#02 -救出の序章-
遥かな昔、空には陽も月も無く、生と死は分かたれず、混沌だけがそこにあった。
やがて世界は昼と夜に分かたれ、さらにその境界より朝と夕が生まれた。
陽は激しさと熱さの中で命を生み出し、月はその命を冷たく静かに奪った。
やがて大地には人が満ち、月は次第に陽に圧され、昼の時代がやってきた。
しかし、今や陽は陰り、昼は夕へと移ろい行こうとしている。
捕えよ、月光の娘を。閉ざせ、宵闇の先導者を。
あるべき時に彼女が現れる時、終わらぬ夜が世界を包むだろう。
その日の風はいつにも増して冷たく、肌を突き抜けて骨に沁みる様だった。
まだ秋も半ばだというのに、まるで冬の様に気温は低い。
石造りの建物はより一層冷え冷えとしたものに映り、まだ赤い葉が木枯らしの中で舞っていた。
ここは王都から遠く離れた辺境の村。
そこの外れにある小さな宿屋に、ある冒険者の一行が滞在していた。
「まだ秋だって言うのに随分冷えるな。ここの温いエールじゃ身体が温まらなさそうだ」
ベッドに腰掛けて天井を仰ぎながら、青年が独り言の様に呟く。
歳は二十の半ばを少し過ぎた辺りだろうか。顔にはまだ少し幼さが残っている。
しかし歳の割にその気配は重く、眼光は獣の様に鋭かった。
鍛え上げられた身体には無数の古傷が残されており、彼が歴戦の戦士である事を物語っている。
青年の名はアベル。ある人を求めて旅をしている、一介の冒険者だ。
「ははは、スコッチか火酒の類でもあればご機嫌ですがな。今はそうもいきますまい」
「全くよ。今がどういう状況なのか分かってて行ってるのかしら」
椅子に腰かけた初老の男性と、その傍に立つ小柄な少女がアベルに反論する。
男性の身体は痩せているものの、しっかりとした厚みがあり、仕立ての良い服にきっちりと髪を整えていた。
少女はくりくりとした吊り目と二つ結びにした栗色の長い髪が特徴的で、長めのローブを纏っている。
男性の名はラインホルトと言い、少女の名はロゼリアという。
「今は我々の度における一番大事な転換点だ。酒は成功した後に取っておこうじゃないか」
窓際近くの壁にもたれ掛かったまま、背の高い女性が薄く笑った。
女性は黒髪を無造作に短く切り揃えており、衣服から覗く手足は鍛えられ美しく引き締まっていた。
腰のベルトには大振りのナイフが一丁吊り下げられており、その気配はまるで刃の様に鋭い。
女性は名をメイズという。遥か東の方の民族の出らしいが、アベル達も詳しい事は知らなかった。
そう、アベル達には民族も、年齢も、身分も関係はない。
ただ『理想』だけが、彼らを固く結んでいるのだ。
「……誰もまだ酒を飲むとは言ってないだろう」
「でも呑むつもりだったんでしょ? アタシがアベルとどれだけ一緒にいると思ってるのかしら」
「おやおや、まるで幼妻気取りじゃないか。アベルも随分と可愛らしいお嫁さんを貰ったものだ」
「そんなんじゃないわよメイズ! いい加減な事言ってるといざという時に治してあげないわよ!?」
「おお、怖い怖い」
メイズがわざとらしく肩を竦めてみせ、顔を赤らめたロゼリアがそれを睨む。
ロゼリアは元々は王都の出で、国立の魔法学校を飛び級で首席卒業したエリートだ。
通常、魔法学校は五年制で十五歳から入学が許されるが、ロゼリアはその魔法学校に十二歳で入学し十五歳で卒業した。
発現した魔術特性は【治癒】と【解析】で、微弱ではあるが他の魔術も扱える。
アベル達と戦う時は、専ら傷の治癒と相手の魔術の解析及び解除を担当していた。
「それで、我らが作戦立案者殿は今どちらにいらっしゃいますかな?」
「アインか? アインなら今は――」
「私ならずっとここにいるわよ」
突如としてメイズの隣に一人の女性が姿を現し、驚いたメイズが一歩横へ動いた。
枝毛一つない紫紺の髪と長い睫毛が特徴のその女性は、まるで彫刻の様に美しいその肢体を場違いな赤いドレスで包んでいた。
妖艶な雰囲気の中にどこか清いものを感じさせる二つの青い瞳が、四人を見つめている。
女性の名はアイン。ルーンを用いたあらゆる原初魔法を操る……魔女だ。
アベル達が彼女から分かっているのはその程度で、アインの生い立ちや年齢などは誰も知らない。
「……何も姿を隠さなくていいじゃないか」
「あら、こう見えて私は結構恥ずかしがり屋なのよ? 今でも顔から火が出ちゃいそうだもの」
「ならもう少し恥ずかしそうな顔をしてから言いなさいよ。全然そう見えないわ」
「まあ冗談はこのくらいにして……誰かに見られていたらまずいでしょう?
