おまけ:羽鳥恭一の恋愛事情③
社長室に入った瞬間、篠原は不機嫌を隠そうともしないまま「新婚ながらに本日もご出勤とは大変熱心でございますね」と早口に告げて盛大にため息を吐いた。
篠原の言い分はよく分かる。俺が休みということは篠原も休みだったはずで、きっと休日を恋人と満喫していたのだろう。だからと思って俺だって気を遣って篠原を呼び出したりしていないし、今日も会社に逃げてくるだけで仕事をしようとは思ってもいなかった。
それでもどういう情報網なのか、篠原は俺の出社を知ってこうして会社にやってきた。それも、不機嫌を伴わせて。
「……すまない」
「謝罪は結構です。明日の仕事を前倒しにされますか?」
「そうしたい」
秘書という責任感からやってきたのだろう篠原を思えば、仕事をせずに帰るなどということは出来そうにもない。大人しく渡されるファイルに目を通し、書類には印鑑を押す。さすがに会食などは今日は休日予定なために入っておらず、ダラダラと一日が終わりそうである。
「……それで。新婚で蜜月という幸せ絶頂の社長が休日出勤とは……ああ、拒否されましたか?」
バサッと躊躇いなく切り込んでくる篠原の口調はいつも通り淡々としていて他意は感じられない。悔し紛れに睨んでみるが、不機嫌な目で応戦されては何も言い返せなかった。そもそも篠原がここに来たのは彼の責任感からとはいえ、もともと俺が出社したためなのだ。彼の不機嫌は俺に責任がある。
「……拒否はされなかった。それは素晴らしい一夜を過ごせた」
「良かったですね。ではその翌日に甘い朝を過ごされるでもなくこうして仕事へやってきたのは、年甲斐もなく猿のように盛ってしまいそうなご自身を戒めるためでしょうか?」
「……違う。が、なんだ篠原、相談に乗ってくれるのか」
「……お言葉ですが……」
ぎらりと篠原の目が光った。それには無意識に背筋が伸びる。
「貴方と奥様のことに振り回されるのはいい加減懲り懲りです。貴方が奥様のためにと仕事の予定を強引に変更されたことは何度あったかご存知で? それだけではありません。奥様関連のことでうじうじとまるで思春期の乙女のように悩まれて、その度仕事も手につかない始末。新婚初夜の後ですらその状態の今、このまま放置すればどのような未来が訪れるのかは目に見えています。それだけです」
「……す、すまない……」
本当に篠原には世話になっている。他に二人ほど秘書が居るが、さすがは秘書室のチーフなだけはあり、やはり一番敏腕なのはこの篠原である。
「……その……架南が、俺を好きなのかわからないまま手を出してしまったんだ」
「それで」
「それでって……いけないことだろう。架南は箱入り娘だったんだぞ。それこそ、初夜が初体験だという愛らしい娘だ。彼女はきっと、好きでもない男と寝るという意味がどういうことなのか分かっていない。それなのに俺はまるで騙すように抱いてしまった」
言葉にすれば気が落ちてしまって、座り心地の良いその椅子に深くもたれかけた。
しかし俺のそんな様子を横目に、篠原はとてつもなく長いため息を吐き出すと、小さく「くだらない」と呟く。
「……聞き捨てならないな。くだらないとは」
「言葉が悪かったならば謝罪致しますよ。奥様を好きでもない男と寝る女だと軽視しているのかと思ったために、そんな言い方になりました。申し訳ありません」
「そんなこと思っているわけがないだろう」
「思っているんですよ、貴方の言葉を噛み砕いて考えれば。ご自身の言葉をお忘れですか?」
「……そ、れは……」
確かに、そういう風に捉えられても仕方のない言い方をしたのかもしれない。
しかし言いたかったのはそういうことではない。
「……俺も言い方が悪かったな。そうではなくて、男性経験のない架南が、慣れている俺に流されて抱かれた形になってしまったことが気がかりなんだ」
そういった事の流れは把握している。だからこそ、慣れている俺に流されて、彼女がついその気になってしまったのではないかと不安にもなる。
今頃家で一人で落ち込んでいるかもしれない。あんなことをしなければ良かったと。
