灰色の道のり(フィオレンティナ)
「フィオレンティナ様。次の町で休憩を挟みますか」
「どうでもよろしくてよ。貴方達のお好きなようになさって」
「ふ……『エルミーニの薔薇』は相変わらずのようですね」
フィオレンティナは、王家の遣いと共にデルイエロの町を南下した。
もうかれこれ一時間は経っただろうか。時々休憩として立ち止まりつつ、馬にまたがり王都を目指す。到着は何日後になるかも分からない。
ただただ彼等に従い王都へ向かう道のりは、フィオレンティナの心を苦しめた。
「くれぐれも、逃げ出すなど無駄なことを考えませんように」
「……逃げたりなんかいたしませんわ。逃げたところで、どうせノヴァリス伯爵家に嫌がらせでもするのでしょう?」
「助かります。さすがこちらの思惑までよくお分かりで」
男達は口の端を上げ、下種な笑みを浮かべる。吐き気がするほど『王子の犬』だ。
フィオレンティナは、前後の様子を見回した。男の乗った馬が二頭、後ろにも二頭。
正直、この程度の者達であれば逃げ切れそうだ。馬の腕には自信がある。
けれどもし自分が逃げたなら――
王子クラウディオがノヴァリス伯爵家に何をしでかすか分からない。
それだけは駄目だ。あの場所だけは、安穏としたままでいて欲しかった。たとえ、フィオレンティナがいなくても。
(それにしても、ずいぶんと早いお迎えでしたわね……十日も持たなかったのではなくて? あのマリエッタとかいう娘、もう逃げ出したのかしら)
フィオレンティナは、アルベロンドに来てからの毎日を指折り数えた。
一日の終りには、その日を無事に過ごせたことを噛み締めて眠りについた。その次の日も、またその次の日もこの平穏が続くことを祈りながら。
そう願いつつも、あのような幸せな日々が続くとは思えなかった。
王子がフィオレンティナを放っておくわけがない。新しい婚約者――お妃候補となったマリエッタが、あのお妃教育に耐えられるはずないのだから。
お妃教育は、朝から晩まで教師陣からみっちりと指導される、それはそれは厳しいものだ。教師は付きっきりになって、マナーから教養・歴史や外交問題についてまで、あらゆる知識を際限なく詰め込んでいく。
それは次期王妃となる者としての内面を鍛えていくものであり、逆に表面だけを取り繕うことは決して許されない。
選びぬかれた教師達の慧眼を前にすれば、たとえマリエッタがどれだけ愛嬌を振りまいてもごまかすことは出来ないだろう。王子クラウディオや取り巻きの男達には通用した泣き落としや色仕掛けも、役に立つとは思えない。
マリエッタにとっては、最悪の環境なのだ。
「わたくしが王都へ帰ってしまっては、マリエッタ様が怖がるのではなくて?」
「いえ、問題ございませんよ。マリエッタ様は『側妃でかまわない』と仰っておりますから」
「まあ……」
(笑えるほど予想通りで困りますわね)
それとなくマリエッタの様子を探ってみれば、やはり彼女はお妃教育に音を上げたらしい。
早々に正妃の座を諦め、側妃に収まって甘い汁を吸おうという魂胆である。
そのたくましさは称賛に値するかもしれないが……フィオレンティナにとっては迷惑以外の何物でもなかった。
彼女の気まぐれのせいで、再びアルベロンドを離れることになるなんて。
もっとジルベルトのそばにいたかった。
彼との未来を手に入れたかった。
犬ではなく、一人の人間として。
『僕は将来、ジャスミンと結婚したい』
『……ジルベルト、いい? 犬とは結婚できないの。ジャスミンが人間だったらいいのだけど』
『じゃあジャスミン、人間になってよ。そしたら僕達結婚できる』
幼いジルベルトと、今は亡きノヴァリス伯爵夫人の会話が、脳裏によみがえった。
わがままを言うジルベルトに、夫人が困っていたのを覚えている。子供時代のジルベルトがジャスミンにしがみついて離れなかったことも。
『ねえ、ジャスミン。僕と結婚してくれるよね?』
可愛らしいプロポーズに、ジャスミンは『ワン』と喜んで返事をした。そんな愛しい思い出を大切に抱いたまま、ジャスミンは生涯を終えた。
そして念願の人間へと生まれ変わったはずなのに。
涙が出た。今ならあのプロポーズにも頷けるのに、もうそれは叶わない。
早く、ジルベルトとの間に確かなものが欲しかった。たとえ、強引だと言われても――
「おや、フィオレンティナ様、泣いておられるのですか」
「……女性の泣き顔を見るのはマナー違反でしてよ」
「そんなに王都へお戻りになるのが嫌ですか。参りましたね……」
男達はちっとも参ってなどいない顔で、ニヤニヤとフィオレンティナを振り返る。
悔しさを顔ににじませるほど、彼等は喜ぶ。だから涙など、絶対に見せたくはなかったのに。
「俺達が慰めて差し上げましょうか」
「え……?」
「次の町で宿をとりましょう。ね、フィオレンティナ様」
フィオレンティナが逃げられないと分かっていて、とことん卑劣な男達は町へと急ぐ。
「あ、貴方達、何をなさるおつもり?」
「今さら何を仰るのですか。貴女は数多の男を誑かしてきたフィオレンティナ・エルミーニでしょう」
「誰も誑かしてなんかおりませんわ!」
「何を仰っても説得力がありませんよ。今もこうして我々の同情を誘っているのでしょう?」
そうだった。王都の人間には、フィオレンティナの言葉など通じないのだった。
たとえ真実を伝えたとしても、信じてはもらえない。痛いほど分かっていたつもりだったのに。
ジルベルトはなにもかも、丸ごと信じてくれたから。
忘れてしまっていたかもしれない。
真実を信じてもらえないことに、こんなにも絶望を感じるなんて――
逃げたい。ノヴァリス伯爵家に帰りたい。
永遠に、町になど着かなければいいのに。
フィオレンティナが馬の歩みを止めた、その時。
「……!!」
耳をつんざくような猟銃の音があたりに響く。
よく見れば、男達の馬の足元に銃弾の跡が残っている。
それは、わざわざ外して撃ったような跡。
「誰だ!」
男達は剣を抜き、慌ててあたりを警戒した。
その間にも一発、猟銃の音。足元の雪がえぐれる。
(な、何事ですの……!?)
フィオレンティナは、男達の背中越しに目を凝らす。
前方に、猟銃をかまえる馬上の男。
迷いのない姿勢は、まっすぐにこちらに狙いを定めている。
(まさか――)
乱れた銀髪、瞳には強い怒り。
そこには、銃口を向けたジルベルトが待ち構えていた。