声が外に漏れないようにルーンで音を封じて、私がいる事を隠す為に私の姿を不可視にしたのよ。
少なくともこの国の教会と騎士団の連中、あと聖帝国の【長き耳】あたりは私の事を知ってるし」
「ははっ、大人気ですなアイン様は。
今時騎士団の団長でも、ここまで多くの人に追われる者はおりますまい」
ラインホルトが笑い、アインもまた苦笑する。
アインは王国や聖帝国、そして一部の信心深い人間達から絶えず命を狙われている。
普段の立ち振る舞いや言葉の発音を聞く限り、聖帝国のそれなりに高い身分の出である事は確かだが、それが何故命を狙われる事に繋がるのかまでは誰も知らなかった。
――まあ、あれこれ考えても仕方がないか。
軽く頭を振って、アベルが余計な思考を振り払う。今はそんな事を考えている場合ではないのだ。
先にメイズが言っていた通り、今日はアベル達の旅における重要な転換点の一つである。
「さて……それじゃあ今日の作戦について説明するわ。全員、目を閉じて意識を集中して」
アインの言葉に全員が耳を傾け、そして目を閉じ意識を研ぎ澄ます。
瞼を閉じた闇の中で、研ぎ澄まされた頭の中で、アインの声が静かに響いてきた。
《それじゃあ、今から作戦について説明するわね。
場所はここから北東に五キロメートルのところにある【棺】。
遠見の魔法で確認した限りでは、絶えず一個中隊が警備しているわ。それに結界魔術の類も施されてる。
役割は私とアベルが陽動、ラインホルトは援護を。
ロゼリアは結界の解除、メイズはその間のロゼリアの警護を頼むわ。
私とアベルが陽動を引き受ける間、ロゼリアとメイズはその混乱に乗じて別ルートから侵入して頂戴。
ラインホルトはその時々に応じて狙撃で援護を。
結界が解除されたら私は引き続き陽動を続けるから、アベルが中に突入して。
対象を確保し次第、速やかに撤退するわ》
そこでアインの声が途切れ、全員が目を開いた。
――【棺】……実在したのか。
棺とは、教会がある人物を収容する為に特別に造らせたと噂されている施設の名称だ。
その施設は堅牢な石造りで出来ており、さらに強力な結界魔術で守られている。
鍵である【刻印】を持っていなければ、誰もそこには立ち入れないという噂だった。
その詳細は教会によって厳重に隠されており、アベル達も長い間その場所を掴めずにいた。
しかし懸命な調査の甲斐あって、今から少し前に漸く【棺】がこの近辺にあるという情報を掴むことができたのである。
「やっと、私達の旅が始まるのね」
床の方を見つめながら、ロゼリアが両の拳をきゅっと握りしめる。
今まで【棺】の場所を調べ上げる為に数年間、王国を駆け回ってきた。
しかしそれは、アベル達にとってまだ旅ですらない。旅には目的が必要だ。
アベル達はその『目的』を探す為に、今までただ進んでいたのに過ぎない。
「それも中にいる人物を取り返せたらの話よ。終わった様な気持ちでいないで頂戴」
さて、とアインが言葉を継ぐ。
「棺は厳重に警備されていて、その存在は厳重に隠匿されていた。
……中にいるのが誰なのかは、皆何となく察しがついているんじゃないかしら」
アインの言葉に、全員が注目する。
その言葉通り、この場にいる全員がその人物について察しをつけていた。
教会がありがたがるのは死んだ人間だけだ。
