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8初めてのアジ文字(6)

早めに風呂へ入った後、立村からの電話を待った。

「おとひっちゃん、そんな電話の前に待機してどうするの」

母が笑いをこらえるようにして声をかけてくる。しょうがない。立村からかかってくる場合、どうしても長話になる。家族も聞き耳を立てている。できる限り早めに終わらせたい。

━━大学の授業が終わってから品山に帰るまで一時間近くかかるはずだから、かかってくるとしても夜二十時過ぎにはなるだろう。

乙彦の読み通り、二十時十分頃、じりじりと電話が鳴った。

受話器を取る。乙彦宅の電話は昔からの黒電話だ。シーラカンスの自宅にふさわしいと自分でも思う。


━━関崎、今日はいろいろごめん。

開口一番謝られた。

━━できれば学校にいるうちに関崎にも伝えておきたかったんだけどまさか難波がいるなんて思ってなかったんだ。

「いや、難波はお前と深い話をしたいと言っていた。それはいいことだと思う」

いろいろ理由はつけているけれど、結局のところ難波は立村のことを親しい友人と認識しているのだ。伝わりすぎるくらい伝わってくる。しかも単純明快すぎるではないか、青大附中評議委員会の兄弟分序列を確定させたいという⋯⋯しかも自分を兄にして立村を弟にする⋯⋯という目的まで明確にしている。更科も話していたが、今までは評議四人でしょっちゅう遊んでいたのだろう。長兄:天羽、次男:更科という順もぴんとこないが、難波が三男、立村が末っ子。これはもろぴったりだ。当然だ。立村が永遠の弟分というのは、春休みに羽飛も話していたような気がする。要するに難波は、立村の面倒を見るためしっかり三男としての責任を持ち、後ろ盾として守ってやりたいのだろう。

更科が言う通り、難波は難しいこと言っている割に、単純明快な奴かもしれない。

ただ乙彦に対してはきついあたりだが。


━━難波が言う通り、俺の代だった評議委員男子は鉄壁の団結力を誇っていたんだ。それは本条先輩も褒めてくれていたし認める。でもまさか俺が末っ子扱いされるのはないよな。まあいいよ、難波が満足すれば。

問題とは関係ないことをぼそぼそ呟いた後、

━━それより、さっきの赤い文字のチラシの件なんだけど、どういう流れだったかは誰かから説明受けた?

聞きにくいことを聞いて来た。まさか立村教育が不行き届き問題で平の規律委員先輩に対し難波たちが最敬礼で詫びたなんてことは言えない。ついでに乙彦もひっぱられて礼をし、先輩に労われたなんてこともだ。

「つまり、立村と疋田がわら半紙に”悔い改めよ”とかいう、アジ文字で描かれた紙を、うちのクラスの下駄箱で発見したという話と聞いている。ちょうど教室前の廊下をお前と疋田の規律委員コンビが全速力で駆け抜けていったのを見送ったので大体そういうことかと思っていたが」

━━え、それだけ?説明って。

「いやそういうわけではない。その後俺は生徒会室で難波と更科相手に古川が帰ってきたことについていろいろ話をしていた。喜んでいたぞ。そしたら、規律委員の先輩と南雲が現れて、あのビラを難波に手渡した。難波はビラを丹念に確認し、ここに描かれている文字はアジ文字というかゲバ文字というもので、誰が書いたかわからないようにするために特殊な字体を使っているという説明を行った」

━━難波は筆跡鑑定得意だからな。けどそういう話だけなのか。

なにか答えてほしい様子だが、まさか立村を規律委員の先輩が疫病神扱いしているなんてこと言える理由がない。

「大変なことだとは思っていたようで、職員室で話をしていたらしい。二年A組女子の靴箱に全員分が入っていたとも聞いている。更科もこの資料はほしいと言っていたし俺も必要だと思っている。一枚だけではなく数枚はプリントを生徒会側に回してほしかったと思う。

━━関崎、もう一度確認させてほしいんだけど、規律委員会の人は、うちのクラスの女子の靴箱全員分にだけ、入れてたって言ってたんだよな?

