアルジのせいじゃないけれど、メキリオにそう愚痴られると、全部自分が災いを引き寄せて来た様に思えて、アルジは黙り込んだ。
「10キロなら、走って行って、日暮れ前までに鍛冶屋を連れて戻れるか…」
メキリオは独り言を言いながら考える。
「僕、町まで行って来るよ。」
アルジは兎に角、救われたい一心だ。
「お前は、町の場所も鍛冶屋の場所も知らない。道に迷ったら、どうする。」
「大丈夫だよ。道を通る人は多いから、分からなかったら、誰かに訊くよ。」
「お前の足じゃ、日暮れまでに戻れないかも知れない。第一、鍛冶屋が相手をしてくれるかどうか…」
「だったら、ギルドに行くよ。ギルドなら、替え馬だってあるだろうし、トルドーを見捨てない。」
早くしなけりゃ。アルジは焦ってくる。
「待て、一度ここを出たら、もう他の手が打てなくなる。良く考えてからにするんだ。」
何だか、メキリオが煮え切らない様でもどかしい。
「一体、どうしたのですか?」
声で気付けば、初老の男が馬車の陰から覗き込んでいる。メキリオ達3人は、突然現れた見知らぬ男を只見つめる。
「何だか、お困りの様ですね。」
男は眼鏡をかけ、頭頂部が剥げて輝いている。白いシャツの袖を捲り上げ、サスペンダーでカーキ色のズボンを吊っている。
「ええ、軸受けが割れてしまって。」
メキリオが困った顔のまま答える。
「え?軸受け?」
男は馬車の下を覗き込む。
「ほら、ここです。」
メキリオも一緒になって覗き込みながら、割れた軸受けを指差してみせる。
「ああ…、これじゃあ、長く持たない。」
「ええ、でも町まではまだ距離があるので、そこまではとても無理そうで困りました。」
「ああ、町まで行かなくても、私の知り合いの鍛冶屋が1キロくらい行った所にありますよ。良ければ、案内しましょう。」男は立ち上がりながら、馬車の荷台を覗き込む。「とは言え、この荷では、重くてそこまでも持つかどうか…。じゃあ、こうしましょう。荷物は私のワゴンに載せ替えて行きましょう。手伝ってもらえますか?」
男はメキリオに笑顔を作って見せる。
「でも…」
メキリオは、突然現れた見知らぬ男にそこまで世話になって良いのか逡巡している。
「ああ、私が大事な荷を持ち逃げしてしまわないか心配ですか?…だったら、こうしましょう。どなたか私の馬車に乗ってください。ああ、どうせなら、こっちの馬車は御者になる人1人の方が軽くて良いですね。残りのお2人は、私の馬車に乗って、私が変な事をしない様に見張っていて下さい。」
「そこまでしてもらっても、何もお返しできる様な物がありません。」
「そんな事、気にしないで。困った時はお互い様。私が困った時は、違う誰かが助けてくれますよ。」
男は声を立てて笑う。
「ありがとうございます。私はメキリオです。」
メキリオは立ち上がって、男に右手を差し出す。
「ルカンです。」
ルカンと名乗る初老の男は、メキリオの手を取ると、固く、短い握手をする。
「じゃあ、荷物を移しましょう。私の馬車は前に停めてあります。」
ルカンは馬車の前方を指差す。
「荷物を運んでくれ。」
メキリオはアルジに指示を出す。アルジは1つ大きく頷くと、荷台に飛び乗り、荷台一杯に並んだ岩塩のジュート袋の中から目に付いた袋を持ち上げる。
「私も。」
エショナもアルジに倣って、袋を持ち上げようとする。
「良いよ、重たいから。これは男の仕事だ。」
アルジは袋を持って馬車から飛び降りる。
「馬鹿にしないで。村じゃ、丸太だって運んだんだから。」
エショナは自分だけ先に馬車から飛び降り、荷台からジュート袋を引き摺り下ろして、胸の前で抱える。