しかし死んだ人間をそんな大仰な施設に入れて厳重に警備するというのもおかしな話である。
となれば中にいるのは生きた人間だ。
しかし、大事な人間なら何故本部の目が届くところではなくこんな僻地なのかという疑問が残る。
ならば答えは一つしかない。
生かしておく必要があって、それを疎みながらも護らねばならないもの。
「棺の中に監禁されているのは、間違いなく『月光の娘』よ。それしか考えられないわ」
「……それは皆分かっている。だからこれは大事な転換点なんだ」
アベルのぶっきらぼうな言葉に、アインが意味ありげに微笑む。
その笑みが少しだけ癪に障って、アベルはアインから目を逸らして黙り込んでしまった。
アインは何でも知っている。棺の場所も、月光の娘の事も、アベルの過去に何があったのかも。
――月光の娘、か。
ふう、とアベルがため息を吐く。彼が月光の娘に関わるのはこれが二度目だ。
……否、彼は恐らくずっと、月光の娘に関わり続けている。
そういう星の下に、アベルは生きているのだ。
「さて、説明はこんなところね。
決行は決めた通り夜よ、それまで各自ゆっくり休んでね」
ぱん、とアインが手を叩き、それに合わせてロゼリアとラインホルト、メイズが立ち上がる。
まるで何回も繰り返したかの様に自動的な動きで、三人は部屋を出て行った。
一人部屋にしては少し広い部屋に、二人だけが取り残される。
扉が閉まるのを確認してから、アインは小さくため息を吐いてアベルの方を見た。
「貴方がどうして機嫌を損ねたのか、勿論私は知ってるわ。
……私だけが、と言った方が正しいけど」
「何故言い直す必要があった」
「ドキドキするでしょう? 二人だけの秘密って」
「……下らないな」
「ユーモアの無い人生は味付けされていないスープの様なものよ。幾ら掬っても味はしないわ」
「………………」
何も答えられないアベルの隣に、アインが静かに腰を下ろす。
「貴方の所為じゃないわよ。貴方と私じゃどうしようもなかったんだもの」
「少なくともアインの所為じゃないさ。気にしても、もうどうにもならない」
「……ねえ、アベル。どうしてずっと、彼女を追いかけ続けているの?」
「お前も知っているだろう。ここでは口にできない様な、恐ろしい事を為す為さ」
「それは――」
何かを言いかけて、アインが口を閉ざす。
確かにアベルの言う通り、ここでは口にできない事の為に、二人は月光の娘を追っているのだ。
――けれど、貴方はそれ以上に……。
「ねえ、これは前から言おうと思っていたことだけど」
ずい、とアインがアベルへと顔を寄せる。
「貴方はもう少し自分に素直になった方が可愛いわ。特に自分の気持ちには、ね」
「少なくとも、ここでいらない時間を潰したくないという気持ちは素直に曝け出していたいな」
「……はぁ……」
深いため息と共に、アインの手がアベルの手に重ねられる。
「そういう事が言いたいんじゃないって、分かるでしょう?」
「……ああ、分かってる」
「こんな事、あの三人には言い出せる筈ないものねぇ……」
アベルの耳に、ゆっくりとアインの唇が近づく。
その皮膚に触れるか触れないかの、吐息の温度が直に伝わるくらい近くで、アインの唇が動いた。
「恋した人の為だけに、この世界を滅ぼすだなんて」
その時確かに、アインはそう囁いた。