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8 初めてのアジ文字(7)

「みつや書店」のバイトで朝も早いし、さっさと寝るつもりだった。夜十一時過ぎにまた電話が鳴り慌てて飛びついた。まだ両親ともども起きている。頭を下げて詫びを入れたつもりだがあとでなにか言われるのは覚悟した。

━━羽飛だな。

あとで電話する、と羽飛が約束していたのを思い出した。


━━遅くなっちまって悪かった、ごめんごめん。

「いや、俺も寝る前だったから大丈夫だ」

━━関崎明日も早朝バイトだよな。じゃあ手短にいくぞ。待ってなよ。

「いやいや、俺も新しい情報が入ったので伝えたいことがある。目覚ましもしっかり用意しているから安心してくれ」

両親席から吹き出す気配。事実を言っただけなのになんでだ。

━━新しい情報ってなんだ?

「夜八時過ぎに立村から電話がかかってきたんだ。さっきの問題について英語科A組としての取り組みについてと、あといくつかだが」

━━立村からか。あいつもまあ、ほんとは直接俺んとこにかけてほしかったんだが、まあ無理か。とにかく先にそれ聞かせろよ。

のんびりした口調の羽鳥だったが、乙彦が語り始めたとたん、カチッと言葉が切り替わった。


「例のアジビラの件だが、立村が発見して疋田引き連れて南雲に報告し、南雲経由で規律委員の先輩に引き継いで、その流れで生徒会に立ち寄って、最後は職員室ゴールという流れというところまでは同じだ」

━━違うとこあるのかよ。

「あのアジビラ、どうも古川の靴箱に百枚押し込まれていたらしい」

━━え、も一度言ってみろ。

「俺が生徒会室で規律委員の先輩から説明を受けた時は、ビラが二年A組の女子にのみ差し入れられていたという解釈だったんだが、立村の認識では古川の靴箱のみ、ということらしい。念の為疋田にビラの束を数えさせ、それから行動したと話している」

━━まじかよまじかよまじかよ。ちょっと待てよ。やぎさんゆうびんかよそれ。

「羽飛は、規律委員の先輩からどう説明受けたんだ」

━━関崎と一緒。二年A組の女子靴箱にのみ入ってたって話。

「南雲はどう説明したんだ」

━━知らねえ。南雲とはしゃべってねえからな。

そうだった。羽飛と南雲は犬猿の中だった。続ける。

「立村が勘違いしたかあせりまくって間違ったことを伝えてしまったのもしれないが」

━━これものすごく重要なことじゃねえの。関崎、よく考えろよ。俺たちは二年英語科女子の靴箱にやばそうなチラシが入っていてびびっていたけど、まあ、何かのイベント予告かもなあくらいで流そうと思ったら流せる。けど、かの下ネタ女王様の靴箱に百枚の赤い文字がだぞ、どーんと入ってたら、それはなにかあると考えるだろが普通。しかもよりによって今日だぞ、女王様お忍びの午後にだぞ。


羽飛はわざとらしく咳払いをし声を潜めた。周りに誰かいるのだろうか。別に聞かれても困ることは話していないつもりだ。親がいようが乙彦は堂々と話をしたい。


━━俺も学生運動とかアジ文字とかよくわからねえけど、そもそも百枚もコピーできる奴って、高校生にはそうそういないんじゃね、って思うんだ。学校内のコピー室でも多少はお目溢ししてもらってコピーすることもあるけど、まあ目立つよな。

確かに。青大附高のコピー室は生徒であれば利用可能ではあるが、行列ができることも多い。乙彦もよく利用するのだが、試験前は三十分くらいかかるのもざらだ。

━━あんな不気味な文字を学内のコピー室で普通やらねえよ。コピー室にひとりっきりなんてこと滅多にねえし。そうすると、誰かが外で高いコピー代かけて用意したか、あと大学生か中学生か、ってとこだよな。

気づかなかったことに寒気がする。とっくに湯冷めしているからだろう。

━━難波ホームズのおはこを取るわけじゃねえどな。今日の帰りに立村がアジビラを発見した同じ時間帯に、天下の下ネタ女王様はハードコアなお言葉を下々に賜っていたはずだ。だからそんな遅い時間じゃねえ。

「そうだ。俺も立村たちがものすごい勢いで走っているのを見たのは、生徒会室に行く直前だった」

━━だろだろ。そんなに早く、赤文字のビラを仕込める奴、いるか。学校休んでわざわざってのもいるかもしれねえけど、そんなことしたら今日の欠席者絞るだけで一発回答だろ。高校は六時間目まであるから、誰か早引きした奴が犯人かとか考えるだろ。

