9 English Department DAY(3)
立村が心配していた、朝礼中の阿鼻叫喚はなかった。むしろ自然に一部の男子を除いては受け入れられているように見えた。
「君子ちゃんさすが!」
朝なのに疲れ果てた表情で去った麻生先生と入れ替わりに、森宮を労いに飛んできたのがご存知疋田だった。
「いやあ、もう緊張した! 疋田ちゃんのおかげ。立村くん、ほんと助かったあ」
ついさきほどの「怖い女教師」ムードはどこへやら。周りの女子たちとハイタッチを交わしている。
「これは面白いよきっと。だってあの立村くんだよ」
「”グレート・ギャツビー”で立村くんなら誰も文句言わないよ。絶対!」
「お昼休みに他のクラス様子見てこようかなあ」
その立村は江波たちと目でやりとりしつつ、静かに教科書を開いていた。周りが突然大絶賛するのもわかるが、一時間目は物理だ。理数科目ではヒーローにはなれない立村を乙彦は様子見するしかなかった。
「”グレート・ギャツビー”か」
「もう少しおもしろい話ならよかったのに」
となりでそれぞれの感慨を漏らす藤沖と片岡。
「関崎、アメリカ文学で名高いとされる、”グレート・ギャツビー”あるいは”華麗なるギャツビー”、もしくは”偉大なるギャツビー”という小説を知っているか」
「名前だけは知っている。数ページ読んで挫折した」
文学関連は興味がない。ただ、青大附属の英語授業および長期休み中の宿題の中に、とんでもない長文読解のプリントが含まれていること。内部生はその”グレート・ギャツビー”をペーパーバックである程度の分量読ませられ、一部の英語苦手生徒にはトラウマ化しているというのは噂で聞いていた。主に生徒会メンバーからではあるが。ついでに。
「偉大な店の店主の話だと思っていたがあまり興味がなかった」
「そうか。それならいいが、そういうことか」
いつもなら立村についていろいろな因縁を口にする藤沖だが、あえてそれ以上の言葉はなく片岡にだけ声をかけた。
「片岡ならどんなのやりたかったんだ」
「”十五少年漂流記””」
なんとわかりやすい作品か。片岡の密かな夢を感じて、思わず頬が緩む。
「俺もそれは読んだ。はまった。わかる」
「ああいうわくわくする話ならいいんだけど、中学三年の冬休みに読まされたあれやるなんて、みんな寝ちゃうと思う。もっと良い作品あるのに」
「おい片岡、英語劇だぞ。それでいいのか」
びっくりしたように藤沖が問いかける。
「うん、英語劇はいい。あいつが全部背負ってくれるのもいいと思う。けど、おもしろくないのはまずいと思うんだ。話し合いをするんだったら、作品選択について絞ったほうが良いと思う。関崎もやりたい作品選んだほうがいいよ」
━━そんなつまらない作品なのか。
とりあえず休憩時間、生徒会室に行ってくる必要がありそうだ。
「いや、関崎、何もするな。動かなくて良い」
肩にがっしりと手を置く藤沖。
「いつの間にか演劇チームとやらが結成されているのはありがたいことだ。俺たちはそれぞれ忙しい。どうせ古川が戻ってくれば自動解散する。それまでのあいだのガス抜き話題として様子見がベストだ」
どうも古川が戻ってくること前提で物事を考えている藤沖だが、正直それでいいのかとは思う。
「古川が戻ってこなかったとしたらどうする」
「流れに任せる。大丈夫だ。”グレート・ギャツビー”なら、英語万年トップの立村がなんとかしてくれる」
断言口調が、乙彦にはぴんとこなかった。まずは六時間目ロングホームルームを待つことにする。
一時間目から三時間目まではたんたんと過ぎた。十分休もたいして他のクラスの者がくるわけでもない。四時間目、芸術科目の授業で乙彦が書道と向き合っていた間も、英語科デーの英語劇に関する話題は一切上がってこなかった。
━━見事なまでの箝口令だ。
誰かかしら口の軽い奴がばらしたりするものだが、今日に限っては誰も動かなかった。六時間目のロングホームルームを待ちたいという強い意思を感じる。
━━なによりも、今朝までその話題が一切上がってこなかったのが奇跡だ。二週間ものあいだ、なぜ吹奏楽派閥のみで秘密が守られていたのだろう。乙彦が気づかなかったのは生徒会室にこもっていたり、別の問題にかまけていたりしたというのが原因かもしれない。しかし藤沖や片岡が知らず、他男子たちも特に反発するでもなく受け入れ、なによりも。
━━持ち出したのが女子か!