馬車の前方に回ると、ルカンのものらしき馬車がすぐに見える。四角い荷台の四方をあおり板で囲っただけの簡素な造りだ。アルジは荷台に袋を下ろすと振り返る。後ろから重そうに袋を抱えたエショナが来るのが見える。
「負けず嫌いだなぁ。」
エショナの様子を見ながら、服の袖で鼻下を擦る。
「エショナ、じゃあ、この馬車の荷台に乗って、僕やメキリオが運んで来る袋を奥から並べてくれ。」
荷物を持ってなんとか馬車まで辿り着いたエショナは素直に頷く。
メキリオとアルジが運び手になり、メキリオの馬車の上にはルカンが、ルカンの馬車の上にはエショナが乗って、荷物の整理をした。岩塩は相当な量だ。メキリオの馬車よりも小振りなルカンの馬車に載せると、1段では並べ切れず、前半分は2段になった。
「軽くなったから、1キロくらいは持つでしょう。」
ルカンは、まだ元気そうなカーベルの首を叩きながら言う。
「ええ、何とかなると思います。後ろから付いて行きます。」
メキリオは御者台に上ると手綱を手に取る。
「じゃあ、2人は私の馬車に。」
ルカンが先に立って、自分の馬車に乗る。隣にアルジ、荷台にエショナが座る。ジュート袋が一面に転がっているので、アルジが、自分に近い一角の袋をどかし、そこに自分の毛布を敷いて、エショナの座る場所を作る。ルカンはちゃんとエショナが座るのを見届けてから口を開いた。
「君達の名前を教えてくれるかい?私はルカンだ。」
「僕はアルジ。」「私はエショナ。」
「よろしく、アルジ。よろしく、エショナ。」ルカンは1人1人と握手を交わす。「じゃあ、出発するよ。エショナさん、時々後ろを見て、馬車がちゃんと付いて来れているか確認してくれるかい?アルジ君、私が何か変な事をしないか、ちゃんと見張っているんだよ。」
悪戯っぽい目がアルジに笑いかける。
ルカンの馬は葦毛で立派な筋肉が付いている。力に不足は無さそうだが、今まで空の荷馬車を牽いていたのが、急に満杯の重たい馬車になって驚いている事だろう。
「ジョクモック、頑張ってくれよ。」
手綱を操りながら、馬に話し掛ける。ルカンの気持ちが通じているのか、ジョクモックと呼ばれた馬は、アルジの心配をよそに軽やかに歩を進める。
動き出して暫くしたところで、アルジはエショナを振り返ってフードが外れている事に気付く。頭を殴られた様なショックを感じ、汗が噴き出してくる。いつ外れたのだろう。さっき、荷物を移動している時だろうか、それとも、馬車に乗って風に煽られたのか。エショナ本人も気付いていないのか、メキリオの馬車を気にして、後ろばかり見ている。もし、馬車に乗ってから風に煽られたのなら、自分で気付くだろう。ならば、随分前から外れていた事になる。
ルカンは?ルカンは前を見たままだ。エショナの組紐に気付いていないのか、知っているけど黙っているのか、気にしていないのか。そもそも、ルカンは何者だろう。バンダナを巻いていないところをみると、サニキス人ではないだろう。オーベル人だろうか。トルドーなら、自分達を見た時に、仲間であると言いそうに思う。
「ルカンさんは、オーベル人?」
恐る恐る、アルジは話し掛ける。
「ん?ああ、アルジ君はそういう事が気になるかい?どれに相当するかと言われれば、確かにオーベル人だねぇ。」
ルカンは前を見たまま、静かにアルジの問いに答える。
「ルカンさんは、気にならないの?」
「ならないよ。私が知らない人に会った時に知りたいのはその人の名前だけさ。君ならば、アルジって分かればそれで良い。」