「――アホらしい」
「おい。くだらないの次がそれか」
「慣れているなら分かるでしょう。女性が望んでいない時の目の色。……そもそも、貴方が誘った時に奥様は少しでも抵抗したんですか? 誘った時点で、ですよ」
「されていない、が……」
「ベッドに行く前に拒否されていないなら、まだ理性が効いている冷静な時に受け入れてもらえたってことでしょう。やはり貴方は奥様を軽視しておりますね。好きでもない男に抱かれるビッチだと」
「口が悪いぞ篠原。それ以上は許さない」
「あえて、です。貴方の態度とその考えを悪く言えばつまりそういうことですよ」
パタン、と、篠原は持っていたファイルを閉じた。そして俺の机まで歩み寄ってくると、机上に散らばっている書類をささっとまとめて持ち去ってしまう。
「お帰りください、社長。仕方がないので、明日も休みでよろしいですよ。ですからくだらないこと考えていないで奥様のところに戻られて、蜜月をやり直してくださいね」
私も生殺しの恋人を迎えに行きます、と不穏な言葉を残した篠原によって、俺は無理やりにもその部屋から追い出された。
しかし、やり直せと言われてもどうすれば良いのだろうか。
彼女に「俺のことをどう思っているか」と直接的に聞くべきか。しかし、これまでと変わらない態度を今も取られているということは、絶対に俺の望む返事は返らない。
ともなれば、彼女はますます俺から離れていってしまうのではないか。
いや、彼女はそこまで薄情ではないはずだ。仮にも俺は「初恋の相手」であり、一度はそういった感情を向けられていた人間なのだから。
(……まあ、俺のことを『お姉さん』だと本気で思っていたようだが……)
この場合、初恋の相手は正しく俺であると捉えて良いものなのだろうか。何故だか彼女の「初恋」は、俺ではない別の者に向けられていたのではないかとすら思えてきた。
そもそも、彼女は俺が「お姉さん」だと思ったからあれほどに心を解いてくれていたのだ。その前提条件が無ければ、彼女は俺になど見向きもしなかったかもしれない。
(……待て待て。これはもしかすれば、最悪なことに気がついてしまったのか……?)
――もしかしたら、初恋の可能性さえも危ういのかもしれない。
「羽鳥社長」
専用エレベーターから降りたところで、第二秘書の松木が駆け寄ってきた。松木もまた、俺の急な出勤に会社へと足を運んだ一人なのだろう。結婚を控えた男が居ると言っており寿退社間近だと噂される松木はしかし、堂々と「結婚しても仕事は続ける」と豪語している。それに対して相手は「仕事は辞めてほしい」の一点張りらしいのだが……松木は「美人だ」と言われる部類の女性であるし、男ばかりの秘書課に置いておくのが不安な気持ちはよくわかる。これに関しては相手の男に同情したものだ。
「すまないな、急に。もう帰るよ」
「そうでしたか。それでは私はチーフと打ち合わせてから失礼いたします」
「……篠原が居るとよく分かったな」
「社長が居るのにチーフが居ないことなんて、今まで一度もありませんでしたから」
「そうか……」
「あら、社長。ネクタイが曲がっておりますよ」
そう言って丁寧に俺のネクタイを直すと、ふふ、と上品に微笑んで、松木はエレベーターへと乗り込んだ。
急遽取り付けたように会社に来たため、今日は運転手はいない。そのため乗り慣れない運転席に座ってエンジンをかけるまでは順調だったのだが、そこから動く気にもなれずにハンドルにもたれかかった。
はたして、このまま帰っても良いものだろうか。
もしかしたら今頃、俺があらゆることに気づいたように彼女も色々と気づいてしまい、悶々としているのではないだろうか。もしそうであれば、俺が帰っては気まずい思いをするのでは……。
「…………女々しいな」
悔しいほど振り回されている。酸いも甘いも知っている年上にではなく、無垢で純粋な箱入り娘の十五も年下の異性に。
「帰ろう」
結局何を考えても手放すなんて出来ないのだから、意味はないのかもしれない。うじうじしていたって離れられないなら、これから好きになってもらえればそれで良い気もしてくる。
