残った火
朝の兵舎は、乾ききらない布の匂いがした。レオンが寝台から足を下ろすと、靴の中で靴下が冷たく貼りついた。目を閉じたのは夜明け近くだったが、外ではもう荷車が動いている。
ホバンは左前腕の布を歯で引こうとして、ネマに手をたたかれていた。
「汚すんじゃないよ。巻き直すなら治療所へ行きな」
「緩んだだけだろ」
「あんたが分かるなら、昨日も自分で縫ったかい」
レオンは口を挟みかけ、足首を痛めた男も連れていくようホバンへ頼んだ。リーネからは、2人とも軽傷だが、汚れを残さず数日は負担を避けるよう言われている。
ゴルドは壁際で上着を着ていた。腕を通す動作が遅い。今日の荷運びから外すと伝えると、彼は分かっていると言い、斧の革を調べるだけにした。
班の者が食事の器を集め、別の者が泥をこそげた靴を並べた。レオンも自分の靴底を確かめた。継いだ部分が少し浮いている。ネマへ全部を押しつけないよう、汚れを落とし、必要な糸を探すところまで済ませた。
外郭への立入りが認められたのは、正規兵が周囲を確認してからだった。戻った作業場では、昨夜あったはずの壁の端が欠けていた。地面には深い蹄の跡が残り、倒れた柵の向こうへ続いている。
庇の残りも地面へ落ちていた。ゴルドが柱を動かした場所へ近づこうとすると、監督兵が範囲を示す縄を張った。もう潜るなという命令だった。
レオンは縄の外で、サイラスに昨夜の順序を報告した。柵が破られた時点で撤退を始めたこと、別班の負傷者を運んだこと、庇が倒れて通路を塞いだことを、覚えている限り時刻と結びつけた。
「そこで使っていた油は、移動済みの分と重複していないか」
サイラスに聞かれ、レオンは答えを止めた。灯りへ出した量と、倉庫から移した容器の数が、頭の中で混ざっていた。
「補給係に照合して、改めて報告します」
「分からないまま書くな。戦闘の報告も、見たことと聞いたことを分けろ」
サイラスは紙に印をつけた。撤退は認めた条件の範囲だと確認したが、失った資材の確認は別に続く。レオンも、全員戻ったから報告が終わりになるとは思わなかった。
サイラスが戻ろうとしたとき、レオンは黒岩外哨への道について尋ねた。ダンを残してきた地点は、提出した記録に書いてある。いつか通れるようになるなら、回収する者へ伝えてほしかった。
「現状では、あの道へ出す部隊は組めん」
「分かっています。今すぐにとは言いません。ただ、記録を残しておいてください」
サイラスは短くうなずき、提出済みの紙と照合すると答えた。約束されたのは、それだけだった。
レオンは折れた柵へ目を戻した。ダンなら土台の石を先に見ただろうかと考えたが、本人の返事が聞けるはずはなかった。兵舎に置いた定規を思い出し、次に必要なときは使おうと決めた。
倉庫の残りを数えるため、ラザルが監督兵と来た。くたびれた上着の裾をつまみ、泥を踏む場所を選んでいる。
「昨日のうちに運んでおけば、今日この仕事はなかったんですがね」
「運べるだけの時間があったか、先に計算してくれ」
ガレスが言うと、ラザルは言い返しかけて口を閉じた。班は昨日も途中で休ませねばならず、荷を受ける側にも限りがあった。
「全部は無理でした。布と油を先にしたのは、変えなくていいと思います」
彼は濡れた受領票を台へ広げた。レオンは手元の控えを出し、灯りに使った分を指で示した。補給係の兵が封の残る容器を数え、割れたものを別に置く。
単純に残りを引けばよいと思っていたが、破れた袋の中身は地面へ混じり、どの束だったか分からない材木もあった。推測になる箇所は空欄のままにし、監督兵に現物を見てもらった。
「数えられない分まで、なくなっていないことにはできませんから」
ラザルが言った。レオンはうなずき、泥に濡れた欄の端へ、確認中と書き足した。
昼の休憩に、ガレスは昨夜レオンが立っていた曲がり角へ来た。消えた灯りの台座が、横倒しになっている。
「何が見えた」
「小門と、ここまで戻ってくる人は見えました。北の班は、倉庫の陰で見えませんでした」
「知らせが来るまで、負傷者がいたことも分からなかったな」
レオンは雨の中から現れた男の顔を思い出した。こちらへ来る間、その男の班でも人手が減っていた。
「隣の班と、先に連絡する場所を決めるべきでした。俺たちの伝令だけでは、向こうの状況が分かりません」
ガレスはうなずいた。それから南の足場を指した。
「あちらへ担架を回せば、すぐに助かったと思うか」
レオンは首を振った。自分の班だけなら通れても、馬と別班が合流していた。足場を直したことは無駄ではないが、どんな状況でも通れる道にはなっていなかった。
「柱が動かなかったら、待たせていたと思います」
「なら、次はその前に何を知るか考えろ。俺も、馬の退避が重なることを見積もれていなかった」