本当だろうか。もし、エショナがサニキス人だと分かっても、同じ様に穏やかなルカンのままでいられるのだろうか。同じサニキス人の店主ですら、態度が豹変した。アルジは問い質したい誘惑を振り切って、隙を見てエショナの頭にフードを被せた。
鍛冶屋まではルカンの言う通り、さして時間がかからなかった。街道から脇道に逸れて、暫く行った所に広場があり、そこで鍛冶屋が営まれていた。
「ナジフ、お客を連れて来たよ。」
馬車を降りながら、ルカンは声を上げる。金床に槌を打ち付ける、リズムの良い音が掘っ建て小屋の中から聞こえている。ルカンは入り口から中を覗くと、もう一度同じ事を言う。槌音が止まる。ルカンは入り口で暫く中を覗いたまま立っていたが、やがて若い筋肉質の男が姿を現した。ルカンと何か一言二言交わしながら、こっちに向かって歩いて来る。火の傍での仕事だ、全身汗だらけになっている。黒い縮れ毛の頭と鼻下から顎まで覆う、黒い塊の様な髭で顔ができている。2人は、メキリオの馬車の裏を覗き込む。
アルジは、ルカンの馬車を降りてルカン達の会話を聞きに近付く。エショナもアルジの後から付いて来る。
「これは、もう使えない。代わりになる軸受けなら作りかけの物がある。形を整えて、真鍮を嵌めれば役に立つだろう。」
ナジフは少し皴枯れた太い声をしている。
「台枠を持ち上げて、軸受けを外そう。」
ナジフは道具を取りに、小屋に戻りかけて、メキリオを振り返る。
「馬には草と水をあげると良い。小屋の脇にあるから、勝手にやってくれ。」
「済まない。遠慮なく戴くよ。」
アルジはメキリオを手伝って、カーベルを荷馬車から解放すると、小屋脇に連れて行って、馬草と水を与える。その間にナジフはジャッキを持って戻ってくると、馬車の後部を持ち上げ、後輪を浮かせる。
「さあ、暫くかかるだろう。私達は向こうで待たせてもらおう。」
ルカンはメキリオ達の所に来て、掘立小屋と鍵の字の位置に建てられた、もう一つの小屋へと誘う。4人は連れ立って、その小屋の扉を開けて中に入る。どうやら、ナジフが仕事の合間に休憩で使っている小屋の様だ。
車輪を外し、軸受けを取り外したナジフが掘立小屋の中に消えると、暫くして中から作業する槌音が漏れて来る。
休憩小屋の入口を入ったアルジは低い梁に掛けられた布を見て立ち止まる。黒く染められた布には白とオレンジの刺繍糸で細かい幾何学模様が縫われている。
「ああ、それはナジフのバンダナだね。」ルカンがアルジの視線に気付いて声を掛ける。「仕事中は暑くて邪魔だから外しているのさ。」
バンダナがあると言う事は、ナジフはサニキス人と言う事か。バンダナを外す事に抵抗の無いサニキス人もいるんだ。
アルジは声に出さずに、自分の中で理解する。
「皆さん、お茶でもどうだね。…ああ、適当に座って。」
ルカンは休憩小屋の中を熟知しているのか、迷いもせずに食器棚からカップを4客取り出し、かまどに置かれたヤカンを手に取り、濾し器を使って紅茶を淹れる。
「すいません。ルカンさんは、私達に付き合っていて大丈夫ですか?」
メキリオは木の椅子に座ってテーブルの上に麦わら帽子を置く。
「ああ、気にしなくて良いですよ。私はもう、家に帰るだけなので。それにナジフは義理の息子でね。こうやって勝手にくつろいでいる次第です。」
「あれ、ルカンさん、オーベル人って言ってたよね。」
思わずアルジは訊き返す。ルカンはすぐには答えず、4客のカップを木のテーブルに運び終えてから、アルジに微笑みかける。
「君はやっぱり、それが気になるのかい。私はルカン、鍛冶屋はナジフ。君はアルジ。それだけじゃ駄目かい?」