ずいぶんとしつこく確認する立村。心配なのだろう。何度でも答えてやる。

「そうだ。お前さんが南雲にアジ文字で書かれたビラがクラス女子全員に配られていたので不審に思い報告。その後南雲が規律の三年生に報告。規律の三年生は生徒会に立ち寄って説明した後、すぐに職員室へ行き先生がたに報告。ついでに清坂と羽飛とも顔を合わせて情報共有。こういう流れだった」

━━そういうことか。

五秒程度間。家族がじっと乙彦を見つめている。

━━関崎、今まわりに誰もいないか。

「いやいる。家族がいる」

━━聞かれているんだな。わかった。じゃあ今から俺が言う事は相槌だけ打ってほしい。詳しくは明日直接話したい。できなかったら羽飛に伝言しとく。

「なにか、まずいこと言ったのか」

過去の経験⋯⋯立村の前科ともいう⋯⋯から、なにかとんでもないことが動いているのではという予感はある。しかしそれが何なのかは、乙彦が難波に種明かしをしてもらうのと同じレベルでわからない。とにかく、乙彦の家族に知られてはならないことなのだということは理解した。

━━あのチラシなんだけど、古川さんの靴箱にだけ、入ってたんだ。それも百枚くらいまとめて。俺は枚数数えるの苦手だから疋田さんにやってもらったけどそのくらいあったって。たまたまその時は俺と疋田さんと江波しかいなかったし、古川さんもその時は教室にいた。うちのクラスの人たちには気づかれてないと思う。けど、他のクラスや上級生、それと大学の人たちがその事実を知っている可能性は多分にあるんだ。

「江波もいたのか」

━━うん。江波には口止めしといたから大丈夫。けどもう、火消し無理かもしれない。

弱々しい声が受話器から響く。そんなことはない、そう言い聞かせなくてはとはやる気持ちが乙彦の中で勝った。

「なに言っているんだ立村、お前の考えは今回のことに限っていえば悲観的すぎる。お前は男女問わず思いやりを持って接する、男子としては非常に珍しい性格の男だしそれは全力で認めたい。だが、頭の中でこねくりまわしああだこうだ言う間に古川は笑顔で戻ってきた。無理に代行も用意せずにすむ。疋田がはしゃいでいるのを立村が抑えれば規律委員も平和だ。しかも、南雲が立村を非公式ながら書記に上げようとしていると、難波と更科に伝えたらたいそう喜んでたぞ。お前がとうとう本気出すつもりなんだなと、まさに手と手を取り合う感じでだ。だから難波もお前を支えるために品山詣でしようとしているんだろう。あいつは小難しいこと言い出して、学生運動だとかアジ文字とかゲバ文字とかアジビラとかアジ看とかわけのわからないことを説明していたが、要は古川の事情も現実が凌駕して無事丸くおさまりそうだと喜んでいるだけだ。清坂もいろいろ古川のことでは心配して、古川の命を最優先に守るとかなり保守的な発言をしていたし、場合によっては古川が退学することもうけいれるとか言ってたが、当の古川があの調子、相変わらず全開であることを踏まえれば、そんなことはあっさり無視できる。あとはうちのクラスで古川が評議委員であることをしっかり認識し、藤沖を尻に敷いてもらい、さらにお前がクラスのためにきっちり仕事をしていることを周りに知らしめれば、このことは丸く収まる。おそらくだが、古川も夜逃げしたあと居場所が無事みつかったんだろう。でなければあんなに明るく振る舞えない。お前は古川がわざと元気なふりをしていると心配していたし、いろんな噂が流れていて傷ついているんじゃないか、青大附属に戻って来ないほうがいいんでないか、そればかり話していたがそれはお前の頭の中だけで描かれた妄想に過ぎない。現実は予想をはるかに上回る。安心しろ。俺も難波と同じくお前の味方だ」

言い切った。そうしておかないと立村の性格上また、引っ込んでしまうだろう。うちの家族にばれて困ることは一言も入れていない。

━━関崎、今ご家族いらっしゃるんだよな。

立村の声がかすれて聞こえる。

「ああいるが、別に隠すことなんてないぞ、なんでそんなに隠したがるんだ」

━━現実は予想をはるかに上回る、ほんとそのとおりだと思う。このことは学校で話すことにする。それとなんだけど、明日別件で、クラスにてイベントの発表が行われるはずなんだけど。