ガレスは指導する声のまま、自分の見落としを口にした。レオンは顔を上げた。
「俺がもっと早く下がっていれば」
「その時刻を決める材料を書け。ただ早くと言うだけでは、次にまた迷う」
レオンは紙へ、隣接班との連絡と、退避を始める順序を書いた。柱を動かして戻れたことも記したが、その隣には、ゴルドが動けなくなれば支える者が要ると加えた。
少し離れた場所で、ラザルが東の排水路を見ていた。レオンに気づくと、これを道として使わなくてよかったですねと言う。
「図面を見たときは、通れると思いましたか」
「通る可能性はあると思いました。ですが、図面を覚えていることと、今の穴の広さを知っていることは違います」
ラザルは根の張った土を靴先でつつき、すぐにやめた。
「あなたがそのまま人を入れていたら、私の間違いも、もう少し高くついていたでしょう」
「次も、現地を確かめます」
「私にも結果を寄越してください。古い情報を、いつまでも使いたくはないので」
戻る途中、レオンは支えてもらったゴルドの姿を思い出した。ラザルへ、最後まで動けた人数だけでは昨日のことは分からないと言うと、彼は意外そうに顔を向けた。
「戻した人間の方が、残した資材より、次に働けます」
そう言ってから、少し間があった。
「ただ、明日も同じように働けるかは、別に聞かなければいけませんね」
レオンはうなずいた。言い方は気になったが、その先を尋ねる前に、ラザルは監督兵へ呼び戻された。
午後、治療所ではユリウが窓を開けていた。レオンを見ると、昨夜の負傷者について尋ねた。別班の男は処置を受け、脚を固定されて眠っている。これからどう歩けるようになるかは、まだ分からなかった。
「皆、戻ったんですね」
「ああ。俺たちの班は、全員戻ったよ」
ユリウは息をつき、寝台の端へ座った。少しして、俺も外にいられたらと言いかける。その声が途切れたので、レオンは昨日ネマが担架を確かめたことを伝えた。
「君の箱も使った。留め具がすぐに出せたよ」
ユリウは膝を見たまま、箱の蓋が緩んでいないか確かめてほしいと言った。レオンは持ち帰ると約束した。出撃の話を再び始めることは、どちらもしなかった。
夕方になって、迂回路から先行の補給便が到着した。大きな輸送車は通れず、小さな荷車へ積み替えた分だけだという。門の近くに人が集まったが、監督兵が作業の邪魔をするなと追い戻した。
レオンも班の者と荷を下ろした。豆と麦、少しの干し菜が帳簿へ加わり、薬や油の足りない分は次の便へ残された。橋が直ったわけではない。補給係は新しい予定を書く前に、到着した量から計算し直した。
夜の煮込みには、朝より具があった。レオンが器を運ぶと、足首を痛めた男が席を詰め、ゴルドの分まで置く場所を空けた。
若い盾兵は、ネマから渡された木の匙を使っていた。口へ運ぶたびに匙の先を見ているので、ホバンが食うたび減るわけじゃないぞと言った。
「落としたら、名前を書いときゃ分かるだろ」
「もう書いてあります」
盾兵が柄を返すと、薄い傷で文字が刻まれていた。ネマは見ている暇があったら温かいうちに食べなと追い払う。ミラが、自由になってもそれで肉を食べるのと尋ねると、肉には刃物が欲しいですと返り、卓に笑いが広がった。
レオンも笑った。器へ目を落とすと、指の震えは収まっていた。隣のミラが小さく肩を寄せたが、何も言わなかった。
食後、控えを返すため倉庫へ向かうと、南門に荷車が並んでいた。補給の車とは違い、空の箱や交換用の車輪まで積んでいる。南側の倉庫では、数日前から新しい板が使われていた。
ラザルが受領票を抱えて歩いてきた。レオンが荷車を見ていることに気づき、少し足を緩める。
「南へ運ぶ物が増えていますね」
「要塞から出すんですか」
「置き場を変えているだけかもしれません。私は行き先の命令までは読めませんから」
レオンは北東で残した材木を思い出した。同じ要塞の中で、使う場所は選ばれている。今ある荷を守る仕事だけでは、分からないことが多すぎた。
ラザルが倉庫へ戻るのを見送り、レオンは兵舎への道でガレスを待った。南門の様子を伝えると、彼はしばらく門の方を見ていた。
「撤退の準備だと思いますか」
「荷の置き方だけでは決められん。補給を受け直すためかもしれん」
「もし、ここを維持できなくなったら」
レオンは言葉を切った。ガレスは先を急かさなかった。
「俺たちや、灰谷村の人たちは、誰が連れ出すんですか」
「その命令を、俺たちは知らされていない」
兵舎の窓に灯りがともっていた。中では誰かが、明日の当番を読み上げている。レオンは左腕の隷属環へ触れ、すぐに手を離した。
今日、班の者は全員戻った。その先も戻る場所があるのか、今度は誰に尋ねればいいのか。彼は窓の前で少し立ち止まり、それから、自分を呼ぶ声へ返事をして戸を開けた。