アルジは何と答えて良いか分からず、口を半開きにして黙っている。
「確かに私はオーベル人でナジフはサニキス人だ。私の娘は、サニキス人の所に嫁いだ。何の問題もない。君はトルドーだから、その辺の扱いを間違えると大変な事になると教わってきたのだろうけど、大半の人はね、サニキス人だろうと、オーベル人だろうと、気にしないで仲良く暮らしているものなんだ。私の家の隣には、サニキス人夫婦が暮らしている。畑で野菜が採れると、お裾分けをしてくれるよ。私は畑を持っていないからね。代わりと言っては何だが、夕食に招待する事にしている。」
ルカンは話を区切ると手近な椅子に腰を下ろし、テーブルからカップを取って、紅茶を一口啜った。その間誰も喋らなかった。メキリオは黙って席を立つと、窓際に行き、外を眺めている。
「アルジ、君は私と何のわだかまりも無く話しているよね。何故だい?」
急に質問され、アルジは答えに窮した。
「ええと。別に何も気にしていないからかな。助けてくれた人だし、普通な感じだし。」
何とか、思うまま口にする。
「ふうん。信用してくれてありがとう。…君は人が属すグループを気にするくせに、応対はそれぞれの人がどんな人かで決めているのじゃないかい?現に、サニキス人のエショナさんと親しいからと言って、私と距離を置くような事はしない。」
やっぱり、エショナの組紐はルカンに見られていたんだ。
メキリオに後で酷く怒られないか、アルジは心配になる。
「責めているのじゃない。それで良いと思うよ。泥棒はオーベル人にもサニキス人にも、君達トルドーにだって居る。逆に良い人も同じだ。私はそう思っている。人は生まれや宗教や、容貌や貧富で判断するのじゃない。その人が何を話し、どう行動するかで判断されるべきだよ。」
「…そんなの…そんなの偽善じゃない!」
不意に、それまで椅子に座って身じろぎもしなかったエショナが声を上げる。驚いて、他の者達はエショナを見遣った。エショナはテーブルの上のカップを見つめたまま、それ以上声を出さない。
「エショナさん、あなたが何を経験したのか。良かったら教えてもらえないかい。」
ルカンはエショナの様子を見て、優しく語り掛ける。それでもエショナは何も言わない。ルカンを見る事さえない。
「話したくないのだね。」
ルカンは紅茶のカップを口に運び、また1口啜る。
「エショナは、山の村に住んでいたんだけど…」
「アルジ!やめろ!」
代わりにとアルジが話し始めるや、メキリオの大きな声が彼を制す。
「エショナさんに非難されても仕方ない。私等は変える事ができていないのだから。」
アルジとメキリオのやり取りを見て、ルカンはカップをテーブルに置きながら、独り言の様に呟く。誰も反応しない。アルジはメキリオに一喝されて、口を開けなくなった。
「でもね、諦めちゃいけないと思うよ。こんな老人に力は無い。けれど、こうして若い人達に話し掛ける事はできる。自分の行動で示す事もできる。…メキリオさん。あんたも、そう思っているだろ。」ルカンは椅子の上で上体をひねって窓際で外を見たままのメキリオに話し掛ける。「だから、エショナさんを連れているのじゃないかい。」
「やめてくれ。俺はそんなのじゃない。」
メキリオは声高にルカンの言葉を打ち消すと、大股に部屋の中を横切って戸口から外に姿を消す。
「やれやれ、余計な事を言ってしまったかな。」
ルカンは俯いて自分の禿げた頭を手で撫で回した。
