♭ -魔女の記憶-
「――ねえ」
冷たい闇の中で、凛とした声が響く。
「貴方はこれから、どうしたいのかしら」
血溜まりの中、骸の群れの中で、一人の魔女が戦士に問いかける。
辺りに動くものは無く、死だけが世界に満ち満ちている。
荒れ果てた戦場の跡を、月だけが何事も無かったかの様に照らしていた。
「……どう、したい……?」
戦士の唇が僅かに動き、微かに言葉を漏れ出させる。
その腕には一人の少女の骸が抱かれ、冷たく月光を浴びていた。
――俺は、どうしたい……?
たった今、戦士は己の生きる意味を失った。
命よりも、何よりも大切だった人は、襲い掛かる残酷な『世界』によって引き裂かれ絶たれた。
無力な自分に、護る者を失った自分に、これ以上何を選べと言うのだろうか。
「……俺には、何も選べない……選ぶ事も、もう無い……」
戦士の返答に、魔女は僅かに柳眉を歪ませる。
「そうでしょうね、貴方はもう死んでいるのだから。ただ貴方に自覚が無いだけよ。
今の貴方は死にながら彷徨う屍。或いは燃え尽きた灰よ」
「……何を……」
立ち上がろうとして、戦士の身体が傾く。
立ち上がる事はおろか、指の先まで満足に動きそうにはなかった。
もはや一分の気力、一厘の活力さえも、戦士の身体と魂には残されていなかった。
――嗚呼、俺はもう死んでいるのか。
茫漠と、しかし確実に、戦士は己の死を自覚し始めた。しかしそこに恐怖はない。
今まで彼女が全てだったのだ。彼女こそ我が存在意義であり、たった今それは失われたのだ。
今の自分が死んでいると考えても、何ら不思議ではない。
「――二つ、貴方に未来を選ばせてあげるわ」
魔女が戦士へと手をかざし、魔方陣を展開する。
展開された魔方陣は瞬時に拡大・増殖を始め、瞬く間に魔法式を構築し始めた。
魔法とは数学の様なもの。
然るべき要素が然るべき手順と公式で機能した時に初めて、解である意志は外界へと発現する。
その速さこそが魔術師の実力であるとするなら、魔女のそれは常識を桁外れなまでに超越していた。
無理も無い。魔女は魔術師ではなく――魔法使いなのだから。
「一つ、私に介錯されてここで果てる事。
貴方も私もそれが一番楽な道だし、正直なところ私はこっちを望んでいるわ。
二つ、私と彼女を含む一切を忘れて暮らす事。
貴方は辛いでしょうけど、死ぬ事はないわ。教会の息が掛からない北に行きなさい」
魔法式が完成し、魔力が充填される。
大気中に満ちたマナと魔力によって空気がぱちぱちと音を立てて爆ぜた。
後は引き金を引くだけ。
ただ一度、戦士を『殺す』と想えば、たちまちにしてその意志は反映される。
「さあ、選びなさい。死ぬか、忘れるか」
――忘れる事など、できる筈があるものか。
ただの一瞬たりとも、彼女を忘れた事など無いのだ。
例え魔法で記憶を消されても、例えこの場で脳髄を掬い取られても、忘れる事などできはしない。
――じゃあ、俺はこのまま死ぬのか。ここで全て終わりか。
それも良いか、とその時戦士は考えた。これ以上は耐えられなかった。
彼女のいない世界に、何より胸へ穿たれた穴の大きさに、とても耐えてはいられない。
それならば嘗て共に旅をし、共に戦った魔女によって果てるのも悪くはなかった。
「……俺は……」
お前に殺されたい。そう言うつもりだった。
戦士の頭の中で、少女の在りし日の思い出が次々に浮かんでは消えて行く。
出会った時の事、共に村を出た事、鬼と共に旅をした事、魔女と出会い鬼と別れた事。
そして、最期の別れ。