あの、女子受けが悪くそのために評議委員としてのプライドを傷つけられてきた立村がだ。
古川ではない、清坂でもない、ただ吹奏楽派閥⋯⋯人数が増えすぎたので派閥にしておこう⋯⋯というだけの女子から声があがるとは、信じがたいことだ。立村のためには喜ばしいことなのだろうが、いいのか、本当に、英語劇で。しかも、主役で。
本当に何も言わなかった。給食時間も同様だった。
いきなり演出・主演その他もろもろを押し付けられた立村もただただ落ち着いた振る舞いのみ。吹奏楽派閥の連中と話していることに聞き耳を立てたところ、
「三味線の皮って猫の皮が良いと言われているけど、最近は合皮のものも増えているって聞いたよ。この前三味線の勉強している友だちが教えてくれたんだ」
などと、熱心に説明していた。あくまでも和風の話題であり、アメリカ文学の香りはしない。
━━六時間目まで待てない。情報は生徒会室に取りに行く。
女子席の空白をちらと目にしつつ、乙彦は教室を出た。
羽飛と更科がジュースを飲みながらぼんやり座っていた。
「昨日は夜遅く悪かったな。ちゃんとあのこと美里にも言っといた」
羽飛は短く要件をまとめ、にやっと笑った。更科も頷いた。
「あれはまずいよね。俺たちはまだ動けないけど、先生たちがどう動くかまじ心配だね」
「まったくだ」
乙彦も相槌を打った。昨日のアジビラも大事件だが、二年英語科で動きがあったことをこまめに伝えないと、難波にまたどやされる。たまったものではない。
「話をぶったぎるようで悪い。実はうちのクラスで、少しばかり事件が起きたので早めに報告したかったんだ」
「女王様のことか?」
「違う、女王様の弟君だ」
目の前のふたりがジュースを噴き出しそうになっている。わかる。
「立村またあいつ何やらかしたんだよ。ことによっちゃ美里あのままだと骸骨になるぞまじで」
「いや、本来であればめでたい話なんだ」
隠し事ではない。そう、本来であれば、学校の花形になるはずなのだ。
「六月末に英語科デーというのが行われるのは知っているか」
「英語科デー? んなの知らねえ。先生たちからも聞いてねえよ」
「かなり前、結城先輩の入る前にそういうのあったらしいとは噂に聞いたけど。関崎今年それやるの」
勘が鋭いのは更科だ。難波のそばで鍛えられているんだろう。さすがワトスン君。
「そうなんだ。俺も今朝の朝礼で初めて知った。英語科は一年から三年まで三クラスあるが、それぞれのクラスでイベントを行う行事らしい。イングリッシュカフェ、弁論大会、英会話教室、ゴスペル、などなどクラスの任意で決めてよいらしいんだ」
「一歩早めの学校祭って奴か」
「いや、麻生先生が言うには、英語科にチャレンジする中学生を増やしたいらしい」
ふたりが乙彦をじっと見つめ頷く。
「関崎効果だな」
「そういう話ではない。だが六月末まであと二ヶ月だ。ご存知の通りうちのクラスには女王様がいない。藤沖も応援団で忙しい。麻生先生の意向では五月の宿泊研修でじっくり話し合いをして決めるつもりだったと聞いている。だが」
これはぜひ驚かせたいネタである。外部生が内部生に向ける意趣返しとも言う。
「また立村がすっとんきょうなこと言い出して麻生先生にメンチ切ったのかよ」
「いや、立村は落ち着いている。暴れているのはうちのクラスの女子だ。吹奏楽部の女子を中心に何名かが英語劇を上演したいと言い出し、二週間前から台本を用意し、突然立村を主役・演出として指名した。あまりにも突然だ、それだけじゃない、立村は女子受けが悪く苦渋を味合わされていたのを俺は聞いている。あんな内気な立村が演劇なんかできるわけがない。断ってやろうと思ったんだが」
「まさか、あいつ、受けたのか。英語劇の主役を」
羽飛の疑いあふれる眼差しに答えてやった。
「”承知しました”の一言だった」
「ちなみに、どんな劇やるのかなあ」
不安げな更科の言葉にもしっかり答えた。
「”グレート・ギャツビー”だそうだ。内部生が英語長文でトラウマになった作品と聞いた。俺も一ページ読んで眠くなったので正直ストーリー知らないんだが。推薦した女子いわく、”グレート・ギャツビー”といえば立村だろう、というくらい代名詞扱いされている作品らしい」
しばらくふたりは黙っていた。顔を見合わせ頷きあうのはなぜなのか。
外部生の孤独を感じさせようとするのか。たまったものではない。
「ちょっとホームズに報告しとくね」
「俺も美里に言っとく。あと関崎、もう主役、あいつに決定したのか」
揉めることは確実だ。ちゃんと伝えておく。
「六時間目のロングホームルームで議論し問題なければ決定だ」
「そっかそっか。結果がどうであれ放課後詳しく聞かせてくれよな」
そろそろチャイムがなる。急いで五時間目の授業に向かわねば。先に出た乙彦の後ろで、更科と語り合う声がはっきり聞こえた。
「それにしてもさ、立村のはまり役が、浅野内匠頭からグレート・ギャツビーに塗り替えられるなんて、これはめでたいよ。なんとか決まってほしいよね」
「ああもちろんだ。俺もあいつを美里と古川とで全力支援するぞ! やべえことばっか続いているけど、めっちゃ嬉しいことたまにはあってもいいよな!」
━━アジビラの問題なんて忘れてしまえるくらい、嬉しいことなのか。俺も同じだ。
六時間目のロングホームルームに向けて、乙彦はしっかり伸びをした。