軸受けの修理は日が傾くまでかかった。修理が終わるまでの間、荷物をルカンの馬車から移す訳にいかず、ルカンもナジフの休憩小屋で一緒に待っていた。メキリオが小屋から出て行ってしまった後、ルカンはもうオーベルやサニキスの話をしなかった。メキリオの馬車の荷が何か訊き、首都シャルアまで運んで売るとアルジから聞くと、シャルアについて話した。シャルアが他と比べようが無い程大きな町である事、整然とした街並みが訪れる者に特別な場所である印象を与え、そこを行き交う人達も選ばれた特別な人達に思えてくる事を、丁寧に話して聞かせた。アルジは話を聞きながら、気取った都会の風景を頭に思い浮かべ、そんな街を当たり前の顔で闊歩する自分の姿を重ねてみたりした。
ああ、早く、少しでも早くシャルアをこの目で見てみたい。
でも、シャルアに着けばエショナとの別れが待っている。本当にエショナをシャルアに送り届けるだけで、自分は納得できるのだろうか…。
「もうすぐそこだ。無事に着けると良いね。」
修理が終わり、メキリオ達が鍛冶屋を後にする時、ルカンはその場に残って、ナジフと一緒にメキリオ達を見送りながら、アルジに別れの挨拶をした。
「ありがとう。ルカンさん、ナジフさん。」
アルジは手綱を持つメキリオの隣で、御者席からルカン達に手を振った。
貧しくても自分たちの教えを守りつましく生きるサニキスに対して、富に拘り享楽を求め、驕慢に振る舞うオーベル。メキリオの話を聞き、ここまでアルジが見て来た光景から勝手にそう決めつけていた。しかしこうして、ルカンとナジフに会って、彼等と話している内に何だか分からなくなった。
『それぞれの人がどんな人かで決めている。』ルカンはアルジの人との接し方をそう言った。言われてみて、初めて考えてみた。自分はトルドーで、オーベル人ともサニキス人とも距離を保つ事を意識している。自分ではそう思っていたけれど、何だか怪しい。エショナと話していると楽しいし、メキリオと話す時とエショナと話す時で区別なんかしていない。さっき会ったばかりのルカンと話す時だって、無意識に同じ話し方をしていた。初めて会った時は気にするけれど、話し始めてしまえば、何人かなんて関係ない。同じ様に話し、同じ様に笑い、同じ様に泣くからじゃないか。一つの人種に属する人だからってみんな同じ性格なのじゃなくて、一人一人個性が違う人間な事も理解できる。エショナはサニキス人だが、南部の都市ザルケスタンで見た人集めを生業にしていたジェジベルもサニキス人だ。結局、何が本当で、どうすれば良いのだろう。
暗闇が迫る道を走る馬車の上で、アルジは物思いに耽っていた。幸い、手綱を握るメキリオも、荷台に座るエショナも、黙り込んでそれぞれの世界の中にいた。隣町のトルディア商会支部に着いたのは、すっかり陽が落ちた月明りの中だった。
「明日はシャルアだ。」
支部で借りた部屋は3人が一緒に泊まれる大きな部屋だった。夕食を済ませて部屋に入ると、メキリオが2人に短く告げる。短い言葉だが、アルジの中の血を湧き上がらせるには充分な言葉だ。メキリオの言葉を聞くや、アルジはやおらメキリオの前に立って、大きく深呼吸をしてから声を張った。
「メキリオ、岩塩を売ったら、僕はエショナをセニエスランドまで連れて行く。メキリオが行ってくれないなら、利益から僕の取り分をくれよ。僕1人でも連れて行く。」
これはアルジにとって賭けだ。自分の意思が固いとメキリオに知らしめて、話に乗ってもらわなければ、文字通り話にならない。
「ふん、お前の取り分がどれだけあると思っているんだ。」
メキリオは持っていた手荷物をテーブルの上に投げ出す。抑揚の無い冷たい声だ。
やっぱり駄目か…
それでも、何とか自分の気持ちを奮い立たせる。