そして両思いになった頃合で、今日思ったことを笑い話にするのもありだろう。
(……そうだ。帰ってから仕切り直して、惚れてもらえるように頑張ればいい)
考え方が偏っているのかもしれないが、そうでもしないと我に返った彼女がいつ「実家に帰ります」なんて言い出すかわからない。
これはいち早く会いに帰らなければと、ようやく決意したというのに。
「お帰りなさいませ、羽鳥様」
エントランスホールで俺を出迎えた垣田は、俺の前に出てきた瞬間にポロリと放った言葉を無かったことにするかのように、いつもの言葉を口にした。
「……聞こえていたぞ」
「はい?」
俺にはしっかりと、その胡散臭い笑顔での「お帰りなさいませ」の前に言われた言葉が届いていた。
じろりと睨むように見るが、垣田はただ首を傾げるばかりである。
「……最悪ですね、と言ったな」
「まさか。そのような失礼なこと……」
「理由を言え。……まさか、架南に何かあったのか?」
彼女の名前を出せば、垣田は少しばかり目を見開く。
「その通りでございます」
「いったい何があったんだ」
「そうですねえ……架南様が出かけようとこちらに降りてこられた際、お話の流れからうっかり、そううっかり羽鳥様のお仕事はお休みであるはずだという事を言ってしまったんです。篠原からあなたのスケジュールを聞いておりますから」
「…………どういうことだ」
「篠原は羽鳥様の出社日にはいつもいるでしょう? 私が彼に羽鳥様の出社した旨を伝えているのです。篠原もそのために、私に羽鳥様のスケジュールを教えております」
だからいつもいつも篠原は現れるわけかと合点がいった。そもそもこの二人が同級生だという時点でなんらかの連携はとっているのだろうと思ってはいたが――いや、今はそうじゃない。
「それで、うっかり、架南に喋ったと」
「申し訳ございません。しかし……羽鳥様」
一歩、垣田が踏み込んだ。何の真似だと動かずに居ると、俺の首元に顔を寄せた垣田はそこでふんと鼻を鳴らす。何が気に食わなかったのかわからないが、一瞬眉を寄せた垣田はしかし、いつものような微笑みを浮かべる。
「香水を付ける場所を知っておりますか?」
「は……俺はつけていないが」
「存じておりますよ。……どうぞ、お部屋に」
それでいったい彼女はどういう様子だったんだと聞こうにも、垣田はすでに奥の部屋へと戻ってしまっている。あの男は少し――いや、かなり篠原と気が合う。それだけでもう俺からすればなかなか警戒したいのだが、切れ者だというのも確かである。彼女に仕事がないということがバレているという心構えを持って帰ろうと、足早にエレベーターに乗り込んだ。
思い出してみれば、彼女が一度ネットカフェに居たというあの時、垣田は飄々と「ああ、羽鳥様と入れ違いで出て行かれましたよ」と言ってのけた。垣田曰く「引き止めろと指示を受けていない」とのことらしく、さらには「架南様もこのマンションの居住者になりますので、快適なサポートをいたしませんと」とのことらしい。彼女が逃げ出すことを「快適なサポート」だと言った垣田のあの顔は一生忘れないだろう。まったく見事な笑みだった。
彼女が帰ったら報告するようにと言付けると、確かに連絡を入れてきたはいいが「逃げ出した奥様が戻ってこられましたよ」と一言余計な言葉までついていた。しかも垣田は彼女が「奥様」ではないことを知っているにも関わらず、あえてそういう言い方をする。
篠原にしろ垣田にしろ――あの年代はどこか性格がねじ曲がっているのではないだろうか。
「ただいま」
午前中に家を出て昼間に帰ってくるという、休日出勤にしても今までにない勤務時間ではあったが、俺の仕事のことをあまり知らないであろう彼女はきっと気にも留めないだろう。
今は好都合ではあるのだが、なんだか寂しい気もする。
「……おかえり」
その声は、彼女の寝室から聞こえてきた。
振り返れば、扉を少しだけ開けて片目だけを覗かせている彼女と目が合う。
――結婚してからというもの、彼女は気を遣ってかリビングで俺の帰りを待ってくれていた。今日は違うんだなと、本当に女々しいことにそんなことを思ってしまう。