「イベント? 宿泊研修のことか。古川も考えてるぞきっと。とりあえずお前は疋田を黙らせる⋯⋯」

━━いや、古川さんとは直接関係なくて、今回そのイベントでびっくりする発表があると思うんだ。詳しいことはまだ言えない。一応その、覚悟はしておいてほしいってこと。

「俺に関係あるのか?」

━━関係ないわけではないけど、むしろ俺のほうかな。クラス内は騒ぎになると思う。大丈夫、俺が学校辞めるとか、そういう話じゃないし、基本は楽しいこと。だけど、たぶんもめる。古川さんが明日くればどうかわからないけど、来なかったら。

「だからなんで古川のことをそう悲観的に取るんだ。人のことを言える立場じゃないが、お前は女子を見下していると言われてもしょうがないぞ」

━━確かに。古川さんは強いよ。でも今回だけは。

また言葉を切った。

━━うちの親の車のエンジンの音が聞こえたから、とりあえずここまでにする。また明日詳しいこと話す。ごめん。おやすみなさい。

どうやら立村が自分の親に知られたくないことだったらしい。

「わかった、明日話そう。しつこいようだが俺はお前が復活するのを待っている」

━━ありがとう。

かたっと音が聞こえた。乙彦も受話器をおいた。思わず両手を二回叩いた。


━━立村さすがだ! 大手柄じゃないか!

立村はあのチラシが二年A組英語科女子に配られず、古川の靴箱に押し込まれていたことを確認し、すぐそれを取り出し、規律委員の、かの、平の先輩に引き継ぐべく行動を開始したのだろう。なぜ二年英語科女子の靴箱に全部配られているなどと説明されたのかはきっと引き継ぎ時南雲あたりが間違えたのだろう。疋田の説明間違いかもしれないがそんなのはどうでもいい。なによりも立村は、古川が無駄に傷つくことを防ぎ、早めに教師引き継ぎを行い、対処を行ったのだ。

もちろん清坂たちが心配するのは理解できなくもない。なにせ清坂は古川の親友だ。それも裏事情ありありの家庭を受け入れられないかもしれない、と心配されるほどの潔癖さを持っている。しかし蓋を開ければあっさり親友の事情を受け入れている。もちろん名倉は古川のことを許せない存在としてみているが、実際古川本人はさまざまな攻撃を下ネタ爆弾も含めて打ち返してる。要は心配しなくたっていい、ということだ。

━━これで古川は学校側でしっかり守られる。名倉は噂を流す程度のことはしたかもしれないが、そもそもこんなチラシをまけるだろうか。そんなわけない。そんなことしてたら一発でばれる。不要な罪を犯すことなく、古川も帰ってきて、なんかわからないが立村も規律委員で評価される。いいように回っているとなぜお前ら気づかないんだ?

元評議チームは、頭でっかちすぎて現実を受け入れていないだけのような気がしてならない。とりあえずはあす、立村と話そうと思う。


「おとひっちゃん、ひとつ気になることがあるんだが、いいか」

父が突然、硬い口調で乙彦を呼んだ。

それでも「おとひっちゃん」のままということは、怒っていないということでもある。

「何?」

「青大附属では、学生運動が盛んなのか」

「学生運動って」

たしか難波もアジ文字説明時に学生運動について触れていた。もっともあいつもこれから勉強するとは言っていたが。

「よくわからないが、アジ文字とかゲバ文字とかいうものを使う集団らしいとは、生徒会の仲間から教えてもらった」

「ということは、おとひっちゃん、学生運動に関わっていないということだな」

念を押された。

「関わるも何も、それがなんなのかわからないんだ」

やはりかいつまんで家族にも説明しておいたほうがいい。今立村に話したことをそのまんま伝えた。


父の表情は重かった。母もちらと乙彦のほうを見つめ、

「そのお嬢さん、なんでもないといいんだけどね」

父のほうを見やった。

「そうだな。これは大事になるかもしれないな。おとひっちゃん、先生とは連携をしっかりとっておくんだよ」

━━父さん、立村と近い思考回路持ってたか?

よくわからないがとりあえずは頷いておいた。

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