prologue -月光の娘‐
月の輝きは、死の輝きである。
青白さの中に命はなく、冷たさの中に生は無い。
陽光が命芽吹く輝きであるならば、月光は死に絶えた輝きである。
今や陽は陰り、空はゆったりと死んでいる。
探せ、月光の娘を。導け、死を司る巫女を。
あるべき場所へと彼女が至る時、世界は初めて世界となるだろう。
その建物には、音が無かった。
明り取りの小さな天窓と重厚なマホガニーの扉以外は、堅牢な石壁によって囲まれている。
丁度長方形の形をしたその石造りの建物は、大きな部屋が一つあるだけだ。
剃刀一枚通らない、滑らかで冷たい石壁が、その内側と外側を完璧に隔てていた。
外の音も、風景も、匂いも、何も内側からは分からない。
入ってくる情報は、天窓から微かに見える日と月の動きと、一日三度の食事だけだ。
外界から完全に隔絶されたその建物は、内側にもう一つの世界を形成していた。
何も無い、何も変わらない、全てが死に絶えた世界。
その虚空の中で、一人の少女が天窓の外をぼんやりと見つめていた。
――嗚呼。月の光だけは、いつも変わらないのね。
天窓から仄かに差し込む月光に手をかざして、少女が薄く微笑む。
「だって、月の光は死んでいるんだもの……」
どれくらい前からの事か定かではないが、少女は月光が好きだった。
太陽に手をかざせば、伝わる命の温かさでたちまち肌が焼け付いてしまう。
本人に言わせれば、その身体は死んでいるのだ。命のぬくもりは、死人には暖かすぎる。
しかし、死に絶えた月光に命の温度は無い。死人にはやはり月光が似合いなのだ。
その青白さは月光に良く似た少女の肌を灼く事も、血の雫の様なヴァイオレットの瞳を刺す事も、黒く長い流れる様な髪を焦がす事もないのだ。
床から冷たさが這い上がって来て、少女が軽く身震いする。
夜は、死んだ世界である。しかし少女は、昼よりも夜の方がずっとずっと好きだった。
命のぬくもりを孕んだ太陽の照る昼の世界は、この建物が異質なものであると容赦なく突き付ける。
しかし、夜であれば。少女を取り巻く世界の全ては、夜であれば全て死の世界と成る。
誰も彼もが同じになる。誰も彼もが自分と同じ世界で呼吸する。
「……何て、考える事は間違いかしら……」
もう一度月光に手をかざして、少女が微笑む。
月光は少女の白い肌にきらきらと反射するばかりで、それ以上には何もしない。
一筋の月光が差し込む以外には、全てを冷たい闇が覆っている。
静かで冷たい、素敵な夜だと少女は感じていた。
「……何て、感じてはいけないものね。私は死んでいるんだから……」
少女は、生きていない。
今の少女の状態を、生きているとは言わない。
人が生を感じるに至る感覚の全ては、この石壁が遮断しているのだから。
――嗚呼、そろそろ……眠くなってきたな……。
蕩ける様な微睡みの中で、少女がゆっくりと瞼を閉ざす。
眠っている間だけ、夢の無い眠りに落ちている間だけ、少女は本当に死ぬことができる。
その眠りから解き放たれたのは、本当に突然の出来事だった。
突如響き渡った轟音によって死から引き剥がされた少女は、続く震動によってベッドから転げ落ちた。
「何……? 何なの……!?」
頭の中がたちまちクエスチョンマークで満たされ、訳も分からずその場に立ち尽くす。
ほどなくして二度目の轟音と震動がやってきて、少女は矢も盾もたまらず部屋の隅へと駆けた。
天窓から差し込むのは、今や月光だけではない。
初めて見る紅蓮の輝きが、少女の双眸に鋭く突き刺さった。
「どうしてこんな事……こんな事、今まで一度もなかったのに」
壁を背に崩れ落ち、泣きそうな声で少女が呟く。
何も、分からなかった。今起きている事の全てが、少女には分からなかった。
闇に問うても、返事は返ってこない。返ってくる筈もない。
――でも、何でだろう。
「どうしてなのか……私は知ってる……?」
そこで少女は、弾かれた様に勢いよく前を向いた。
少女の目が真っ直ぐ、マホガニーの扉を見つめる。
厚い扉の向こうから、絶えず罵声と絶叫が聞こえてくる。
初めは微かだった剣戟の音は、今や耳元で鳴る様に近い。
しかし少女は逃げなかった。否……逃げようとしなかった。
例え逃げようとしても、この場から鼠一匹逃げられないのは自明の理である。
しかし、それ以上に……少女は理解していた。
間もなくやってくる『それ』が、避けようの無い運命である事を。
――これが、私の定めなんだ。
誰も教えてはくれないのだから、確証などある筈も無い。
見えないのだから、確かめようなどどこにもない。
しかし、まるでそれが本に記された一節であるかの様に、壁一枚隔てた先の未来を少女は鮮明に感じる事ができた。
「だって、だって……私は――」
頭の中でカチリと、何かと何かが噛み合った様な感覚が芽生える。
半ば自動的に、少女はその言葉を口にしていた。
「私は、月光の娘を孕んでいるんだから……!」
刹那、少女の意識は完全に闇へと滑り落ちた。
光を失った少女の目は、しかし依然として扉の方を見つめている。
「月の輝きは……死の輝きである」
まるで精巧な機械仕掛けの人形の様に、少女の唇が機械的に動く。
少女はそんな言葉など、全く知らなかった。誰からも聞いた覚えなどなかった。
しかしそんな少女を遠く遠く置き去りにして、唇は言葉を紡ぎ続ける。
「青白さの中に命は無く、冷たさの中に生は無い」
再び轟音が響き渡り、石壁や天井が崩壊を始めた。
少女の世界が崩れて行く。
急速に、休むことなく、絶えず途切れる事なく、世界が瓦解し続ける。
「陽光が命芽吹く輝きであるなら、月光は死に絶えた輝きである」
厚いマホガニーの扉に、大きな亀裂が走った。
「今や陽は陰り、空はゆったりと死んでいる」
いつの間にか音は止み、大気を煌々と照らしていた紅蓮も見えなくなっている。
天井が次々と崩れて行き、隔てるものを失った月光が射かけられた矢の様に降り注いだ。
月の光を浴びて、少女の身体が再び動き出す。
少女の身体は自動的に立ち上がり、一歩一歩踏みしめる様に歩き始めた。
「探せ、月光の娘を。導け、死を司る巫女を」
扉が打ち破られ、何者かが建物の中に入ってくる。
少女はその何者かを受け入れる様に、大きく手を広げて微笑んでいた。
「あるべき場所へとわたしが至る時、世界は初めて世界と成るだろう」
崩された世界の残骸と、血と硝煙の匂いに包まれた世界の只中で。
解き放たれた月光の娘は、ただ静かに、そして可憐に微笑んでいた。