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最終話「会社に行く影」

朝、自分の鍵を閉め、壁一枚のドアを叩く。

ドアを開けると、白嶺様はまだ横になっている。彩華様が足音に反応して駆け寄る。湯を差し、今日の安否だけを置いて、私は外へ出る。社内では二十六度の空気とムンムンという呼び名と、表の数字が待っている。陽太さんと廊下で会い、会いたいをどちらからでも言える距離がある。美咲さんの静かな支えと、玲奈さんの短くて鋭い笑いと、田村係長の届かないボケがある。夜はまた隣のドアを叩き、報告して、自分の床に戻る。

相変わらずの情景だ。

なのに、全部が、かつてとは違う。

かつて分家として生まれ、影として生きてきた私が、今は自分の名前で外に出ている。守る対象だけを見てきた足が、席に座り、自分の文を送り、拒まずに応じた夜も持っている。カイシャの意味すらわからなかった頃から、そう遠くない。それでも今日の私は、月村無月として鍵を持ち、隣に日課を残したまま、昼の側を歩いている。

全ては、白嶺様が「働け」「対等だ」「行け」「自分の想いを一番に守れ」と言い続けたあとに起きた。

最初の一歩は、白嶺様の言葉に押されたものだった。その先の一歩ずつを、途中から自分の判断で選んできた。白嶺様は多くを語らず、家ではだらしなく、会社では背筋を伸ばし、私の人生の歩み方を、先に決めずに見ていてくれた。偉大さは、刀や肩書きの話ではない。影のまま終わらせなかったことの全部だ。感謝は礼の一言では足りない。今の私が外に出られていること自体が、その見守りと、拒否された通帳と、隣への引っ越しの先にある。

『行ってきます』

「遅れるな」

『はい。白嶺様。ありがとう、ございます』

白嶺様は目を細めた。からかうでも、命じるでもない。

「礼はいい。行け。お前の人生だ」

彩華様が手を振り、私は駅へ向かう。スマホの中に、いくつかの名前がある。恋という二字も、会いたいという自分の文も、まだ完成していない。完成させなくていい。続ける、と白嶺様は言った。

会社に行く影は、今日も席に座る。

ムンムンと呼ばれ、数字を合わせ、壁一枚の向こうに帰る場所を残したまま、自分の玄関を朝に閉じる。

これから、自分の人生を歩いていく。

影であったことを捨てはしない。捨てずに、昼の光の中へ、足を出し続ける。

それが、今の私の、普通の一日だ。

——完——

『会社に行く影「無月」』を、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

この物語は、本編『色を斬る母「白嶺」』の脇で始まった、ごく小さな昼の話です。異形も、重い宿命も出てきません。あるのは、社会をほとんど知らない人間がスーツを着て席に座り、上司のジョークを真顔で受け取り、月が二つある名字に戸惑い、会いたいと自分の文で送り、壁一枚の隣に住みながらも日課のように報告に来る——という、普通に見える日々の積み重ねです。

無月を書いた動機は、単純でした。本編で「対等だ」「人生を自分で歩け」と言った白嶺の言葉の、その先を見たかった。剣を置いたあとの彼女が、カイシャという場所で、様々な毎日を生き、恋という二字に戸惑いながらも拒まずに応じた夜まで、影であったことを捨てずに昼へ踏み出した過程を、ゆるく、おかしく、温かく残したかったのです。

白嶺は、多くを教えません。家ではだらしなく、会社では背筋を伸ばし、それでも無月の一覧が影だけに戻らないよう、見守り続けます。美咲、玲奈、陽太、田村係長、彩華——それぞれの距離が、無月の「普通の一日」を支えてくれました。明確な交際宣言を置かなかったのも、手続きより実感が先に来る彼女の歩幅に合わせた結果です。

本編を先に読んでくださった方には、あの戦いのあとの静かな余白として届いていれば幸いです。本編未読の方には、「カイシャって何ですか」から始まる女の子の話として、そのまま受け取ってもらえたら嬉しいです。

会社に行く影は、今日も席に座っています。

ムンムンと呼ばれながら、自分の鍵を朝に閉じる。

その普通が、長く続きますように。

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