7 どんでん返し(10)
江波は具体的に何かを訴えることはあまりしない。
──いや、一度だけ。
去年行われたクラス合宿の際に、藤沖を糾弾する発言を確かにしていた。
ただあの時は、合唱コンクールの後という特殊な事情もあって、藤沖がたまたま不利な立場に立たされていただけとも言える。麻生先生の火消しも成功して、幸いそれ以降は口を閉ざしている。陰で何か言われたのかもしれないと想像はしているが、特にそれを訴えるでもない。
──だが、立村とはあの後極度に親しくなっている。
合唱コンクールを境に、立村が乙彦たちと距離を縮めてくれれば事は簡単だったのだがうまくいかないものだ。音楽という共通の話題をきっかけに、江波および疋田とはいつのまにかトリオのように行動することも増えている。
そう考えると、最近の江波なり疋田なりの言動は、立村が影響を与えていると考えてもいいのではないか。
──今回に限っては、藤沖がいつもの古川に投げっぱなしにできないという面倒な点を除き、仕方ない部分もある。
こうなったら仕方ない。流れに任せて疋田をこき使うしかない。
藤沖にはそう言いくるめるしかない。
「じゃあ、私が一時的に合宿までの間、古川さんの仕事を一部兼任するってことでいいですか? いいですよね!」
半ば強引な疋田の言葉に、麻生先生も顔をしかめていたがやがてあきらめの境地に達したらしい。やけっぱちともいえる笑顔を浮かべた。
「ここまで本気をかまされたら、もうしゃあねえなあ。おい藤沖」
「はい」
「担任命令だ。合宿が終わるまでは、このままやらせてやれ。お前もいろいろしんどいだろうが、がんばれよ」
爆笑がわき起こる。疋田は特に気を悪くしたでもなく、
「じゃあよろしくね、藤沖くん」
あっけらかんと言い放った。腹も座っているとみた。
藤沖の顔が恐ろしいこととなっているのは予想がつく。あとで慰めが必要だろう。とりあえずカラオケにでも誘ってやるか、それとも朝のランニングでも声かけてやるか、いろいろ考えていた時だった。
扉が勢いよく開け放たれた。
疋田が最初に目をやり、両手で口を覆った。
麻生先生も思わず後ろに一歩引いた。
乙彦の後ろでどすの利いた声がする。
「よくぞ、よくぞ来た!」
クラス全員がどよめいた。
「おっはよーごーざいます! 古川こずえ、英語科A組に無事復活でございます! なーにみんな幽霊見てるような顔してるわけ? もっと喜びなさいよみんな、ってか立村、あんたなんで私をそんなほうけた顔で見てるわけ? さてはあんた私がいない間相当たまってるんじゃないの?」
いつもながらの朝の一言。
下ネタ女王様帰還。
おめでたいはずだった。
普通ならば、みな拍手を持って迎えるはずだった。
それが古川こずえのもつキャラクターのはずだった。
「こずえちゃん、お帰り」
ためらうように疋田が声をかけた。
「疋田ちゃん、なんか廊下にも盛り上がりの声がすごかったけど、何やってたの? あ、それ麻生先生に聞いたほういいっか。先生、朝からお盛んですけど、だれかいい子いましたか?」
「古川、復活はめでたいが一応遅刻だ。立村、あとで違反カード切ってやれ。それと、まずは座れ」
麻生先生も動揺を隠し切れないのだろうか。いつものような軽い調子でのやりとりではない。担任らしく、いや、いつもらしくなく古川に接している。
乙彦の隣に来て、ぽんと肩を叩く古川。
「おーい、お久しぶり! どう? 相変わらず朝は元気?」
見上げると、そこには一か月前とほぼ変わらない顔の古川がいた。
もう引き払い済みのマンションで、ほとんど何もない中クラスの今後について語っていた、くそまじめな古川の表情ではなかった。
「元気でなによりだ」
あっさりと乙彦もかわすしかなかった。
一方で抱きしめんばかりに手を伸ばすのは藤沖でハイタッチをかわす。
「間に合った、助かった!」
「なにが助かったってのよ。私がいない間相当大変だったようだけど、でもまあ安心しなさいよ。私の今後は安泰よん。んで、噂によると私、自動的に評議のままなんだって?」
「不服か?」
麻生先生がおそるおそるといった風に尋ねる。
古川は大きく笑顔で首を振った。
「まっさか! このクラスを愛してやまない私がなんでせっかくの評議の座を手放すって! 疋田ちゃん、いろいろ心配してくれてごめんね。どっちにしてもあとは私が全力で取り戻すから、疋田ちゃんは規律に戻っちゃっていいよ。だってあれだよ、立村ひとりで規律やらせたらまた勝手に落ち込んじまって面倒なことになっちゃったら、やじゃないの。さあてと、先生、今まで何話し合ってたの?」
疋田はしばらく教壇の上で立ちすくんでいた。チョークを握りしめている。
麻生先生が疋田に指示を出した。
「疋田、もういい。あとは古川とこれから相談しよう」
その上で、ゆっくりと古川へ、
「お前が戻ってきたなら、今のところはこれ以上なんも考えなくていいことだ。まあ、これからは勉強大変だぞ。しっかり補習するからな! 覚悟しとけよ!」
「そればかりはノーサンキュー!」
おちゃらけた口調の古川が笑顔を振りまいても、なぜか今のクラス内には跳ね返りのようなものがなかった。拍手もなし、ただ戸惑いのみといった空気が流れていた。帰ってきてめでたいと喜び合い、藤沖以外の連中ともハイタッチをかわすのが、本来はお似合いのクラスのはずだった。
──どうしたんだ、いったい。