「……すまなかった、急用だったとはいえ、仕事に行って」
「別に……」
じとー、と俺を見るその目は、片目しか確認できないがどこか訝しげな色がある。
彼女が、俺の仕事が嘘だったと知って怒るという可能性は低いはずだ。本当の夫婦だったならともかく、俺たちはまだ始まる前で、彼女の中で俺という存在はそこまで大きくない。
しかし、単純に「嘘をついていた」ということはまずかったのかもしれない。けれどはたして、彼女は本当に俺が嘘をついたくらいで怒ってくれるのだろうか。
(……ダメだな。自信がなくなってきた……)
あまりにも消極的な思考を一度頭の片隅に追いやって、落ち着いて彼女を見つめる。
これが垣田が言っていた「最悪ですね」という言葉の意味だろうか。
いったい何があってそんな目で俺を見ているのだろう。
「……その……どうして出てこないんだ、架南」
いつまでそこに居るつもりなんだと歩み寄れば、扉の隙間が少しだけ縮まってしまう。
無理矢理にでも開けてしまおうかという気持ちからさらに歩み寄ったのだが、目の前で扉を完全に閉じられてしまった。
「架南……?」
呼びかけても返事はない。気配を読むなんてできない俺は、すぐそこに彼女が居るのかどうかも分からなかった。
「……架南、すまない。俺が何かしてしまったんだろう?」
一度出てきてくれないかと、なんとも情けない声が出る。彼女はそれをどう思ったのか、扉が開くことはなかった。
「……私に、何か言うことあるんじゃないの」
愛想のないその声は、彼女の機嫌の悪さを明らかにしていた。
言われたことを考えて思い当たることといえば、俺がここに来るまでに考えていたことだ。
彼女はもしかしたら、好きでもない男に触れられて気分を悪くしたのかもしれない。しかしそれならば「言いたいこと」と言われるのは違うように思う。
では、仕事だと嘘をついたことだろうか。それだと、彼女の機嫌が悪いという現実とどうにも結びつかないのだが……彼女の機嫌が悪くなるようなことで俺がしてしまったこと、と絞って考えてみてもどうしても答えは出ない。
「……すまない、架南。思いつかないんだが……はっきりと言ってほしい。その……俺に何か直すべきところがあるんだろう?」
扉の向こうが、再度沈黙する。
それにハラハラとした気持ちを持て余しながら待っていると、微かに息を吸う音がした。
「…………浮気者」
それはまるで、呪詛のように低く。
本当に小さな声だったのだが、いわれのないその呪詛は正しく俺の耳に届き、そして無理矢理に扉をこじ開ける理由には充分だった。
「どういうことだ」
「ぎゃあ! ちょっと開けないでよ! マナー違反!」
いつものように俺の服を勝手に着ている彼女は、入ってきた俺を見てすぐに部屋の奥へと逃げていく。
しかし今の言葉の意味を知るまでは逃せないために扉を後ろ手にしっかりと閉めると、大股に彼女を追いかけた。
「架南」
「来ないで、私知ってるんだからね」
「……何を」
ビシ、と両手を前にして拒否をされればそれ以上は近寄ることなんて出来ず、唸るように聞き返すので精一杯である。
惚れた弱みなのか、強引にでも迫ればいいものを、いちいち彼女の言うことを聞いてしまう。
「今日、呼び出しなんてなかったんでしょ」
「……それは、謝る」
言うべきことはこれだったのかと、無駄にいろいろと考えていた自分が恥ずかしくなった。まずは謝罪すべきなのは当然だ。しかしそれでどうして彼女が不機嫌なのかが分からなくて、先に彼女が不機嫌な理由を探してしまっていた。
「いい、別に。もうはっきりしたし。ふん。背中刺されればいいのに」
「どういう意味だそれは」
「香水の匂いした! どうせ私が初めてだったからって満足できなくてどっか他所で女を抱いてきたんでしょ! 恭ちゃんの女遊びなんか今に始まったことじゃないしどうでもいいけど、私はあんたのハーレムには混ざらないからね!」
――香水を付ける場所を知っておりますか?
蘇った垣田の言葉が突き刺さる。
(そういう意味か……!)