――あの時、あいつは……。
思い出そうとして、戦士の瞼は大きく開かれる。
あの時、確かに少女の唇は動いていた。戦士に言葉を伝えようとしていた。
何を言おうとしていたのか、何を伝えたかったのか、今ならはっきりと思い出せる。
〈また……私を見つけてね〉
その瞬間に、戦士の選ぶべき道は定まった。
「俺は……どらちの道も選ぶ事はできない」
「――え?」
魔女の顔が、僅かに曇る。その返答を魔女は予想していなかった。
全身の力を掻き集めて剣へと手を伸ばし、集めた力を縒り合わせて戦士が立ち上がる。
「俺はまだ終われない。あの時確かに、俺はあいつの言葉を受け取ったんだ」
不躾にも大剣を杖として、全身を引きずる様にして、戦士は魔女へと歩み寄る。
「また見つけて欲しいって……あの時、確かに……」
戦士が咳き込み、口から血が零れだす。
彼の身体は既に限界を迎えていた。
いつ意識が途絶えても、いつ命が果ててもおかしくはない。
しかし戦士は歩みを止めなかった。
ただ一つの想い、ただ一つの使命だけが、今の彼を動かしている。
「けれど……っ、これは俺だけではできないんだ。だから――」
虚ろな瞳が二つ、一人の魔女の姿を捉える。
その瞳の奥に眠る彼の想いに気づいた時、魔女の目は驚愕によって大きく見開かれた。
「……っ、やめなさい!
自棄になってはいけないわ、そんな道は誰も望まない!」
魔女の制止を振り切って、戦士は歩みを続ける。
一歩ずつ、確実に、戦士は魔女へと近づきつつあった。
「これ以上近づくと本当に撃つわよ! 貴方は絶対にその道を選んではいけないの!」
ぱちぱちと乾いた音がばちばちと鋭い音へと変化し、滞留していた魔力が一点に収束される。
しかし戦士は足を止めず、ついに魔女の目と鼻の先にまで接近した。
「………………」
何かを諦めた様に、魔女が親指と人差し指を擦り合わせる。
緊急停止術式が魔法式の中に組み込まれ、複雑に構築された魔法がまるで砂城を崩すが如くばらばらと瓦解した。
ふぅ、と魔女が小さくため息を吐き、戦士を見つめる。
「……どうしても、この道を選ぶの?」
魔女の問いに、戦士が頷く。
「できる事なら、私は貴方にこの道を選ばせたくはなかった。
これは貴方にとって最も辛い道よ。
貴方がこれまで辿ってきた人生の全てをもう一度――いいえ、それ以上に苦しい道程を歩むことになるのよ。貴方には本当にその覚悟があるのかしら?」
魔女の問いに、戦士がもう一度頷く。
「…………全く……」
迷いの無い戦士の目に、魔女がもう一度ため息を吐く。
軽いものであった先程とは比べものにならない、身体中の空気という空気が全て抜け切ってしまうのではないかと思う程に深く長い溜息だった。
「後悔するわよ、私を選ぶと」
魔女の言葉に戦士は揺るがず、互いの視線は絶えずぶつかり合い溶け合い続けている。
「……どうやら覚悟は決まっている様ね。私の忠告ももう意味を為さないみたいだし」
魔女が僅かに天を仰ぎ、再び戦士へと視線を戻す。
もう一度戦士の方を見つめ直した魔女の手を、戦士が強く握った。
「俺と契約しろ、始原の魔女アイン。
俺の望みが成就されるその時まで、この世界に永い夜が訪れるまで、俺の傍にいてくれ」
「契約を受け入れるわ、月光の導き手アベル。
貴方の望みが成就されるまで、あるべき場所へと彼女が至るまで、私は貴方の傍にいるわ」
アベルの手を、アインが強く握り返す。
二人が結ばれた夜を寿ぐ様に、月は煌々と世界を照らし出していた。