「ちょっとだって構わない。ヒッチハイクしてでも、連れて行く。エショナをセニエスランドまで連れて行ったら、ちゃんと戻って来るから。」
「お前、セニエスランドとの国境がどれだけ遠いか分かっているのか?第一、シャルアから国境の峠まで荒れ地の連続だ。町もろくに無いぞ。」
メキリオは自分のベッドにドカリと腰を下ろす。
「だったら、沢山水を背負って行く。誰も連れて行ってくれないなら、昼間寝て、夜歩けばまだ楽な筈さ。」
「道も知らないで、何を言っている。エショナを餓死させるつもりか。」
メキリオの声もだんだん大きくなる。そんな事で怯んでいられない。ここで折れてしまったら、望みは叶わないのだから。
「餓死なんてさせない。僕が何としてもエショナの望みを叶えるんだ。僕は本気だ。やって見なければ分からないじゃないか、諦めたらそこでお終いだろ。」
メキリオの前で両足を踏ん張り、腹に力を入れる。
ここで挫けちゃ駄目だ。僕は男だ。
「…どうしても、連れて行くつもりか。それが望みだな。」
緊張しながら頭をフル回転させていたから気付かなかったが、メキリオは鋭い目つきで睨んでいる。だが視線はアルジではなく、アルジの斜め後ろに向いている。思わず、アルジはメキリオの目線の先を振り返る。アルジの2、3歩後ろにエショナが立っている。部屋の中なのにフードを目深に被り俯いている。ランプの光から顔が陰になって表情は見えない。アルジはそれを確認すると、メキリオに向き直る。
「ああ、僕がそうするって決めたんだ。自分1人で決めた結果だよ。」
メキリオの視線が漸くアルジを見据える。暫く2人の男は互いに睨み合ったまま黙っていた。
「お前も森を旅している訳か…もう寝ろ。明日は早いぞ。」
メキリオは目線を外すと、自分の靴紐を解き始める。
これは、アルジの主張を承認したと言う事なのか。それなら、何としてでも、エショナをセニエスランドまで送り届けなければ。どうやって?本当のところ、何の計画もアルジには無い。
「メキリオ…あの、許してくれるのかい?」
何だか、メキリオが怒っている様で、恐る恐る訊いてみる。
「なんだ。駄目だって言ったらやめるのか?」
「駄目でも、行く!」
「じゃあ、しょうがないだろ。…お前を一人前のトルドーに育てるのが俺の使命だ。こんな所で死なれちゃ困る。岩塩を売ったら、馬車で連れて行くから、安心して寝ろ。」
言い終わると、メキリオは靴を脱ぎ棄て、あっという間に服も脱いで、下着だけになると毛布にくるまって寝転ぶ。
なんだって?メキリオが連れて行くって?
相当抵抗される覚悟でいたのに、余りにあっけなくて本当の事の様に思えない。
「ほんと?連れてってくれるのか?」
そう言っても、メキリオは背中を向けて寝たまま、アルジを見ようともしない。
「…ありがとう。それでこそ、メキリオだよ。」
柄にもなくお世辞が口をつく。アルジの精一杯の賛辞も、メキリオは完全無視を決め込む。アルジはエショナを振り返った。彼女はさっきと同じ姿勢で立っている。ずっと俯いたまま、2人の会話を聞いていたのか。
「エショナ、断りも無く、決めてしまって御免。君をセニエスランドまで連れて行くよ。シャルアなんかで独りにしたりしないよ。エショナの家族の元まで送り届けるよ。メキリオと僕が馬車で送って行くから安心して。」
アルジの声は自分でも不思議なくらい静かに、優しく部屋の中に響く。
「…御免なさい。」
エショナは俯いたまま、消え入りそうな小さな声を出す。そっと右手をフードの中の顔に近付け、両方の頬を拭う。彼女の言葉が何故、お礼でなく謝罪なのか、アルジは不思議に思う事すらなかった。