確かに会社で松木にネクタイを直してもらった。松木は少しキツめの香水をつけているし、ネクタイを直す際に手首が擦り付けられて移り香になったかもしれないが、
(はっきりと言え)
「言い訳がましくなるが、ただの誤解だ」
「別にいいって言ってるじゃない。ふん。勝手によろしくやってれば」
「……架南」
「……経験豊富なお姉さまに勝てるなんて思ってないし……別に……恭ちゃんはお偉いさんだしそんな見た目だから選り取り見取りなんだろうし、いいんじゃないの」
彼女は不機嫌にそう言って、ツンと顔を背けた。
――これは、嫉妬をしてくれているのだろうか。しかし嫉妬をしてくれているとなると、彼女も俺のことを好きになってくれたと思ってしまうのだが……。
急に色づいてきたその可能性に期待しそうになる衝動を抑え、部屋の隅っこで三角座りを始めてしまった彼女へと近づく。
「架南、嘘をついたことはすまない。だが浮気をしに行っていたわけではないし、その……架南の言う『夜の相手』とも、この一年は連絡をとっていない。信じてほしい」
「それならなんで嘘ついたの」
「……それは……初めての体験で疲れたんじゃないかと……このまま一緒に居たら、また手を出してしまうかもしれなかったんだ」
そんなもっともらしい言葉を並べて、彼女の様子を伺う。
彼女の気持ちが分からなくて不安で逃げ出したと、そんな情けない「本当の理由」を言う必要はないだろう。
「――ふぅん」
「信じてないな」
「浮気者」
「ほら信じてない」
「……脱いで」
ど直球で大胆な誘い文句だなと彼女を見下ろせば、鋭く睨む目が俺を見上げていた。どうやら他意はないらしい。移り香のするこの服を着ていることが気に食わないのだろうか。
スーツを脱ぎ、ネクタイを緩めて外せば、首元に感じていた窮屈さから開放された。そうして残されたシャツも脱いで投げると、彼女の目が一瞬、脱ぎ捨てたシャツを追いかける。俺は普段からシャツやスーツを絶対にハンガーに掛けるために、そんな仕草が意外だったのかもしれない。
「あと何をしたら、キミは俺を信じてくれる」
聞くけれど、彼女は迷うように視線を下げてしまった。
そうして、少しの後。
「……浮気したら、私だって浮気するから」
言ってすぐ、勢い良く立ち上がったかと思えば、彼女はまるで突進するかのように抱きついてきた。
ぎゅうぎゅうと背に回された腕が俺を柔らかく拘束するのだが、その勢いに負けて後ろにあったベッドに一緒に倒れ込んでしまう。
彼女の全体重が俺にかかっている。どこもかしこもふにゃふにゃとしたその身体は心地よい重さで、何よりも脚が絶妙に絡んでいるために気をそらすことに精一杯である。彼女はきっとその位置に脚を置くことの意味を分かっていない。少しでも動かされたら危険だ。主に俺の理性が。
「浮気した……」
「……してない。篠原に証言させる。さっきまで会ってたんだ」
「香水の匂いちょっとした」
「それは会社で会った別の秘書のだろう。――言っておくが、その秘書には結婚間近の相手が居る。俺は無実だ」
「ふーん」
もぞ、と彼女が身体を揺らす。脚を動かされることはなかったが、このままではいつ危険が起きるかわからないために、体勢をひっくり返した。
俺の下に居る彼女の背中に手を回して抱き込めば、少し躊躇ったあとに彼女の腕も俺を包み込む。
「重い。どいて」
「架南が手を離してくれないと無理だよ」
「……恭ちゃんだって離して」
「それこそ無理だな。俺はいつだってキミに触れていたい」
「どうせいろんな人に言ってるくせに」
「どうしてそう疑う」
「…………だって……」
口ごもった彼女は、それでも言いたくないのか、誤魔化すようにぎゅうぎゅうと腕の力を強める。
俺が「逃げ出した理由」は、どうやら杞憂だったらしい。篠原の言うように、彼女は好きでもない男に身体を許すような女性ではなかった。冷静になって考えれば分かることなのだが、それはこうして彼女の感情を察した余裕から生まれた結論であって、あの時は冷静になんてなれなかったと言い訳をしておこう。
「好きだよ、架南。キミが疑うことなんて何もない」
「……うん……」
「どうした?」
もごもごと何かを言ったようだが、残念ながら聞き取れなかった。次こそはと耳を寄せると、そこに吹き込まれるように、おおいに躊躇いを含んだ言葉が小さく紡がれる。
「また……する……?」
――俺はもしかしたら、とんでもない小悪魔に捕まったのかもしれない。
一瞬で顔つきが変わった自覚はある。彼女がそんな俺を見て何かを言いかけた唇を、言葉ごと飲み込むように深く塞いだ。