「すぐに見つかるなそれだと」

━━見つからねえよ! これな、俺の予想だけど、大学生じゃねえかって思う。


「大学生がか。そんな、ガキ臭いことをするのかいい大人が!」

怒鳴ってしまい、両親がじっと乙彦を見る。まずい、流石に夜更けだ。

━━詳しくは難波ホームズ含めて協議するけどな。学内の誰かが下ネタ女王様への叛乱を企んでいるとしか思えねえよ。繰り返すけどな。英語科女子の靴箱だけにビラを撒く程度ならいたずらですむことだけど、一人にだけってことだったらどう考えても、嫌がらせだろ。


━━まさか。

乙彦の中でなにかが叩き折られる音がする。

━━叛乱か。

まさか、今日合わなかった、会計のあいつがか。

いやあいつは大丈夫だ。噂話くらいはまくかもしれないが、チラシをまとめて用意するなどそもそも無理だ。六時間目出ているかどうか確認すればあいつの無実は証明できるはずだ。

頭の中が大波吹き荒れる。

羽飛の言葉で、時化る。


━━さっき、美里が言ってたことなんだが、たぶんお前さんは納得いかないだろうし、反発するだろうって思う。ちゃんと話し合いすればわかり会える、そう信じたい関崎の気持ちもわからねえわけじゃねえ。ただ、今はそんな流暢なこと言ってられねえんだよ。古川は今、どこに住んでるかわからねえし、あいつが今朝学校に来たのも、先生方全員仰天してたくらいなんだぞ。英語科A組で麻生先生、どんな顔してたか知らねえけど、職員室は結構ざわめいてたぞ。

「いや、古川は普通に立村の規律委員ポストについてつっこんだり藤沖捕まえて説教したり女子に宿泊研修の話持ちかけたり色々してたぞ。楽しそうだった」

━━そりゃあ楽しいだろ。日々目の前がぐるんぐるんしてるなか、時間見つけてそりゃ現実逃避したくなるだろ。うちの学校敷地内にいれば、生徒である限り守られるから当然だ。けど、一歩外に出たら最後、古川はどこにも逃げ場所ねえんだぞ。

「羽飛、それどうして知ってる」

少し間をおいて、羽飛はゆっくり答えた。

━━古川が学校に来たことを誰かが電話でご注進しやがって、緊急の職員会議。その前に女王様の下僕たる俺と美里が呼び出され、なんで女王様がお忍びでいらしたんだろうかとしつこく追求されたってわけだ。わからねえよ、んなこと。正直、英語科A組の人間に聞けって思ったけどさ。立村含め誰も知らねえんだよ。いいか、学校側が古川を休ませてたのは、関係ない外野の連中が女王様に斬りつけないようにするためなんだよ。

「古川を守るためということか。学校側がか」

━━そういうこと。俺たちの目には見えないところに、刺客がたくさんいる。同学年だけじゃない。大学生も、もしかしたら教師もだ。あいつの下ネタが耐えがたいとか騒いでいる奴もうちの教師の中には結構いる。青大附高の教師だからといって、古川を守りたいと思ってるわけじゃねえんだ。あいつは今、青大附属に来たらいろんな意味でやばいことになるんだ。それこそ、命の危機ってくらいにな。


つい数時間前の清坂の言葉が蘇る。

━━こずえの命を守るためには、あの子がこの学校を出ていくことも含めて、考えなくちゃいけないってこと。

生徒会室で絞り出すように訴えた言葉。乙彦にはあまったるく聞こえたことを激しく反省する。清坂は自分の命を削るようにして、古川、またすべての生徒たちの「命」に向かい合っている。


「だが、古川は来ている。なんで来たんだ」

声が震えるのが自分でもわかる。羽飛の叱咤にただひれ伏す。

━━古川だってここに来たら何されるかわからねえわけねえよ。でも、来ちまったんだよ。けど本当に、美里が訴えてた通り、あいつの命を守るためには、青大附属の敷地内に足を踏み入れさせてはいけないんだよ。わかるか関崎!」


乙彦は首を振った。両手を黒電話の脇においた。かろうじて呟いた。

「わからない、わからなかった」

━━わりい。俺も言い過ぎた。わかるとしたら立村くらいだよな。関崎落ち込むな。とにかく明日、古川が来たらすぐとっ捕まえて校長室へGO!させろよ。職員室じゃねえぞ、校長室だよ。間違えるなよ。そうしないとほんと、何されるかわからねえ。俺も今から美里に連絡してくる。

「おい、今十一時半近いぞ。まずくないのか:

━━安心しろ。あいつには俺しかできない連絡方法、いろいろあるんだよ。じゃあまた明日な。


電話を切った後、後ろで見守る両親の目に、言い訳するべきかまよった。

「おとひっちゃん、疲れただろ。早く寝なさい」

父の言葉に母も頷いた。おやすみの言葉も言えず、乙彦はそのまま階段を昇るしかなかった。


━━俺は何も、見ていなかったのかもしれない。

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